歴史小説「間宮林蔵」の郷里を訪ねて
間宮林蔵の郷里を訪ねて
吉村昭の小説「間宮林蔵」は、文化4年(1807)4月、千島エトロフ島のオホーツク沿岸にあるシャナの海岸にロシア軍艦が現れ、シャナ村を襲撃し、箱館奉行所の支配下にある会食(砦)の役人全員が逃避するという事件から始まります。
間宮林蔵の郷里は、茨城県つくばみらい市上平柳。生家は、小貝川の岡堰の近くにあります。現在は、つくばみらい市により「間宮林蔵記念館」として保存されています。
ロシア軍艦によって襲撃され、シャナ村を逃避した役人はその後、自刃したり、処罰される中、間宮林蔵は、幕府からのお咎めもなく、逆に幕府から現在の樺太の踏査を命じられます。単独の踏査を含め2回にわたり、未踏の地「樺太」の探検に赴くのです。
その結果、樺太が半島ではなく、島であることを証明し、樺太および蝦夷地全体の測量を行い、蝦夷地地図を作成したのです。ちなみに大陸と島の間にある海峡は、「間宮海峡」とシーボルトにより世界に紹介され世界地図にその名を残します。
19世紀初め、蝦夷地は十分な踏査がなされておらず、未開の地でした。また、ロシア軍艦が度々蝦夷地沿岸や千島列島に現れ、村々を襲撃するという事件もあって、幕府にとって樺太の領地所有の実態を正確に掴む必要があったのです。
「間宮林蔵記念館」は、資料が見やすく展示されています。車を利用する方は、間宮林蔵の師匠に当たる伊能忠敬の記念館も千葉県香取市にあるので、併せて見学するのも良いかもしれません。
記念館に隣接して間宮林蔵の生家があります。
林蔵は、幼い頃、幕府役人が小貝川の河川工事をしていた時、林蔵の才能に驚き、江戸に出て行くきっかけとなります。
その後、蝦夷地を中心に測量を行う他、全国各地を隠密として行脚することとなるのです。林蔵は立ち寄ることはあったものの、生家で暮らすことはありませんでした。
茅葺き屋根の生家も自由に見学することができます。
間宮林蔵の墓地
「間宮林蔵記念館」から200メートルほど離れたところに専称寺というお寺があります。幼い頃、林蔵は寺子屋だった専称寺に通い読み書き算盤を学びました。
幕府から海防担当の命を受け、蝦夷地をはじめ、全国を歩き回っていた林蔵は両親の臨終に立ち会うことはできませんでした。この専称寺本堂で法要が営まれました。
専称寺本堂の前の緑に囲まれた場所に、間宮林蔵とご両親のお墓があります。
小高い丘を上がると、明治37年に正五位の贈位を受けた後、明治43年に建立された間宮林蔵の顕彰記念碑があります。
顕彰記念碑の後ろに、間宮林蔵の墓があります。向かって右は両親の墓で、左側が間宮林蔵の墓です。この墓は、文化4年(1807)、決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立した生前の墓です。身分の低い武士に合った百姓並みの墓です。
林蔵は、天保15年(1844)、波乱に満ちた65歳の生涯をこの地に遺骨が納められ、眠っています。墓地の背後には、小貝川が流れています。
吉村昭は、小説「間宮林蔵」のあとがきで次のように書いています。
林蔵の墓石について、様々な推測がなされている。林蔵の故郷の専称寺に、間宮林蔵墓と刻まれた墓碑がある。問題は、墓石の両側面に刻まれている二人の女性の戒名である。
右側面には林誉妙慶信女、左側面に養誉善生信女とある。林誉妙慶信女は専称寺の過去帳に記載され、庄兵衛娵と記されている。庄兵衛は林蔵の父であるから、その戒名の女性は林蔵の妻ということになる。が、林蔵は妻帯した気配がなく、両親が、旅に明け暮れて故郷に変えることのない林蔵の嫁として家に入れた女性とかんがえられる。・・・
養誉善生信女とは、どんな女性であったのか。寺の過去帳にはないが、墓碑に刻まれているのだから、林蔵の妻と考えられる。
林蔵の故郷には、第二回目の樺太探検後、アイヌの娘を妻とし、故郷に連れ帰ってきたという伝承がある。戒名の女性は、その娘ではないかという。・・・それを裏付ける確証がないので採用することはしなかった。
小貝川の岡堰
専称寺を後に、小貝川の反対側に移動しました。前方に見えるのが小貝川の岡堰です。幾度も氾濫を起こした小貝川は、田畑にとって命の水源だったのです。
小貝川の中島には最近整備された岡堰記念公園があります。周囲の紅葉が綺麗です。
江戸時代以降、岡堰は小貝川の氾濫により、幾度も壊されます。田畑に水を引くために欠かせなかった岡堰は煉瓦からコンクリートに製法を変え、改築されていきました。公園には、その一部が野外展示されています。
公園の中には、岡堰の史跡と一緒に間宮林蔵の記念のブロンズ像があります。
師匠伊能忠敬との接点
下の写真は、深川黒江町にある伊能忠敬の住居跡碑です。伊能忠敬は、千葉県小関村の生まれで、18歳の時に江戸に出て、平山左忠次の名で昌平坂の学問所に入ります。その年、酒造業を営む伊能家の養子に入り、、やがて天文学への関心を深めるようになります。
そして、50歳で家督を譲り、専門の測地術を学ぶことを志し、幕府天文方高橋至時(当時31歳)の門に入ります。当時、蝦夷地の地図は粗末なものしかなかったため、高橋至時の勧めで幕府に蝦夷地の調査を願い出るのです。
結局、幕府は許可はするものの、費用は出さなかったため、自費で箱館、室蘭、釧路、厚岸、に達し、箱館に戻るのですが、蝦夷地にいた間宮林蔵はその際、伊能忠敬に会っているのです。
林蔵は、樺太、蝦夷地の調査、地図の作成を終え、江戸深川蛤町に住むようになってからは、深川黒江町に住んでいた忠敬の住まいに度々通い、忠敬から測量法を学んでいいました。
伊能忠敬やその師匠である高橋至時の墓は、浅草の源空寺にあります。明暦の大火で湯島から浅草に移転した浄土宗のお寺です。台東区東上野6-19-2
伊能忠敬のお墓です。測量学の師匠高橋至時のお墓も隣にあります。これは、偶然ではなく、忠敬が高橋至時が眠っている源空寺に埋葬してほしいと願っていたからなんです。
間宮林蔵とシーボルト事件
樺太や蝦夷地の測量を行い、地図を作成した林蔵は、幕府から海防関係の隠密の命を受け、東日本の沿岸や九州、伊豆七島と全国を歩きます。
深川で体調を整えていたある日、高橋至時の息子の高橋作左衛門(景保)から小包が届きます。中身はシーボルトからの書簡と贈答でした。
シーホルトとの面識のない林蔵は小包を上司の勘定奉行村垣淡路守に届けるのですが、それがきっかけで、高橋作左衛門(景保)がシーホルトに国禁である日本地図を譲渡していたことがわかり、高橋作左衛門(景保)は獄中で亡くなり、その他、多くの学者たちが処罰されていきます。また、シーボルトは、日本地図を没収され、国外追放となるのです(実際には、すでに日本地図は海外に持ち出されていたのですが・・・)。
この事件により、周囲から、林蔵は自分の栄達のために密告したと噂されるということになります。歴史にも登場する「シーボルト事件」です。
