吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「落日の宴」のゆかりの地を巡る

吉村昭の「落日の宴」は、幕末に欧米列強が押し寄せる中で、勘定奉行川路聖謨の誠実な折衝により日本が植民地化を免れた史実を地道で細やかな取材により書かれた歴史小説です。

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江戸幕府に交易と北辺の国境画定を迫るロシア使節プチャーチンに一歩も譲らず、北方領土にあたっても誠実な粘り強さで主張を貫いて欧米列強の植民地支配から日本を守り抜いた川路聖謨。軽輩の身ながら勘定奉行に登りつめて国の行く末を占う折衝を任された川路に、幕吏の高い見識と豊かな人間味が光る。(小説案内より)  
 西伊豆の戸田は、ロシアの軍艦「ディアナ号」が下田に入港中に、安政の大地震に遭遇したため、破損したところを修理するため提督プチャーチンに選ばれた港です。伊豆韮山代官の江川英龍が亡くなる直前まで奔走されていた場所です。
 ご覧いただいているように、駿河湾に面した港ながら、像の鼻のように長い岬に囲まれていることから穏やかな湾をつくり出しています。晴れた日は、富士山がバックに見える絶景ポイントです。
 
駿河湾は、日本海溝の先端が入り込んだ場所で、南端での深さは2500メートルもあり、多くの深海生物が生息しています。
 戸田の名物は、何といっても深海に住むタカアシガニです。港付近では、とても大きなタカアシガニ料理を出すお食事処や民宿が立ち並んでいます。しかし、漁期が9月から翌年の5月までなので、カニ料理を出しているお店は残念ながらありませんでした。
 12月から2月の頃が特に美味しい時期だそうです。味は、他のカニと異なり伊勢海老に似ているそうですが、私は食べたことがありません。お値段は一匹1万円から2万円前後のようです。
 
ニコライ一世の命を受け、プチャーチンは日本との国交交渉のため、新鋭ロシア艦ディアナ号に乗り、安政元年(1954年)10月14日に下田港に入港しました。
 11月3日、下田の玉泉寺で幕臣川路聖謨らは、プチャーチンと第一回の交渉を行います。その翌日の11月4日、安政の大地震が起こり、それに伴う大津波によりディアナ号は大きな損傷を受けました。下田の家屋も、この大津波により、875軒のうち、841軒が流失しています。

玉泉寺は、日本で最初に米国総領事館が置かれたところで、ハリスが領事館で暮らしていた当時の資料が残されています。日米和親条約が締結されたことを聞き、その半年後に再度、プチャーチンは下田に訪れます。その交渉が行われたのもこの玉泉寺でした。写真は玉泉寺の山門の前です。露艦ディアナ号水平墓所と書かれています。

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玉泉寺の本堂です。

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 ディアナ号は修理のため、11月26日に戸田湾に向かいますが、波浪のため戸田に入港できず、駿河湾岸の宮島沖に流され座礁してしまいます。
 曳航を試みますが、強風により沈没してしまうことになります。プチャーチンは、ロシアに帰国するための代替え船をつくることを要望し、造船地として戸田が選ばれるのです。
 その背景には、当時ロシアはクリミア戦争の最中で、敵国のイギリスやフランスの船との遭遇を恐れていたため、港が外海から隠れ、しかも軍艦が入港できる深さが必要だったのです。指定された海岸の場所には、造船記念碑が建てられています。
 
海岸線に沿って進み、御浜岬の先端に、沼津市戸田造船郷土資料博物館・駿河湾深海生物館があります。御浜岬の湾側は砂浜になっていて綺麗な海水浴場になっています。ちょうどお盆休みだったので海水浴客で溢れていました。
 安政2年(1855年)にロシア人と戸田の船大工の協力により建造された代替えの船は、戸田の人々への感謝の気持ちを表し、「ヘダ号」と命名されます。ヘダ号は、日本で初めて建造された本格的な洋式帆船となりました。
 館内には、ヘダ号の設計図や大工道具、ディアナ号の遺物などが展示されています。
 
博物館の正面には、引き揚げられたディアナ号の碇が野外展示されていました。
 
 
館内の展示物を撮影させていただきました。この絵画は、波浪のなか、ディアナ号が戸田に向かうところを描いたものだと思います。
 
プチャーチン提督の胸像
 
引き揚げられたディアナ号の碇の鎖
 
ディアナ号船内で使用されていた遺物
 
プチャーチンの日常愛用品
 
ディアナ号船内で使用されていた遺物
 
ディアナ号の代替船となる日本で初めて建造された本格的な洋式帆船ヘダ号
 
ヘダ号の建造の由来
 
プチャーチンを乗せたロシア艦が下田に入港し、第一回交渉の後、安政の大地震に見舞われますが、伊豆韮山代官の江川英龍は、この頃、江戸にいて、品川台場構築工事の総指揮にあたっていました。
 老中阿部正弘は、この震災とロシア船遭難の事態を重く見て、江川英龍を災害後の下田取締りを命じます。戸田に着いた江川英龍は、約500人のロシア水兵の宿泊、食料等の日用品の確保、代替船の建造、戸田付近の治安維持、領内の大震災からの復旧の手配を行うなど大変な激務が続きました。
 過労から風邪をひいた英龍は、出府の命令により、災害後の復旧に関する手配を終え、韮山に12月11日に戻り、病床についていましたが、再度の出府の催促があり、吹雪の中、韮山を発ち、ようやく江戸本所の屋敷に着きます。風邪をこじらせた英龍は肺炎を併発し、1月16日に息を引き取るということになってしまいます。55歳でした。
 勘定奉行川路聖謨の粘り強い交渉と同時に、庶民に慕われ、高い能力と先見性から幕府に手腕を買われ、海防一切を任された幕臣英龍の必死の奔走が、江戸幕府と民衆を助けたのだとこの地に来てあらためて感じました。

江川家住宅は、国指定重要文化財となっています。現在は、資料館として建物や当時の資料を見学することができます。

(住所)静岡県伊豆の国市韮山韮山一番地 電話055-040-2200

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 建物の中に入ると、広い土間となっています。江戸後期に使われた大砲が置かれていました。

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外国からの攻撃に備え、大砲を作るために急がれた反射炉。この世界遺産韮山反射炉は、英龍が建造を手がけ、その息子英武が完成させたもので、江川家住宅に隣接しています。

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吉村昭「落日の宴」のゆかりの地