吉村昭『彰義隊』から上野戦争の爪痕を巡る
吉村昭の最後の歴史小説『彰義隊』
吉村昭は、生まれ故郷である日暮里や上野界隈を舞台とした上野戦争を小説にすることを望んでいたものの、躊躇していたと創作ノートで触れています。
それは、一日で朝廷軍に敗れる彰義隊を描くことの難しさ故です。
しかし、ある時、上野寛永寺山主・輪王寺宮能久親王を主人公にすることを思いつくわけです。それまで、輪王寺宮は、寛永寺を本営とする彰義隊に守護されていましたが、彰義隊が朝廷軍に敗れたあと、どのように落ちのびていったのか定かでなかったのです。
皇族でありながら、戊辰戦争で朝敵となった輪王寺宮は、思いかけず朝敵となり、さらには会津、米沢、仙台と諸国を落ちのびていくのです。
吉村昭の最後の歴史小説「彰義隊」は、輪王寺宮の数奇な人生を通して江戸の終焉を描いた感動の作品です。
ここでは、現存する上野戦争にまつわる史跡や輪王寺宮の江戸での足跡を追ってみることにします。
まずは、吉村昭の生まれ故郷である日暮里駅から歩き始めます。遠方には東京スカイツリーが見えています。
吉村昭の最後の随筆集『ひとり旅』の中に「濁水の中を歩く輪王寺宮」の章があります。
私の生れ育ったのは、山手線沿線の日暮里町である。幕末の江戸切絵図には、「根岸、谷中、日暮里」としておさめられ、大半が田地とされている。高台から眺めると「日の暮るるを忘る」ほど景色が良く、江戸名勝地の一つとされていたことから「日暮しの里」日暮里となったのである。
朝廷軍の弾痕が残る「経王寺」
日暮里駅南改札から石階段で高台に上がります。高台は、一面広大な谷中霊園です。道路に面した所に「経王寺」があります。
「経王寺」は、日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称しています。慶応4年(1868)の上野戦争の時、敗走した彰義隊をかくまったため、朝廷軍の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っています。
歴史が香る谷中の小径
境内に面した道を真っ直ぐ進むと、谷中銀座です。手前に「夕やけだんだん」があります。平日のしかも昼前ですが、結構賑やかです。最近では外国人観光客の姿が多いことに気がつきます。
ここから、谷中霊園、上野公園に目指して小径を歩きます。この辺りは、昔ながらの風情が残っていて歩くのも苦になりません。
この写真は、「初音小路」という小さな飲み屋街です。昭和レトロの佇まいが何とも言えません。
こちらは大正の頃の建物でしょうか。今も上手く建物を活かしているようです。
脇道に入ると築地塀(観音寺)も見ることができます。どこか遠くに来たような気がしてきます。この築地塀には、今も上野戦争の弾痕が残っていると言われています。国の登録有形文化財です。
この道沿いには、朝倉彫塑館や幸田露伴旧宅跡、北原白秋旧宅などがあります。また、おしゃれな小物を置いているお店もあって見所満載です。
谷中霊園は、街のなかにごく自然に溶け込んでいるような印象を与えています。
訪れるのは、徳川慶喜のお墓です。矢印で案内表示されているので、そのとおりに歩いていくと辿り着くことができます。
徳川慶喜が眠る谷中霊園
吉村昭の『彰義隊』は、第15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰るところから始まります。江戸に戻った慶喜は、賊徒、朝敵として厳罰を恐れ、自ら寛永寺に謹慎します。その後、和宮や勝海舟などの働きかけがあって、江戸は無血開城され、慶喜は水戸家で謹慎することになります。その間、上野寛永寺山主の輪王寺宮は慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走していました。