都内にもシーポルトの記念の胸像があります。場所は、中央区築地のあかつき公園です。直接、シーボルトとこの地は関係があるわけではありませんが、この地が江戸蘭学発祥の地であり、娘のいねが築地に産院を開業したことなどから建てられたもののようてす。
東京にある間宮林蔵の墓地
間宮林蔵は生涯独り身でした。そのため間宮家を継がせるため、茨城伊奈間宮家(上平柳)として、分家から哲三郎を養子にもらい、現在も子孫に引き継がれています。
また、江戸の普請役の家督は、勘定奉行戸川播磨守が浅草の札差青柳家の鉄二郎に目を付け、引き継がせます。子孫の方の情報はわかりません。
晩年、林蔵は深川蛤町に住まいを持っていたことから、江東区平野2丁目7-8にも墓が建てられました。墓の管理は、近くにある本立院が行なっていて、この墓には、林蔵の遺体の一部が埋葬されているということです。
墓石の正面には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれています。この墓標は水戸徳川藩主徳川斉昭が選したものと言われています。林蔵が江戸にいる頃、水戸徳川斉昭は、蝦夷地を領地にしたいと考えを持っており、林蔵に蝦夷地やロシアのことを聴取していた縁からかもしれないと思います。
最初に作られた墓石は昭和20年3月10日の東京大空襲で焼けてしまいますが、拓本が残っていたので、昭和21年5月に建て直されています。
また、林蔵の墓の傍に「まみや」と刻まれた小さな墓碑が建てられています。これは、晩年、林蔵の身の回りの世話をし、看取った女性「りき」のものとされています。
間宮林蔵の直系の子孫
吉村昭の「間宮林蔵」は、間宮海峡を発見した間宮林蔵のその苦難の探検行をリアルに再現していて、面白かったのですが、幕府隠密として生きた晩年までの知られざる生涯が幕末の日本の事件に繋がっていくことにも驚きました。史実の闇に光を当てた傑作だと思います。
さらに驚いたのは、インターネットで偶然見つけたニュースでした。
2003年に間宮林蔵をしのぶ「林蔵祭」が生誕地の茨城県伊奈町で開かれ、子孫が一堂に集まったのですが、そこに、間宮林蔵の直系の子孫と前年に確認された間見谷喜昭さん(75歳、北海道旭川市)の親子が参加されていたという記事です。
主催した間宮林蔵顕彰会によると、間見谷さんは間宮林蔵とアイヌ民族の女性との間に生まれた娘の子孫。長年、間宮林蔵に直系の子孫はいないとされていましたが、2002年の郷土史研究家の調査で子孫と確認されたようです。
「夜明けの雷鳴」の舞台を歩く
慶応三年、万国博覧会に出席する徳川昭武の随行医として渡欧した三十一歳の医師・高松凌雲。
パリの医学校「神の館」で神聖なる医学の精神を学んだ彼は、幕府瓦解後の日本に戻り、旧幕臣として函館戦争に身を投じる。
壮絶な戦場において敵味方の区別なく治療を行った、博愛と義の人の生涯を描く歴史長編。
下の写真は、高松凌雲が、慶応3年、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武の随行医として渡欧した時のメンバーです。
今回の旅の目的は、吉村昭「夜明けの雷鳴」の舞台を巡ることです。この小説、ご存知の方も多いかと思いますが、幕末維新に活躍した医師、高松凌雲を描いた歴史記録小説です。この写真は、ご存知、五稜郭です。
慶応4年4月に江戸城無血開城になり、戊辰戦争は、上野、北陸、東北へと舞台が移り、新政府が決定した徳川家に対する処分は、駿河、遠江70万石への減封というものでした。
約8万人の幕臣が路頭に迷うことになることを憂い、海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓に活路を求めたのです。
そして、約3千人が開陽を旗艦とする8隻の軍艦で10月21日(西暦12月4日)に函館の北、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸を開始したのです。
五稜郭タワーから函館市内を一望することができます。正面に見えるのは、函館山です。この五稜郭から、函館山までの間で、壮絶な死闘が繰り広げられました。
函館市立博物館です。場所は、函館山麓にある函館公園の中にあって、周りには動物園や遊園地、図書館などが点在しています。
函館市立博物館でちょうど箱館戦争の企画展示が行われていました。
当時は、この道具が最先端だったのでしょうが、現代では、手術道具というよりも、ノコギリやペンチといった大工道具のように見えてしまいますね。
函館から1時間半ほどで江差町に行くことができます。
開陽丸は榎本軍最強の軍艦で、しかも、オランダで製造し、日本まで運んできた榎本武揚自身にとってもかけがえのないものだったに違いありません。
船体の中は意外に広く、引き揚げられた当時の大砲や砲弾の数には驚きました。
次に向かったのは、千代ヶ丘陣屋跡です。
今回の旅の目的でもある高松凌雲にまつわる高龍寺には、供養塔が本堂の前に置かれています。高松凌雲は、慶応3年、パリ万国博覧会に徳川慶喜将軍の名代として出席した徳川昭武の随行医として渡欧し、1年半にわたりパリの医学校で医学の精神を学んだ後、幕府瓦解後、日本に戻り、旧幕臣として箱館戦争に身を投じ、壮絶な戦場で敵味方の区別なく治療を行った人物で、日本の赤十字創設に係った義の方です。
供養塔の横には、「傷心惨目」の碑があります。
旧ロシア領事館です。
次に向かったのは、称名寺です。
碧血碑は、箱館戦争で亡くなった新撰組の土方歳三ら旧幕府軍の戦死者約800人の霊が祀られています。観光雑誌には土方歳三の遺骨もこの場所に埋葬されたと書かれていました。
東京に戻り、あらためて荒川区にある円通寺に詣りました。このお寺には、彰義隊をはじめ、箱館戦争で活躍され、亡くなった方々のお墓や追悼碑が建てられています。
高松凌雲の墓標は、谷中霊園にあります。お墓の場所は乙5号2側です。
最後までご拝読ありがとうございました。
「長英逃亡」を歩く
吉村昭「長英逃亡」を歩く
吉村昭の小説「長英逃亡」は、昭和58年3月から1年5ヶ月にわたって毎日新聞に連載された長編歴史小説である。
小説「長英逃亡」は、「逃亡」「医学」「蘭学者」「幕末」「史実」といった吉村昭がライフワークとしてきた題材をぎゅっと詰め込んだ、まさに吉村文学、至極の一冊と言える。
放火・脱獄という前代未聞の大罪を犯した高野長英に、幕府は全国に人相書と手配書をくまなく送り大捜査網をしく。その中を門人や牢内で面倒をみた侠客らに助けられ、長英は陸奥水沢に住む母との再会を果たす。その後、念願であった兵書の翻訳をしながら、米沢・伊予宇和島・広島・名古屋と転々とし、硝石精で顔を焼いて江戸に潜状中を逮捕されるまで、六年四ヶ月を緊迫の筆に描く大作。(「長英逃亡」より)
