吉村昭 史伝「暁の旅人」から見た松本良順の生涯
吉村昭 史伝「暁の旅人」は、松本良順の生涯を描く事を通して、幕末から明治維新に進む過程で起こった史実を描いています。
私は、若い頃、神奈川県平塚市に住んでいました。その頃、自転車でよく大磯の浜辺「照ケ崎海水浴場」に行っては、釣りを楽しんでいました。その場所が、明治の時代に日本で初めて開かれた海水浴場で、しかも「暁の旅人」の主人公、松本良順が広めたということは、恥ずかしながら、今まで知りませんでした。
正直なところ、松本良順という人の名前を見たことはありましたが、どういう人物なのかは知らなかったのです。
今回、読んだ「暁の旅人」は偶然手にしたのではなく、読む動機があったのです。
それは、今年(2018年)の正月、初詣に浅草の「今戸神社」に行ったことがきっかけでした。
- 縁結びの神様で知られる 今戸神社
- 松本良順と新撰組・沖田総司
- 徳川家侍医 松本良順の生涯
- 大磯「照ケ崎海水浴場」を日本で最初の海水浴場として紹介した松本良
- 吉村昭"私も佐藤泰然のような死に方をしたい"
- 解説から
縁結びの神様で知られる 今戸神社
今戸神社は、浅草寺から隅田川沿いに1キロほど離れた場所にあるので、外国人観光客で身動きできない雷門あたりとは違い、下町の住宅街にある静かな佇まいの神社です。
ですが、どこの町や村にもある鎮守様と違って、江戸時代には三代将軍徳川家光の庇護を受けていた由緒ある社なのです。
今戸神社の記事は「猫たちがご縁を招く♡都内最強の 縁結び神社・今戸神社」で紹介していますので、そちらもご覧ください。www.mondo7.site
「今戸神社」は、最近、招き猫がご縁を招くパワースポットとして女性雑誌「Hanako」などにも特集されていて、そのせいか、女子やカップルが多く、この日も拝殿まで30分待ちの長蛇の列ができていました。その拝殿には、今戸神社の御神体とも言える大きな招き猫が2体置かれています。
そもそも、この辺りは今戸焼の発祥の地で、江戸時代には今戸焼の招き猫が一大ブームになったいたようで、その名残でもあるのです。拝殿の前には「今戸焼の発祥の地」と書かれた石碑もあるので、こちらも一見の価値があります。
ちなみに、正式なご祭神は、国産み・神生みの「イザナギノミコト」「イザナミノミコト」の夫婦神でして、そこから招き猫も「なぎちゃん」「なみちゃん」と名前が付けられているのだそうです。
この「今戸焼の発祥の地」の石碑の隣に、もう一つ小さい石碑が建てられています。
そこには、「沖田総司の終焉の地碑」とあります。石碑の裏には「慶応四年三月三十日没」と刻まれていました。また、この境内にかつて松本良順寓居があったということです。
松本良順と新撰組・沖田総司
沖田総司といえば、新撰組のイケメン。剣の腕前も新撰組の中でもずば抜けた剣豪で、新撰組一番隊組長として重要な任務をまかせられていました。池田屋事件では近藤勇とともに最初にに池田屋に踏み込んでいます。しかし、その後、肺結核を患い、鳥羽伏見の戦いにも参戦できず、鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、他の隊員とともに幕府の艦船「富士山丸」で江戸に戻り、しばらく神田泉橋にある幕府医学所に入院していました。
その幕府医学所(東大医学部前身)の頭取が松本良順だったのです。その後も、松本良順は、徳川家の侍医となり、第14代徳川家持の治療にも当たっていたのです。
実は、多くの日本人は「松本良順」の顔を見たことがあります。というか、一度や二度はお世話になっているのではないでしょうか。まわりくどい言い方をしてしまいましたが、ある薬のパッケージに良順の顔写真がトレードマークになっているからです。
その薬とは、奈良の日本医薬品製造株式会社の征露丸です。今は大幸薬品の正露丸を目にする方が多いかと思いますが、征露丸の名称の方が歴史的には古いようです。
さて、実際、今戸神社に寓居を構えていた松本良順とはどんな人物だったでしょうか。そして、今戸神社で亡くなった新撰組の沖田総司と松本良順との出会いとは。色々な興味が湧いてくるではありませんか。
その疑問に答えてくれたのが、吉村昭著「暁の旅人」(講談社文庫)でした。
徳川家侍医 松本良順の生涯
松本良順は、天保3年(1832)に、順天堂を開いた佐藤泰然の次男として生まれました。そして、父の親友であった幕府の医師(奥医師)松本良甫のところに養子に行っています。その娘で1歳年上の登喜と結婚します。松本良甫も蘭方医として西洋医学を学んでいたので、自然に良順も西洋医学の道に進みたいと考えていました。当時、長崎には幕府の海軍伝習所が設けられていて、日本人に軍艦の操縦を伝習するためにオランダから一行が派遣されていました。その中に数名の医者が含まれていました。その中の一人ポンペから西洋医学を学ぶため良順は江戸から長崎に行ったのです。