その後、慶喜は、水戸から駿府(静岡)に移り謹慎します。謹慎が解かれた後も静岡に住み続け、明治30年になって、東京に転居します。そして大正2年、77歳で亡くなります。慶喜は、徳川家の菩提寺ではなく、谷中霊園内に墓地を設けます。お墓は写真のように神式によるものです。
一方、皇族の身にも拘らず、朝敵となった上野寛永寺山主の輪王寺宮は、上野戦争で彰義隊が敗北したことにより、身の危険を感じ、身寄りを訪ね一時身を隠します。しかし、朝廷軍の追っ手から逃れることが厳しいと思った輪王寺宮は、幕府艦船で奥州へと逃走の旅を始めるのです。果たしてその先で輪王寺宮に待ち受けているものは・・・。
谷中霊園の中に御隠殿坂(ごいんでんざか)という坂があります。これは、寛永寺から輪王寺宮の別邸に行くために設けられたもので、「鉄道線路を経て」と記されているとおり、現在も鉄道線路の高架橋に繋がっています。
寛永寺に向かう途中、行列ができているケーキ屋さんを発見。このケーキ屋さんは、「パティシエ イナムラショウゾウ」のお店でした。意外にも、並んでいるのは、高校生を含め、男性ばかりなのに驚きました。
谷中霊園に向き合うように寛永寺根本中堂(当時の根本中堂は上野公園の噴水広場の辺り)が建っています。日暮里駅からのんびり歩いて1時間ほどで到着します。
東叡山寛永寺は、天海大僧正が寛永2年(1625)に上野の山に造営したもので、比叡山が京都御所の鬼門であるように、江戸城の鬼門の守りを意図して造ったものです。輪王寺宮が山主を勤めてきたお寺です。鳥羽伏見の戦いに敗れ、逃げ帰った徳川慶喜はこのお寺の一室で謹慎をしていました。
東京国立博物館の隣に寛永寺内輪王寺宮墓地があります。輪王寺宮の墓地を見ることはできませんが、当時の寛永寺旧本坊表門を直に触れることができます。
上野戦争の際に撃たれた弾痕がいくつも残されています。
江戸から明治の史跡が点在する上野公園
他にも、幕末の戦乱や寛永寺の面影を残す史跡が上野公園にあります。
上野公園噴水広場の横にあるプレートは、初代歌川広重による寛永寺全景を描いた浮世絵です。プレートの横には、寛永寺根本中堂跡の解説板があり、当時この場所に寛永寺根本中堂をはじめ、伽藍が建てられていたことがわかります。慶応4年の上野戦争で焼き払われています。
現在の噴水広場の様子です。突き当たりに見える建物は東京国立博物館です。上野戦争で焼き払われるまで、ここに東叡山寛永寺の伽藍がありました。
現在、その場所にはたくさんのカラーコーンが置かれていますが、一体何だと思いますか。上野動物園のパンダの赤ちゃん「香香(シャンシャン)」の入場整理券を待つ人用に急遽設けられたもののようです。今だに何千人もの人が並ぶそうですよ。
こちらは、1651年(慶安4年)に三代将軍徳川家光が造営した上野東照宮です。上野戦争で寛永寺の伽藍が焼失してしまいましたが、この上野東照宮には火の手が及びませんでした。
何年か前に化粧替えしたので美しい姿が蘇っています。
その先に寛永8年(1631年)に建立された上野大仏様があります。この大仏様は、安政大地震や関東大地震の際に頭部が落下し、第二次大戦では胴体部分が軍需のため金属供出されてしまいます。今では、「これ以上落ちない」ということから受験の神様として崇められています。隠れたパワースポットですね。
上野大仏前の植え込みに新潟県の草花「雪割草」が可憐に咲いていました。
京都の清水寺になぞらえて建立した清水観音堂。上野戦争や関東大震災からも免れました。
正面に立つ「月の松」は、平成24年に再建されたもの。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれています。
清水観音堂に上がり、「月の松」から先を望むと不忍池の弁財天が見えます。
不忍池の弁財堂は、琵琶湖に浮かぶ小さな島「竹生島」のお堂を見立てて造営したものです。6月下旬から8月上旬には蓮の花が湖面いっぱいに咲き誇ります。