高野長英は、6年4ヵ月に及ぶ逃亡生活を送った。この地図に記した番号は、若い順から逃亡した場所(一部経路を含む)を小説に基づいて記録したものである。
長英逃亡の足跡
この高野長英の肖像画は、三河国田原藩士で画家の渡辺崋山の弟子、椿椿山(つばきちんざん)の作品。奥州市高野長英記念館が収蔵しており、国の重要文化財である。
長英の故郷「水沢」
文化4年(1804)、長英は水沢藩士後藤実慶の三男として生まれる。
長英9歳の時に父実慶が病気し、母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄の水沢藩医高野幻斎の養子となる。
下の写真は、その後、長英が18歳の時、実兄が江戸に遊学する際に、養父の反対を押し切って江戸に行くまでの間住んでいた旧宅である。
幻斎には千越(ちお)と言う長英より2歳年下の一人娘がいて、将来、長英の妻となることが定められていた。幻斎は、「解体新書」の訳者として知られる江戸の蘭方医杉田玄白に師事し、長英もその影響で蘭学に関心をいだいた。(「長英逃亡」より)
高野長英旧宅の入口には史蹟の案内がある。
長英は江戸へ遊学したいという願望をおさえきれず、養父の反対を無視して穴に随行した。この時から、長英の故郷に対する背反がはじまったと言っていい。(「長英逃亡」より)
江戸では、内科専門の蘭方医の吉田長淑の塾に学僕として入門し、学問に専念した。しかし、師の吉田長淑が病死したこともあり、長英は長崎で塾を開いていたシーボルトの元に行くことにした。シーボルトは入塾して間もない長英の才能を高く評価した。
長英は、天保2年、江戸にもどってから麹町の「貝坂」に塾をひらき、多くの門人にオランダ語を教えた。
場所は、平河町一丁目3番地と4番地の間を北から南へ下る坂。
坂の名の由来については二つあると言われている。
もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことから。また、甲州街道の一里塚があったので土地の人が甲斐坂と呼んだといわれている。近くには、「諏訪坂」がある。)
麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡
標識「貝坂」の向かいにある白い建物に「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」と書かれた御影石のプレートがはめ込まれている。
小説「長英逃亡」の書き出しは、天保15年(1844)の江戸小伝馬町の牢獄のシーンから始まる。
風が通らず、しかも数十人が押し込められている牢内は、病んだものが発する臭気と排泄物の匂いが混じり合い息もできない場所によく生きてこられたと、長英は感慨にふけっていた。5年前に入牢した長英はこの時、牢名主になっていた。
北町奉行所に自首したものの、投獄された直接の原因は、目付け鳥居耀蔵(のちに南町奉行)に睨まれたからである。申し渡された刑は、死ぬまで牢での生活をさせられる永牢であった。
その要因は、田原藩士で画家の渡辺崋山との出会いにあった。崋山は、藩の財政立て直しと共に、当時頻繁に出没していた異国船に対する海防への関心から洋書を読む必要を感じていた。そして、オランダ語の才に恵まれた高野長英に翻訳を依頼したことから、長英の世界情勢への関心と幕府政治への不信が高まることにつながったのである。
渡辺崋山は、幕府の上層部の愚かさを非難した「慎機論」を書き、長英は幕府の政策をあやぶみ「夢物語」を書いた。仲間うちで回し読むものであったが発覚し、目付け鳥居耀蔵の罠にかかり、大老水野忠邦はそれを許した。世に言う「蛮社の獄」である。
江戸小伝馬町牢獄跡
下の写真は、江戸小伝馬町牢獄跡である。現在は十思公園となっている。地下鉄「小伝馬町駅」の出口付近に位置していて、お昼時になると、お弁当を食べるサラリーマンの姿もチラホラ。
「伝馬町牢屋敷」は現在の中央区日本橋小伝馬町3~5丁目を占めていた。面積は2,618坪(8,637平方メートル)。周囲に土手を築いて堀を巡らし、土塀に囲まれていた。十思公園には、平成24年の発掘調査で出土した牢屋敷の石垣が残されている。
すでに入牢してから5年間が経過し、かれも41歳の夏をむかえている。
このまま牢内で朽ち果てたくなかった。郷里に帰った母に会い、妻の体を抱きしめ、子に頬ずりもしたかった。さらに洋書を手にし、それを読み、翻訳することも強い念願であった。(「長英逃亡」より)
十思公園の向かいにある大安楽寺には、江戸伝馬町処刑場跡の碑がある。
かれは考えあぐねた末、牢から逃走できる方法は、火災の折に行われる切放しを利用する以外にない、と判断した。(「長英逃亡」より)
長英は、牢屋敷に出入りする栄蔵に牢屋敷の御様場(おためしば)に火付けを頼んだ。礼金として十両を用意していることも伝えた。栄蔵は、長英が指示した通りに牢屋敷の御様場に火を放った。
御奉行石出帯刀はこれまでの例に従って、「切放し」を命じた。そして、三日を限りに本所回向院に戻るよう囚人たちに伝えた。通常、予定通りに戻った者は刑が軽減されるが、火付けをした者は例外なく極刑である。江戸市中引き廻しの上、火あぶりの刑となる。
長英の逃亡が始まる
長英を落とし入れた南町奉行鳥居耀蔵の耳にもそのことは伝わっており、草の根分けても探し出す手を緩めることがないと承知していた。
長英は、大槻俊斎宅を経て、牛込見附から北にのぼる神楽坂を早足で歩いた。そして、赤城神社の境内の一隅に住む漢方医加藤宗俊の家で身なりを整えた。下の写真は、現在の牛込見附から神楽坂を撮ったもの。今では、おしゃれな街として紹介されることが多い。
神楽坂を登りきったところに赤城神社がある。当時は、この付近一帯、火災に見舞われ、社殿も礎石だけとなっていた。
この境内の一隅に、漢方医加藤宗俊の家があったと思われる。加藤宗俊の家では、好意に甘え、疲れ果てた身体を休め、空腹を満たし、眠り込んだ。
神楽坂 赤城神社
その後、紀伊国坂にある尚歯会の主宰者遠藤勝助、弟子で和算家の内田弥太郎宅に立ち寄った。
鳥居耀蔵は、長英が江戸市中にとどまっていると考え、探索の網を市中各方面に張り巡らせていた。特に内田弥太郎は捜査の上でマークされている一人。
危険を察知した長英は、内田弥太郎宅を離れ、牢屋敷で知り合った斎藤三平が住む向島小梅村の料亭大七にある隠し部屋に暫くのあいだ身を寄せることにした。
暫くして、捜査の様子から江戸を抜け出す時を迎え、内田弥太郎の助言もあって、中山道を使って江戸を離れることに。
板橋宿 水村玄銅(長民)宅
板橋宿に向けて舟で隅田川を遡った。訪れた先は、板橋宿で代々医科を営んでいた水村玄銅の家であった。長英の門弟である。場所は板橋宿塾の仲宿で、賑やかな街道だけに監視の目が厳しいことが危ぶまれた。
板橋宿仲宿は、東京メトロ三田線の板場区役所前から5分ほどのところにある。