ここで、松本良順の実父の佐藤泰然について触れておきたいと思います。佐藤泰然は、武蔵国(現神奈川県)川崎にて佐藤藤佐(とうすけ)の子として生まれます。天保6年(1835)より長崎に留学し3年間オランダ医学を学び、その後天保9年(1838)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開きます。天保14年(1843)、佐倉へ移住し「順天堂」を開いています。のちに泰然の養子となった佐藤尚中が順天堂病院を東京につくります。
佐藤泰然が開いた蘭医塾「和田塾」跡は薬研堀不動院(川崎大師東京別院)の駐車場の横にあります。
松本良順は、長崎で5年間にわたり最新の西洋医学を実証的に学び、江戸に帰ってきました。そして、神田泉橋にある幕府の医学所で頭取になりました。医学所頭取になって2年後、医学所に新撰組の近藤勇が訪れます。目的は、松本良順に外国というものがどういうものなのかを聴きに来たのです。当時、尊皇攘夷派を容赦なく斬殺してきた新選組としても外国の事情を知る必要があったのです。
翌年、松本良順は、将軍の侍医として京都に帯同します。滞在中に再び近藤勇が訪れ、松本良順も新撰組屯所の京都 西本願寺に行き、新撰組の健康管理の指導をしています。
やがて、鳥羽伏見の戦いがあり、幕府側は、薩長を中心とする官軍に圧倒的な兵器の差で大敗します。その後、官軍は江戸に入ってくるのです。その頃、松本良順は、神田泉橋にある幕府の医学所では官軍が攻め入ることが予想できていたため、療養中だった沖田総司らを連れて、より安全な浅草今戸の祥福寺や私邸の今戸八幡(現在の今戸神社)で治療を続けていたと考えられます。
その後、江戸の無血開城が行われると松本良順は「幕府の医者として幕府に殉じる」と言って、江戸を脱し、会津に行き、負傷者の手当などをします。会津の陥落を機に、さらに北上して庄内に行きます。その頃、仙台に来ていた幕府海軍の指揮官 榎本武揚から蝦夷(北海道)に新政府を樹立すため同行を求められます。しかし、土方歳三の助言を受け、江戸に戻ることになります。
仙台からオランダ船で江戸に向かうものの、横浜で幽閉されます。1年半後に釈放されて、早稲田に私立病院を建設し、今日の病院の基礎を作り上げます。その後、新政府の山縣有朋が病院に訪れ、陸軍の軍医部をつくる協力を求められます。最終的には、山縣有朋の申し出を受け入れ、初代の軍医総監になるのです。松本良順はこの頃名前を松本順と改名ています。のちに軍医総監を辞した松本順は、明治の中頃名もない一漁村だった大磯町に別荘を持ち、学術的に如何に同海岸が人間健康に理想的であるかを研究し、大磯に日本で初めて海水浴場を開きました。それが広まり、大磯に多くの政財界人が大磯に別荘地をつくるようになります。なんと、歴代宰相だけでも、伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂の8名が大磯に別荘や邸宅を構えます。
大磯「照ケ崎海水浴場」を日本で最初の海水浴場として紹介した松本良
日本で最初の海水浴場として紹介された「照ケ崎海水浴場」には、松本順氏の功績を世に永く伝えるため「松本先生謝恩碑」(昭和4(1929)年8月)が建立されています。
松本良順の軌跡は、吉村昭著「曉の旅人」に書かれていますが、この歴史小説を元に2002年12月25日に順天堂大学有山記念館講堂で吉村昭自身が講演を行なっています。その記録は、岩波現代文庫「白い道」(吉村昭著)の「曉の旅人」創作ノートとして収録されています。
吉村昭"私も佐藤泰然のような死に方をしたい"
その中で、吉村昭は、「私は、この良順のことを書いていて、幕府に忠誠を誓った一徹ななところが非常に好きでした。松本良順が最高に幸せだったのは、実証主義のポンペという西洋の医者に習って実証的な医学を身につけたこと、これが最大の幸せなのではないかと思います」と語っています。
また、松本良順の実の父親である佐藤泰然に対しては、「佐藤泰然という人に僕はとても感動しているのですが、自分が死に近付いたことが医者なのでわかるわけです。もう確実に死ぬと。そのときに泰然はどういうことを考えたか。(略)彼は食を絶ったわけです。さらに医薬品の供給も絶ちました。つまり、一つの自殺ですね。今は延命と言いますか(略)死というのはもっと厳粛なものだと私は思います。自然に訪れるものであると。(略)死は自然に受け入れるべきだと思います。佐藤泰然という人は、生きている人間のために医薬品の供給を絶つ。食物も絶つ。これは素晴らしい人だと思います。私も泰然のような死に方をしたいと思っています」と記しています。
