吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「桜田門外ノ変」ゆかりの地を歩く

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安政七年(1860)三月三日、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩におこって幕政改革をめざした尊王攘夷思想は、倒幕運動へと変わっていく。襲撃現場の指揮者・関鉄之助を主人公に、桜田事変の全貌を描ききった歴史小説の大作」(著作案内から)

桜田門外ノ変』のゆかりの地を歩く

 

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 前日、品川宿に集結

事件前日、浪士達は品川宿に集まっていました。当時の品川宿の日常は、薩摩藩下屋敷藩士や、増上寺の僧侶たちの姿が多く見られ、怪しまれる危険が少なかったようです。
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「鉄之介は、稲葉屋の男に案内されて最後の打合わせ場所である相模屋に行った。土蔵相模と称されているように土蔵づくりの大きな妓楼で、かれは玄関に入った。」
 

 すでに当時の建物はなく、相模屋の跡にはお洒落なマンションが建っていました。稲毛屋もその並びにあったようです。 

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「井伊大老の登城は、今までの探査の結果、五ツ半(午前九時)頃である。そのため、大事をとって五ツ(午前八時)には一同、桜田門外におもむくこと。さらに、それ以前に芝の愛宕山の山頂に集結する。
鉄之介は、最後に岡部三十郎と部屋を出た。・・・激しい降雪だった。・・・高輪南町の海ぞいの道を選んだ。」

 下の写真は、江戸の南玄関、高輪大木戸の跡。

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「車町を過ぎ、松平紀伊下屋敷の門前をすぎて左への道をたどった。人の姿はない。」

 品川宿の相模屋を発った関鉄之助らは、東海道の海岸沿いを歩き、辻の札を左に折れ、一同の集合場所である愛宕山をめざしたのです。イメージ 15

翌朝、雪の中、綱坂を上がる 

芝三田「津國屋」(つのくにや)は明治26年に建てられた酒処。現在は酒屋が経営している居酒屋なので、全国の地酒がお手頃な値段でいただけます。場所は慶応大学の隣。いつもサラリーマンを中心に賑わっています。お昼には格安のランチ定食もいただけます。私は、BS-TBSの「吉田類の酒場放浪記」で知りました。ちなみに、手前にある「ラーメン二郎三田本店」は長蛇の列でした。
関鉄之助らは、この脇を通って綱坂を歩いていきました。イメージ 16
 
「・・・二人は塀ぞいの道を右へ進み、綱坂をのぼった。雪がすべり、何度か手をついた」

 向かって左側が津島藩の支藩砂土原藩邸(現在は綱町三井俱楽部)で右側は会津藩邸(現在はイタリア大使館

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綱坂を登り詰めると、左手に綱町三井俱楽部の表玄関が現れます。
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 神明坂を下り、中之橋を渡る

龍原寺に沿って、長く緩やかな神明坂を下ります。途中に元神明宮が左に見えます。                                   
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「登り坂がつづき、中の橋を渡った。」

 桜田門外ノ変の翌年、万延元年(1861年)ハリスの秘書兼通訳のオランダ人ヘンリー・ヒュースケンは、この中之橋近くで攘夷派の薩摩藩士ら七人に襲われ、殺害されます。

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中之橋を渡り、増上寺元敷地を幾度か曲がると、大通りに出ます。虎ノ門ヒルズの方向に歩くと、愛宕神社の鳥居と長い急階段が目の前に現れます。
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 集結場所の愛宕山が見えてくる

「そこから増上寺境内の裏手にあたる道を幾曲がりかすると、左手に円福寺の山門が見えてきた。その右手に愛宕山に通じる長い石段がのびている。」 

愛宕神社の急階段は今も昔も変わらないのでしょう。目が眩みそうになるほどの急勾配です。
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「山上には愛宕権現の社があって、かたわらに茶屋があり、縁台に腰かけている多くの男の姿が見えた。」