少し前まで、水村玄銅宅のあった場所には、石神医院があり、その玄関口に「高野長英の隠れ家」として跡碑が建てられていたが、半年前に、マンションが建てられ、今は石神医院も、跡碑も見当たらない。付近一帯の街道沿いは新しいマンションが立ち並び、昔の面影が薄れてきている。
現在は、街路樹の植え込みに案内板が建てられているだけとなっている。案内板が少し高い位置にあるので見過ごしてしまうかもしれない。場所は、ライフ仲宿店の向かいにある。ちなみにライフ仲宿店の建物の脇に板橋宿本陣跡の石碑が残っている。
現存する高野隆仙の「旧高野家離座敷」
長英は、水村玄銅の案内で、武州安達郡大間木村(現 さいたま市緑区大間木)に住む水村玄銅の兄、医科高野隆仙の元に訪れた。
隆仙は、長崎に留学してオランダ語を学び、大間木に戻ってから江戸に赴き、長英に蘭学を学んでいる。
下の写真は、当時、長英が暫くの間匿ってもらっていた高野隆仙の離座敷だ。高野家から寄贈された「旧高野家離座敷」は、現在、浦和くらしの博物館民家園として良好に保存されている。
開館日は毎週土日で午前9時から午後4時30分。住所は、さいたま市緑区大間木82-2。
問い合わせ先は浦和くらしの博物館民家園で、048(878)5025
「こちらへ・・・」隆仙は、廊下を歩き、独立した離れ家に長英を引き入れた。四畳半、三畳の部屋の奥に書籍のつまれた二畳の部屋があった。見事な茶道具が部屋の隅におかれていた。・・・
「先生が牢破りをしたと言う噂はしきりですが、代官所の役人も参らず、今のところ、御懸念はないと存じます。何日でも、この部屋にご滞在下さい」隆仙は、おだやかな表情で答えた。(「長英逃亡」より)
長英は、久しぶりにゆったりとした気持ちになれたが、長くは続かなかった。
「困ったことになりました」隆仙が、低い声で言った。
「なにか?」長英は、体をかたくした。
「実は、妻に外をそれとなく注意させておりましたところ、岩という岡っ引きがこの離家をうかがっているのに気がつきました」(「長英逃亡」より)
隆仙は、長英を大宮の小島平兵衛宅に預けると、浦和の自宅に戻った。
隆仙の予想は的中し、代官所の詰所に連行された。
代官所の取調べでも、隆仙は長英を匿ったことは一切ないと否定した。役人たちは、笞打ちや石抱えの過酷な拷問を繰り返し、自白を強要したが、否定し続け、百日目に釈放された。隆仙は、拷問によって障害が生じ、48歳で死去するまで体は不自由なままであった。
武州大間木村から、上州、越後を通り、母が待つ奥州へ
長英は、小島平兵衛宅で一夜を過ごし、上州境村の蘭方医村上随憲宅を目指した。上州には、多くの優れた医科が輩出し、シーボルト門下屈指の蘭学者である長英に師事する者が多かった。長英は、上州中之条町から清水峠を越え、越後の直江津今町にいる小林百哺(ひゃっぽ)宅に行った。その後、阿賀野川を舟でさかのぼり、母のいる奥州に向かった。写真は奥州を流れる北上川。
陸奥国前沢で念願の母との再会を果たした長英は、福島、米沢を巡った。
その頃、暗黒政治を推進した鳥居耀蔵は、失脚し、南町奉行職を追われ、厳しい訊問を受けていた。判決は、讃岐丸亀に配流であった。
奥州から、江戸に戻り、七年振りに妻ゆきの元へ
長英は、監視の目が緩やかになったことから、会津道、日光街道を通って再び江戸に入った。長英は、内田弥太郎の手引きを受け、七年振りに妻のゆき、娘のもととの再会を果たす。長英の長年の願いは、オランダ語の兵書の翻訳であった。
江戸での生活に身の危険を感じた長英は、尚歯会のメンバーの一人、伊豆代官の江川英龍に頼み、伊豆代官の支配下である相模国にしばらく身を隠した。
藩主伊達宗城に招かれ、宇和島へ
その頃、洋式の軍備強化を目指していた宇和島藩主伊達宗城は、オランダ語の兵書の翻訳を精力的に行なっていた高野長英を宇和島に招き入れたいと考えていた。
宇和島での滞在は一年だったが、その間、洋学書を翻訳し、伊達宗城が進めていた宇和島砲台構築地の選定、測量、設計を行い、藩主宗城をはじめ藩士たちに大いに喜ばれた。それもつかの間、幕府に、長英が宇和島に潜入していることを知られてしまう。
長英は、宇和島を離れる前に卯之町にいる二宮敬作に会うことにした。二宮敬作とは長崎のシーボルトの鳴滝塾の同門の仲であった。卯之町を後にし、瀬戸内海を渡り、広島城下の藩医後藤松軒宅に身を寄せることにした。
この間、老中阿部正弘の主導の下、幕府は海防問題に本格的に取り組みはじめていた。長英は、老中阿部正弘が西洋の知識を積極的に得ようとしている進取的な人物であることを知っていた。また、江戸では長英の探索の動きが見られないことも聞き及んでいたことから、老中阿部正弘が自分の罪を不問にするのではないかというかすかな期待も膨らんでいた。
再び江戸に戻り、町医者になるため、顔を焼いた長英
長英は、広島を離れ、東海道を通って、江戸に再び戻った。
江戸では、オランダ語の翻訳の仕事も絶え、長英は、家族を養うために町医者を志すことにした。 長英は、シーボルトの高弟として西洋医術を身に付け、豊かな知識と経験を備えていた。
町医として過ごすには、多くの者と接するため、無謀なことであることもわかっていた。残された道は、硝石精で顔を焼くことであった。
ためらいはなかった。瓶をかたむけ、硝石精を頰に思い切ってふりかけた。目の前に炎がひろがった。かれの口から野獣の声に似た叫び声がふき出し、体が後ろに倒れた。頰をおさえた手に痛みが走った。かれは、肉の焼ける匂いと赤い煙につつまれながらころげまわった。(「長英逃亡」より)
町医者となって住んでいた元青山百人町は、長英の最後の隠れ家となった。現在、青山通りにある「青山スパイラル」の一角に「高野長英先生隠れ家」碑がある。
長英終焉の地「高野長英先生隠れ家」(青山スパイラル)
六年あまりの月日がたっていた。町医となり、再び穏やかな日が続き、百人町の同心の家にも往診をこわれることもあった。ようやく家族を養うことができるようになった矢先、南町奉行所の内部で密かな動きが起こっていた。奉行は、遠山金四郎景元であった。
同心たちの長英探索の最大の障害は、彼らが人相書きを持ってはいても長英の実際の顔を見たことがないことであった。
そこで、一人の与力の思いがけない方法で探索に踏み切ることになった。それは、小伝馬町の牢で長英と過ごした経験のある上州無宿の元一という囚人を利用することであった。
診療を終えて外に出た長英は、足をはやめて家に通じる道を歩いた。角雲寺の前にさしかかった時、前方から菅笠をかぶった小柄な男が近づき、かたわらを過ぎた。不意に背後から声をかけられ、長英はふりかえった。一瞬、ききちがいかと耳を疑ったが、お頭、と呼ばれたような気がした。
「やはりお頭でごさいますね」
「どなたかな」長英は、警戒しながらたずねた。
「上州無宿の元一でございますよ」男は、ひきつれた顔で答えた。