慶應4年(1868)5月15日朝、大村益次郎指揮による朝廷軍は上野を総攻撃します。いわゆる上野戦争です。朝廷軍が備えた最新の銃器の効果は大きく、彰義隊は夕刻にはほぼ全滅し、一部の者たちが根岸方面に敗走していきます。あらかじめ、大村増次郎が被害を大きくしないようにわざと敗走できるようにと根岸方面の一角に軍隊を配置しないでいたためです。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されていましたが、南千住の円通寺の住職らによってこの場所で荼毘に付されました。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、政府を憚って、墓標には「彰義隊」の文字はありません。旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字が墓標に刻まれています。一部の遺骨は南千住の円通寺に埋葬されています。
彰義隊の墓の近くに、有名な西郷隆盛像があります。明治31年(1898)に建設されています。高村光雲の作です。設置場所については、議論が重ねられたようですが、西郷隆盛ゆかりの地ということで、上野に落ち着いたようです。
上野公園の玄関口では桜が満開です。この桜の木が上野公園が最も早く咲く大寒桜です。ここから上野広小路を抜けて、湯島天神(神社)に向かいます。
朝廷軍が駐屯した湯島天神
路地の先に湯島天神が見えます。路地を抜け、女坂の階段を上がります。この辺り一帯は江戸の頃は茶屋街があって随分と賑わいがあったそうです。写真の建物にも風情を感じます。
受験シーズンも終わり、学生の姿は見えませんが、ぎっしりと飾られた絵馬やおみくじに受験の神様の人気ぶりが現れています。この湯島天神に朝廷軍が駐屯していました。
彰義隊結成の地「浅草東本願寺」
上野から都営浅草線に乗り、田原町駅で下車します。しばらく歩くと、彰義隊が結成された浅草東本願寺があります。残念ながら当時を偲ぶものはありません。
輪王寺宮が身を寄せた浅草「東光院」
浅草東本願寺から合羽橋道具街方面に10分ほど歩いた所に「東光院」があります。このお寺は、上野の戦渦から抜け出た輪王寺宮がお付きの者と土砂降りの雨の中を必死で上野から逃れ、最初に身を寄せた場所です。この後、市ヶ谷の自証院に匿ってもらいます。
彰義隊士が眠る「円通寺」
南千住駅から徒歩10分程の円通寺があります。
円通寺は、彰義隊をはじめ旧幕臣の墓石などがあります。また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。
上野戦争の発端は、江戸は無血開城となったものの、これを認めずに、気勢をあげる彰義隊は日に日に、勢力を拡大していきました。そしてついには上野戦争が勃発し、その圧倒的な戦力差に彰義隊は、わずか一日で敗れます。
斃れた隊士の遺体は、朝敵ということで、野ざらしとされ上野の山は、地獄の様相となったと言われています。
この様子に、さすがに見かねた「円通寺」の住職である仏麿和尚らが協力し、彼らの遺体の一部である266体の遺体を「円通寺」に埋葬したのです。このような縁から現在、荒川区南千住の「円通寺」には、彰義隊をはじめ、新政府軍に戦いを挑んでいった旧幕臣らの墓や碑が数多く建立されています。
上野戦争の激戦地、黒門口に建てられていた「黒門」。無数の銃弾痕が、生々しく激戦の様子を伝えています。
墓石は、榎本武揚によって建てられました。墓碑銘も榎本の筆によるものです。
吉川英治の小説「松のや露八」の主人公として知られる松廼家露八こと土肥庄次郎の碑。碑の題字は榎本武揚によるもの。残念ながら、碑の上部が折れてしまっています。
江戸を脱し、木更津で戦死した旧幕臣、中田正廣の碑。正面の題字は榎本武揚の筆、碑文は山岡鉄舟の長男山岡直記によるものです。
朝廷軍の追っ手が忍び寄る中、輪王寺宮は江戸から離れる決意をし、会津、米沢、仙台と諸国を落ちのび、数奇な人生を送ることになります。