 皆さん、息を切らしながらお参りされています。 

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当時、茶屋だったその場所には、現在、ソムリエ田崎真也がプロデュースした茶屋風フレンチのお洒落なお店があります。
また、この場所は、勝海舟西郷隆盛に江戸の街並みを見せながら無血開城の必要性を訴えた場所とも伝えられています。
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神社鳥居の脇に桜田烈士愛宕山遺跡碑が建てられています。
桜田烈士愛宕山遺蹟碑」は昭和16年(1941)に建立。 碑の裏に18名全員の名と、当日の様子が刻まれています。 題字を揮毫したのは、当時の東京市長大久保留次郎
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その頃、井伊直弼江戸城に参内する準備をしていた 
彦根藩井伊家は、千代田区永田町の憲政記念館の南庭外にあります。
江戸時代初期は熊本藩主、加藤清正の居住地でしたが、1632(寛永9)年に彦根藩井伊家の上屋敷となり、明治期に入ります。
下の井戸は、屋敷の表門外にありました。1860(安政7)年3月3日、大老井伊直弼は、この井戸の脇を通って、登城するため桜田門に向かいました。
なお、この井戸は、1968(昭和43)年、道路工事のため、10メートル離れた現在地に移設されています。
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井伊直弼の籠は桜田門に向かう

桜の時期に彦根藩井伊家上屋敷から桜田門を撮りました。
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「雪につつまれた行列が近づき、藩主の華やかな駕籠が目の前をすぎた。短い橋を渡って桜田門の中に吸いこまれるように入ってゆく。その時、短銃の発射音が一発とどろき、それまで濠端と松平大隈守の屋敷の塀ぎわに立っていた同志たちが、一斉に抜刀して切り込んだ。」
「指揮官の関鉄之助は膝を震わせながら見守っていた。」
「かれらは、三々五々、濠沿いの道を、或る者は血刀をさげ、或る者は傷口に手をあてて歩き、日比谷門を左折した。・・・濠ぞいに北へとむかい、馬場先門前を過ぎた。」
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「歩行が困難であったが、井伊大老の首をかかえてよろめきがら和田倉門前をすぎ、辰の口の若年寄遠藤但馬守屋敷の門前にいたった。」 

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「深傷を負った広岡は、さらに北へと歩いて、大手門外の酒井雅樂守の屋敷外まできて、歩くことができなくなって腰を落とした。」

 下の写真は、酒井家雅樂守上屋敷跡に遺されている将門首塚の解説版。

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徳川家の居城の正門だけあって、ここの警備は厳重をきわめ、10万石以上の譜代諸侯がその守衛にあたっていました。番侍10人(うち番頭1人、物頭1人)がつねに肩衣を着て、平士は羽織袴でひかえ、鉄砲20挺、弓10張、長柄20筋、持筒2挺、持弓2組をそなえ警戒にあたっていたそうです。      イメージ 12吉村昭

 桜田門外ノ変のあと、もう一つ、余話があった

『史実を歩く』に「桜田門外ノ変」余話があります。
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吉村昭「史実を歩く」によると、
「この闘争で四人の彦根藩士と一人の水戸藩士が斬殺されたが、それを目前にした彦根藩士が、その場からのがれて身をふるわせていたというのでる。
・・・桜田門外の乱闘があった時、現場から逃げた。彦根藩士が、刀を捨て、雪の降る多摩川を越えて寺の前で倒れた。
・・・当時の住職が助けて事情をきくと、もしも藩邸にもどれば、なぜ死ぬまで藩主を守って闘わなかったのか、となじられ、必ず切腹を命じられる。それが怖しく、ここまで逃げてきた、と言った。
・・・藩士は、広福寺の末寺の寺男になって身をひそませ、生涯を終えたという。」

 実際に広福寺に訪れてみました。

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広福寺は、川崎市多摩区(生田緑地)の枡形城址(枡形山)の北側のふもとにある寺院で、その門には、「稲毛領主菩提寺 稲毛領館」と書かれた扁額が懸けられています。鎌倉時代に中興されたと言われています。(川崎市教育委員会
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階段を上がると、本堂があります。その脇に彦根藩士の辞世の碑が建てられています。
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石碑は、上部一部が欠けています。
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 「彦城隠士」と刻まれた意味

辞世は崩し字で判読できませんが、碑の裏には、「彦根隠士 畑権助 法名秀元」『文久三年、歳七十五で建之」と刻まれています。彦根藩士ではなく、「彦城隠士」という文字に思いが込められているように感じられます。
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桜田門外ノ変ゆかりの地マップ