「「元一か、おぼえておる」長英は、うなずいた。
南町奉行所には、異様な緊張感が張り詰めていた。
元一は、密かに尾行していた岡っ引きに、今、会った男が牢名主をしていた高野長英であることを伝えた。
家の所在を確認すると、元一とともに、奉行所へ急いだ。(「長英逃亡」より)
(碑文)
都旧跡 高野長英先生隠れ家
ここは昔の青山百人町与力小島持ち家で、質屋伊勢屋の隠れ屋、先生の隠れ家、又最後の処である。時は嘉永3年(1850)10月30日夜であった。この度、青山善光寺の碑の再建に際しここを表彰する。1964年
南町奉行所は、物々しい空気につつまれていた。与力の指示で、一番手、二番手、後詰の者が三つの集団に分けられた。一番手として動く同心、中間たちは、屈強な者が選ばれた。彼らは、偽の怪我人を担ぎ込んで踏み込む手はずになっていた。腰には十手を差し込んでいた。
戸が、静かに開かれた。「喧嘩による怪我人か」長英は、つぶやくように言うと、中に担ぎ入れるよう促した。
その瞬間、不意に男が勢いよく半身を起こし、「御用」と叫び、長英に組みついた。
長英の顔と体にに同心たちの十手が荒々しく降り下ろされ、たちまち頭と顔から血がふき出した。
久保町をぬけ、赤坂を過ぎた頃、長英の呻き声が高まり、尾をひくように続いたが、そのまま絶えた 。
与力たちは、責任を追求されることを恐れ、協議した末、死因が十手の乱打による者ではないという報告をすることを決めた。自ら喉を突き、それが致命傷になって死亡したということにした。(「長英逃亡」より)
南命山善光寺「高野長英の碑」
北青山にある南命山善光寺の山門を入った脇に「高野長英の碑」がある。長英終焉の地の石碑がある青山スパイラルからほど近い。
善光寺は、かつては谷中にあった。善光寺第109世大蓮社光忍円誉智慶が徳川家康に請願して江戸谷中に7500坪の土地の寄進を受けて、伽藍を建立した。谷中の旧地は玉林寺付近で、今でも「善光寺坂」と坂の名にその名残をとどめている。
高野長英の名誉が回復されたのは、没後48年たった明治31年のことであった。青山にある善光寺の境内には、顕彰碑がある。勝海舟による撰文である。
高野長英の碑
先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り、発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者であるその間に多くの門人を教え、又、訳書や著書八十餘を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり、47才で不幸な最後をとげた。最後の処は今の青山南町6丁目43の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治31年先生に正四位が贈られたので、同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処、昭和戦災で大部分こわれた。よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する。昭和39年(1964)10月
長英の遺体は塩漬けにされた。改めて死罪の申渡しを受け、遺体はしきたりにしたがって斬首されることになった。斬首された遺体は千住小塚原刑場の取捨て場に送られた。
長英の墓がある水沢 大安寺
下の写真は、長英の墓標が建つ水沢の大安寺である。
明治12年(1879)10月30日、水沢の大安寺境内にある高野家累代の墓地に高野長英の墓が建てられた。昭和11年(1936)10月30日に長英の肖像と垢つきの小布片を霊体として陶器に入れて新しい墓を建てた。
水沢に行った際に、高野長英記念館を見学した。
奥州市高野長英記念館
高野長英記念館は、郷土の先覚者としてその偉業を顕彰する記念館として昭和46年に開館された。記念館には、訳書、著書、手紙、遺品など約200点を展示している。その中には、長英が獄中で書いた「爪書の詩」や「砲家必読」全11巻などの貴重な資料も所蔵している。
高野長英の碑は、長英を郷土の先覚者として、その偉業を称え、顕彰したものである。
アジサイは高野長英の恩師シーボルトがこよなく愛した花である。牧野富太郎博士は、シーボルトが愛した妻の名前(おたき)を入れ学名とした。高野長英記念館敷地にふさわしい植物の一つである。
●参考にした書籍
吉村昭「史実を歩く」(文春文庫)
吉村昭「落日の宴」のゆかりの地を巡る
玉泉寺は、日本で最初に米国総領事館が置かれたところで、ハリスが領事館で暮らしていた当時の資料が残されています。日米和親条約が締結されたことを聞き、その半年後に再度、プチャーチンは下田に訪れます。その交渉が行われたのもこの玉泉寺でした。写真は玉泉寺の山門の前です。露艦ディアナ号水平墓所と書かれています。
玉泉寺の本堂です。
吉村昭『彰義隊』から上野戦争の爪痕を巡る
吉村昭の最後の歴史小説『彰義隊』
吉村昭は、生まれ故郷である日暮里や上野界隈を舞台とした上野戦争を小説にすることを望んでいたものの、躊躇していたと創作ノートで触れています。
それは、一日で朝廷軍に敗れる彰義隊を描くことの難しさ故です。
しかし、ある時、上野寛永寺山主・輪王寺宮能久親王を主人公にすることを思いつくわけです。それまで、輪王寺宮は、寛永寺を本営とする彰義隊に守護されていましたが、彰義隊が朝廷軍に敗れたあと、どのように落ちのびていったのか定かでなかったのです。
皇族でありながら、戊辰戦争で朝敵となった輪王寺宮は、思いかけず朝敵となり、さらには会津、米沢、仙台と諸国を落ちのびていくのです。
吉村昭の最後の歴史小説「彰義隊」は、輪王寺宮の数奇な人生を通して江戸の終焉を描いた感動の作品です。
ここでは、現存する上野戦争にまつわる史跡や輪王寺宮の江戸での足跡を追ってみることにします。
まずは、吉村昭の生まれ故郷である日暮里駅から歩き始めます。遠方には東京スカイツリーが見えています。
吉村昭の最後の随筆集『ひとり旅』の中に「濁水の中を歩く輪王寺宮」の章があります。
私の生れ育ったのは、山手線沿線の日暮里町である。幕末の江戸切絵図には、「根岸、谷中、日暮里」としておさめられ、大半が田地とされている。高台から眺めると「日の暮るるを忘る」ほど景色が良く、江戸名勝地の一つとされていたことから「日暮しの里」日暮里となったのである。
朝廷軍の弾痕が残る「経王寺」
日暮里駅南改札から石階段で高台に上がります。高台は、一面広大な谷中霊園です。道路に面した所に「経王寺」があります。
「経王寺」は、日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称しています。慶応4年(1868)の上野戦争の時、敗走した彰義隊をかくまったため、朝廷軍の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っています。