この講演から4年後、吉村昭さんは東京都三鷹市にある井の頭公園近くの自宅で息を引き取りました。奥様で作家の津村節子さんは「お別れの会」で「前日、点滴の管と、首の静脈に埋め込まれた薬剤などを注入するためのカテーテルポートを自ら引き抜き、看病していた長女に「死ぬよ」と宣言。看護師にも「もういいです」と告げて息を引き取った」と話されています。
解説から
末國善己さんが解説をお書きになっていますが、その中で、
「古い制度を破壊するためのエネルギッシュに働く「胡蝶の夢」と比べると、吉村の描く良順は地味な印象は拭えないが、これは歴史小説と史伝の違いにほかならない。ただ、本書には、司馬作品とは異なる魅力があるのだ。」
と書かれています。私もきっと、吉村昭は松本良順を描きたかったのだと思います。そして、松本良順の生涯を描く中で、幕末から維新への道程の史実を伝えたかったのだと感じました。今回も吉村昭の世界を味わうことができました。ありがとうございます。
吉村昭 小説「生麦事件」から事件現場を追う
の書き出しから始まる吉村昭の小説『生麦事件』。
その事件は、文久2(1862)年9月14日、横浜郊外の生麦村で起こりました。薩摩藩、島津久光の大名行列に騎馬のイギリス人4人が遭遇し、このうち1名を薩摩藩士が斬殺したもので、この事件により、薩英戦争が勃発し、倒幕へと大きく時代が変わることとなるのです。
今回は、薩摩藩下屋敷から発駕した久光の大名行列が生麦事件と遭遇した場面を中心にゆかりの地を巡ってみました。
薩摩藩下屋敷は、現在のJR田町駅周辺でした。当時の面影はありませんが、日本電気本社ビルの植込みに「薩摩屋敷跡」の石碑があります。
正面に見えるのが、日本電気本社ビルです。ちなみにこの道は、「芝さつまの道」と名付けられています。
セレスティンホテルと三井住友信託銀行芝ビルとの間に薩摩藩下屋敷跡の象徴展示があります。
展示には、安政4年の江戸切絵図があり、薩摩藩邸の位置と広さがわかります。
芝さつまの道を歩いていると、一角に薩摩藩の家紋「丸に十の字」を描いた御影石の腰掛けがありました。
生麦事件の前年の文久元(1861)年5月には、水戸浪士等がイギリス公使の品川東漸寺を襲撃する事件が起きるなど、攘夷による外国人との不測の事態が生じる恐れがあり、不穏な空気が立ち込めていました。
「久光の乗物は品川大仏前の釜屋半右衛門の茶屋の前でとまり、おろされた。・・・」
「宿場を出ると、行列は短い橋を渡り、刑場のある鈴ヶ森を過ぎ、再び橋を渡って大森村に入った・・・」
「その宿場で昼食を兼ねた休息をとる予定になっていて、久光の乗物は本陣の田中兵庫の家の前でおろされた。・・・」
「マーシャルたちは、前方に道いっぱいにひろがって進んでくる集団に気づき、顔色を変えた・・・マーシャル達は、馬をとめた・・・引き返そうとマーシャルが声をかけた・・・切迫した気配に落ち着きを失っていたリチャードソンの馬が列の中に踏み込んだ・・・奈良原は、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。・・・」
「リチャードソンの傷口からはみ出した臓腑が、路上に落ちた・・・」
「馬の動きがにぶくなり、やがてとまった。その衝撃でリチャードソンの身体がゆらぎ、馬から落ちた。・・・海江田は脇差を抜き、楽にしてやると言って、心臓の部分に深々と刃先を突き立てた・・・リチャードソンは、そのまま路上に放置された・・・」
「予定では、その日の泊りは一里前方の神奈川宿で、先触れによって久光は本陣の石井源右衛門宅で過ごすことに定まっていた。しかし、神奈川宿は海を隔てて横浜村と至近距離にあり、そこで宿泊すれば外国の将兵がボートで乗りつけ攻めてくることが予想される。神奈川宿で泊まることを避け、行列を速めて神奈川宿から一里九町先の次の宿場である程ヶ谷宿にまで行くべきだ、という結論に達した。・・・宿場役人の案内で久光の乗物は本陣の苅部清兵衛宅の前で止まった。・・・かれらの攻撃目標は本陣で、そこにいる久光の命をねらう。『それで万一を考え、和泉様(久光)を御本陣より他へお移し申し上げた方がよいのではないか、と思うが・・・』と、小松は言った。
下の写真は、本来泊まる予定だった本陣の苅部清兵衛宅跡です。
荒川区にある「吉村昭記念文学館」を訪ねました。
吉村昭記念文学館のホームページ