歴史が香る谷中の小径
境内に面した道を真っ直ぐ進むと、谷中銀座です。手前に「夕やけだんだん」があります。平日のしかも昼前ですが、結構賑やかです。最近では外国人観光客の姿が多いことに気がつきます。
ここから、谷中霊園、上野公園に目指して小径を歩きます。この辺りは、昔ながらの風情が残っていて歩くのも苦になりません。
この写真は、「初音小路」という小さな飲み屋街です。昭和レトロの佇まいが何とも言えません。
こちらは大正の頃の建物でしょうか。今も上手く建物を活かしているようです。
脇道に入ると築地塀(観音寺)も見ることができます。どこか遠くに来たような気がしてきます。この築地塀には、今も上野戦争の弾痕が残っていると言われています。国の登録有形文化財です。
この道沿いには、朝倉彫塑館や幸田露伴旧宅跡、北原白秋旧宅などがあります。また、おしゃれな小物を置いているお店もあって見所満載です。
谷中霊園は、街のなかにごく自然に溶け込んでいるような印象を与えています。
訪れるのは、徳川慶喜のお墓です。矢印で案内表示されているので、そのとおりに歩いていくと辿り着くことができます。
徳川慶喜が眠る谷中霊園
吉村昭の『彰義隊』は、第15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰るところから始まります。江戸に戻った慶喜は、賊徒、朝敵として厳罰を恐れ、自ら寛永寺に謹慎します。その後、和宮や勝海舟などの働きかけがあって、江戸は無血開城され、慶喜は水戸家で謹慎することになります。その間、上野寛永寺山主の輪王寺宮は慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走していました。
その後、慶喜は、水戸から駿府(静岡)に移り謹慎します。謹慎が解かれた後も静岡に住み続け、明治30年になって、東京に転居します。そして大正2年、77歳で亡くなります。慶喜は、徳川家の菩提寺ではなく、谷中霊園内に墓地を設けます。お墓は写真のように神式によるものです。
一方、皇族の身にも拘らず、朝敵となった上野寛永寺山主の輪王寺宮は、上野戦争で彰義隊が敗北したことにより、身の危険を感じ、身寄りを訪ね一時身を隠します。しかし、朝廷軍の追っ手から逃れることが厳しいと思った輪王寺宮は、幕府艦船で奥州へと逃走の旅を始めるのです。果たしてその先で輪王寺宮に待ち受けているものは・・・。
谷中霊園の中に御隠殿坂(ごいんでんざか)という坂があります。これは、寛永寺から輪王寺宮の別邸に行くために設けられたもので、「鉄道線路を経て」と記されているとおり、現在も鉄道線路の高架橋に繋がっています。
寛永寺に向かう途中、行列ができているケーキ屋さんを発見。このケーキ屋さんは、「パティシエ イナムラショウゾウ」のお店でした。意外にも、並んでいるのは、高校生を含め、男性ばかりなのに驚きました。
谷中霊園に向き合うように寛永寺根本中堂(当時の根本中堂は上野公園の噴水広場の辺り)が建っています。日暮里駅からのんびり歩いて1時間ほどで到着します。
東叡山寛永寺は、天海大僧正が寛永2年(1625)に上野の山に造営したもので、比叡山が京都御所の鬼門であるように、江戸城の鬼門の守りを意図して造ったものです。輪王寺宮が山主を勤めてきたお寺です。鳥羽伏見の戦いに敗れ、逃げ帰った徳川慶喜はこのお寺の一室で謹慎をしていました。
東京国立博物館の隣に寛永寺内輪王寺宮墓地があります。輪王寺宮の墓地を見ることはできませんが、当時の寛永寺旧本坊表門を直に触れることができます。
上野戦争の際に撃たれた弾痕がいくつも残されています。
江戸から明治の史跡が点在する上野公園
他にも、幕末の戦乱や寛永寺の面影を残す史跡が上野公園にあります。
上野公園噴水広場の横にあるプレートは、初代歌川広重による寛永寺全景を描いた浮世絵です。プレートの横には、寛永寺根本中堂跡の解説板があり、当時この場所に寛永寺根本中堂をはじめ、伽藍が建てられていたことがわかります。慶応4年の上野戦争で焼き払われています。
現在の噴水広場の様子です。突き当たりに見える建物は東京国立博物館です。上野戦争で焼き払われるまで、ここに東叡山寛永寺の伽藍がありました。
現在、その場所にはたくさんのカラーコーンが置かれていますが、一体何だと思いますか。上野動物園のパンダの赤ちゃん「香香(シャンシャン)」の入場整理券を待つ人用に急遽設けられたもののようです。今だに何千人もの人が並ぶそうですよ。
こちらは、1651年(慶安4年)に三代将軍徳川家光が造営した上野東照宮です。上野戦争で寛永寺の伽藍が焼失してしまいましたが、この上野東照宮には火の手が及びませんでした。
何年か前に化粧替えしたので美しい姿が蘇っています。
その先に寛永8年(1631年)に建立された上野大仏様があります。この大仏様は、安政大地震や関東大地震の際に頭部が落下し、第二次大戦では胴体部分が軍需のため金属供出されてしまいます。今では、「これ以上落ちない」ということから受験の神様として崇められています。隠れたパワースポットですね。
上野大仏前の植え込みに新潟県の草花「雪割草」が可憐に咲いていました。
京都の清水寺になぞらえて建立した清水観音堂。上野戦争や関東大震災からも免れました。
正面に立つ「月の松」は、平成24年に再建されたもの。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれています。
清水観音堂に上がり、「月の松」から先を望むと不忍池の弁財天が見えます。
不忍池の弁財堂は、琵琶湖に浮かぶ小さな島「竹生島」のお堂を見立てて造営したものです。6月下旬から8月上旬には蓮の花が湖面いっぱいに咲き誇ります。
慶應4年(1868)5月15日朝、大村益次郎指揮による朝廷軍は上野を総攻撃します。いわゆる上野戦争です。朝廷軍が備えた最新の銃器の効果は大きく、彰義隊は夕刻にはほぼ全滅し、一部の者たちが根岸方面に敗走していきます。あらかじめ、大村増次郎が被害を大きくしないようにわざと敗走できるようにと根岸方面の一角に軍隊を配置しないでいたためです。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されていましたが、南千住の円通寺の住職らによってこの場所で荼毘に付されました。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、政府を憚って、墓標には「彰義隊」の文字はありません。旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字が墓標に刻まれています。一部の遺骨は南千住の円通寺に埋葬されています。
彰義隊の墓の近くに、有名な西郷隆盛像があります。明治31年(1898)に建設されています。高村光雲の作です。設置場所については、議論が重ねられたようですが、西郷隆盛ゆかりの地ということで、上野に落ち着いたようです。
上野公園の玄関口では桜が満開です。この桜の木が上野公園が最も早く咲く大寒桜です。ここから上野広小路を抜けて、湯島天神(神社)に向かいます。
朝廷軍が駐屯した湯島天神
路地の先に湯島天神が見えます。路地を抜け、女坂の階段を上がります。この辺り一帯は江戸の頃は茶屋街があって随分と賑わいがあったそうです。写真の建物にも風情を感じます。
受験シーズンも終わり、学生の姿は見えませんが、ぎっしりと飾られた絵馬やおみくじに受験の神様の人気ぶりが現れています。この湯島天神に朝廷軍が駐屯していました。
彰義隊結成の地「浅草東本願寺」
上野から都営浅草線に乗り、田原町駅で下車します。しばらく歩くと、彰義隊が結成された浅草東本願寺があります。残念ながら当時を偲ぶものはありません。
輪王寺宮が身を寄せた浅草「東光院」
浅草東本願寺から合羽橋道具街方面に10分ほど歩いた所に「東光院」があります。このお寺は、上野の戦渦から抜け出た輪王寺宮がお付きの者と土砂降りの雨の中を必死で上野から逃れ、最初に身を寄せた場所です。この後、市ヶ谷の自証院に匿ってもらいます。
彰義隊士が眠る「円通寺」
南千住駅から徒歩10分程の円通寺があります。
円通寺は、彰義隊をはじめ旧幕臣の墓石などがあります。また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。
上野戦争の発端は、江戸は無血開城となったものの、これを認めずに、気勢をあげる彰義隊は日に日に、勢力を拡大していきました。そしてついには上野戦争が勃発し、その圧倒的な戦力差に彰義隊は、わずか一日で敗れます。
斃れた隊士の遺体は、朝敵ということで、野ざらしとされ上野の山は、地獄の様相となったと言われています。
この様子に、さすがに見かねた「円通寺」の住職である仏麿和尚らが協力し、彼らの遺体の一部である266体の遺体を「円通寺」に埋葬したのです。このような縁から現在、荒川区南千住の「円通寺」には、彰義隊をはじめ、新政府軍に戦いを挑んでいった旧幕臣らの墓や碑が数多く建立されています。
上野戦争の激戦地、黒門口に建てられていた「黒門」。無数の銃弾痕が、生々しく激戦の様子を伝えています。
墓石は、榎本武揚によって建てられました。墓碑銘も榎本の筆によるものです。
吉川英治の小説「松のや露八」の主人公として知られる松廼家露八こと土肥庄次郎の碑。碑の題字は榎本武揚によるもの。残念ながら、碑の上部が折れてしまっています。
江戸を脱し、木更津で戦死した旧幕臣、中田正廣の碑。正面の題字は榎本武揚の筆、碑文は山岡鉄舟の長男山岡直記によるものです。
朝廷軍の追っ手が忍び寄る中、輪王寺宮は江戸から離れる決意をし、会津、米沢、仙台と諸国を落ちのび、数奇な人生を送ることになります。
史跡案内マップ
吉村昭「桜田門外ノ変」ゆかりの地を歩く
「安政七年(1860)三月三日、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩におこって幕政改革をめざした尊王攘夷思想は、倒幕運動へと変わっていく。襲撃現場の指揮者・関鉄之助を主人公に、桜田事変の全貌を描ききった歴史小説の大作」(著作案内から)
『桜田門外ノ変』のゆかりの地を歩く
- 『桜田門外ノ変』のゆかりの地を歩く
- 前日、品川宿に集結
- 翌朝、雪の中、綱坂を上がる
- 神明坂を下り、中之橋を渡る
- 集結場所の愛宕山が見えてくる
- 井伊直弼の籠は桜田門に向かう
- 桜田門外ノ変のあと、もう一つ、余話があった
- 「彦城隠士」と刻まれた意味
- 桜田門外ノ変ゆかりの地マップ
前日、品川宿に集結
「鉄之介は、稲葉屋の男に案内されて最後の打合わせ場所である相模屋に行った。土蔵相模と称されているように土蔵づくりの大きな妓楼で、かれは玄関に入った。」
すでに当時の建物はなく、相模屋の跡にはお洒落なマンションが建っていました。稲毛屋もその並びにあったようです。
鉄之介は、最後に岡部三十郎と部屋を出た。・・・激しい降雪だった。・・・高輪南町の海ぞいの道を選んだ。」
下の写真は、江戸の南玄関、高輪大木戸の跡。
翌朝、雪の中、綱坂を上がる
「・・・二人は塀ぞいの道を右へ進み、綱坂をのぼった。雪がすべり、何度か手をついた」
神明坂を下り、中之橋を渡る
「登り坂がつづき、中の橋を渡った。」
集結場所の愛宕山が見えてくる
「山上には愛宕権現の社があって、かたわらに茶屋があり、縁台に腰かけている多くの男の姿が見えた。」
皆さん、息を切らしながらお参りされています。
井伊直弼の籠は桜田門に向かう
「雪につつまれた行列が近づき、藩主の華やかな駕籠が目の前をすぎた。短い橋を渡って桜田門の中に吸いこまれるように入ってゆく。その時、短銃の発射音が一発とどろき、それまで濠端と松平大隈守の屋敷の塀ぎわに立っていた同志たちが、一斉に抜刀して切り込んだ。」「指揮官の関鉄之助は膝を震わせながら見守っていた。」「かれらは、三々五々、濠沿いの道を、或る者は血刀をさげ、或る者は傷口に手をあてて歩き、日比谷門を左折した。・・・濠ぞいに北へとむかい、馬場先門前を過ぎた。」
桜田門外ノ変のあと、もう一つ、余話があった
・・・当時の住職が助けて事情をきくと、もしも藩邸にもどれば、なぜ死ぬまで藩主を守って闘わなかったのか、となじられ、必ず切腹を命じられる。それが怖しく、ここまで逃げてきた、と言った。
実際に広福寺に訪れてみました。
「彦城隠士」と刻まれた意味
桜田門外ノ変ゆかりの地マップ
吉村昭「闇を裂く道」の現場を巡る
先週末に読み終えた吉村昭さんの「闇を裂く道」が頭から離れず、渋滞を覚悟で、小説の舞台となった丹那トンネルと丹那盆地を巡ることにしました。
この小説は、東海道の熱海と三島の間を貫く丹那トンネルを開通させるまでの自然と人間の闘いをテーマにしたもので、この一帯が富士火山帯の謎の地層の地底を貫くという悪条件が重なる世界でも例を見ない難工事となった物語です。
まず、小説「闇を裂く道」から、吉村昭さんの「あとがき」を紹介します。
「両親は、静岡県出身で、父の菩提寺も静岡県富士市にある。静岡新聞から連載小説の依頼をうけた私は、・・・寺での帰途、普通電車で熱海に向かう途中、右手の沿線に立つ碑が視線をかすめ過ぎた。大正7年に起工し、16年を費やし完工した旧丹那トンネルの殉難者の慰霊碑で、私は、ほとんど瞬間的に、このトンネル工事の経過とそれに附随した事柄を書くことをきめた。」
この写真は、来宮駅から10分ほど歩いた所にある現役の東海道本線の丹那トンネルの入口です。上部にある銅板の数字「2578」は、丹那トンネル工事着工の西暦1918年を日本の皇紀で表したものです。右手には、「2594」(西暦1934年)の銅板があるのですが、蔦が絡み付いていて見えません。歴史が感じられます。
「明治維新が成って、明治5年5月7日、東京の品川、横浜間に敷設されたレールに初めて汽車が走った。」「明治中期までは、熱海へゆく湯治や避寒者は、小田原から歩く者が多かったが、人力車や駕籠に乗ってゆく者もいた。
・・・横浜から鉄道は、西にのびて国府津に達したが、そこから沼津までの工事は難航した。箱根越えの路線(御殿場線)で、急勾配が連続し、トンネルも7ヶ所うがたねばならなかった。明治22年2月1日、ようやくその工事を終え、新橋、静岡間が開通した。
・・・鉄道院内では、この急勾配の箱根線を通らぬ新しい路線を建設し、東海道線の輸送力を増強させるべきだ、という意見がたかまった。
・・・しかし、箱根から天城にかけては山脈がつづいていて、当然、その山脈をつらぬく長いトンネルを建設しなければならない。」
上の図は、当時、鉄道院が作成した計画図面です。朱色の線が、新たに敷設する東海道本線の路線です。下段は、丹那トンネルの計画図面です。
大正7年にトンネルは、熱海、三島両方面から中心に向かって掘り進むことになり、熱海側は、鉄道工業会社、三島側が鹿島組が選ばれました。7年後の大正14年に完成する予定でしたが、工事現場は、大量の湧水や崩壊事故、断層帯の突破などに阻まれ、工事は16年と大幅に遅れました。
丹那トンネル工事の犠牲者は、67名にものぼり、いかに難工事であったかが伺えます。
熱海口には、慰霊碑と丹那神社が建立されています。下の写真は、殉難者の慰霊碑です。
慰霊碑は、丹那トンネル入口の上部にあります。銅板には、亡くなった方の御名前が刻まれています。
通路を挟んで山側に丹那神社があります。
丹那神社の脇に「救命石」が大切に保存されています。
工事中に、落石があり、撤去作業が必要になりました。もし落石がなければ、大きな落盤事故に遭遇していたため、救命石として、祀られています。
丹那トンネルは、熱海口から鷹ノ巣山を抜け、丹那盆地の160メートル下を東西に貫いています。
計画当初は、ボーリング調査もなく、地表の状態等で実施決定をしましたが、実は、丹那盆地の中央には、丹那断層が南北を貫いており、丹那トンネルと交錯していました。そして、1930年、湧水のためトンネル工事が中断している最中に北伊豆地震が発生するのです。
新丹那トンネルとは、後に新幹線のためにつくられたトンネルで丹那トンネルと平行して作られました。
鷹ノ巣山から丹那盆地に向かう途中の車窓から丹那盆地の一帯を撮りました。
トンネル工事前の丹那盆地は、湧水が豊富なことから田んぼとワサビ田が主な産業だったそうです。その後、丹那トンネル工事により、湧水はトンネル内に浸み出し、盆地の川や井戸、湧水は枯渇し、日常生活も困難な状況に追い込まれていきました。
村の産業は、それまでの稲作とわさび田から一変し、畑と酪農を中心とする産業へと変貌を遂げざるを得ませんでした。
丹那盆地の中央にある酪農王国オラッチェ。オラッチェには、小動物とふれあうことができる公園とレストラン、牛舎があります。この連休中は、バーベキューセットと丹那の地ビールが付いて1,600円という特別企画中で、しかもペットokの場所なので美味しくいただくことができました。
オラッチェの隣りには、丹那牛乳の工場があります。丹那牛乳はとても美味しい牛乳なので、是非お土産にと思っていました。が、残念ながら、売れ切れでした。
気を取り直して、丹那盆地を散策することにしました。
丹那盆地の中央に丹那断層があります。
現在は、国指定天然記念物「丹那断層」公園として保存整備されています。
指定地には、当時の水路の石垣が活断層により、水平に横ズレが生じていることが良く分かります。奥には、断層地下観察室があります。
活断層のズレは、約2・6メートルにも達していました。
断層地下観察室にある左右の断層面にもズレが生じていることがわかります。
中央の亀裂が断層です。
かつて村の中央を流れ、豊かな水量が水田やワサビ田を潤していた柿沢川ですが、今はその川の流れを見ることはできません。
丹那断層公園から5キロメートルほど山あいを登ったところに火雷神社があります。中央にある鳥居と階段は、北伊豆地震以後につくられたものです。当時の倒壊した鳥居がそのまま遺されています(写真右下)。
倒壊した鳥居と途中でずれてしまった階段が当時のまま遺されています。
階段上から撮った写真です。地震により鳥居が倒れ、階段がズレているのがわかります。当時のまま遺されていることに驚きました。
1930年11月26日に起きた北伊豆地震の震度です。
丹那トンネルに断層のズレが生じていました。
「岩肌が鏡のようになめらかになっているのは、粘土質の東西の地塊が断層線を境にして、互いにこすり合いながら動いたからであった。」
「時事新報の主催の丹那研究会の座談会は、12月6日午前11時半から東京会館でもようされた。
・・・今後、工事中に同じ規模の地震が起きたら危険ではないか、という記者の質問に、脇水博士は、地震が起きてエネルギーが消散したので、今後100年から300年は、今回のような地震は起こらないと思う。と言った。」
・・・「北伊豆地震の後、徹底した水の排水と大量のセメント注入により、三島口坑道作業は、最大の難関を越えることができたのである。」
そして、丹那盆地をあとにしました。
7年間で貫通される予定でしたが、大正7(1918)年4月に着工してから16年という長い歳月が流れていました。
「大陸での緊張も増し、昭和12年7月には、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍との間で衝突が起こり、中国との全面戦争になった。・・・中国大陸での戦域が広がるにつれ、東海道、山陽線の兵員、軍需物資の輸送量が増し、大陸への連絡も密になった。これらの問題を解決しなければならぬという声が昭和13年末ごろから起こり、鉄道省建設局では超高速で走る弾丸列車計画を立案した。」・・・「新丹那トンネルは、東海道線の丹那トンネルと50メートルへだたった位置を平行して掘削することになっていた。ただし、丹那トンネル工事は大湧水になやまされたので、地下水の流れる所より5メートル上方に掘ることが決定していた。」
「全線の試験運転が繰り返され、10月1日に開業した。その日、午前6時、第1号列車の「ひかり」が東京駅を発車した。アイボリーと青に塗り分けられた電車は西へと疾走し、新丹那トンネルに驚異的な速度ですべりこんでいった。」
新丹那トンネルにカメラを向けた瞬間、東海道新幹線がトンネルに飛び込んでいきました。丹那トンネル工事では、自然の脅威をまざまざと見せつけられることになりましたが、尊い命を失いながら、困難に立ち向かう日本人の不屈の精神を見た気がしました。北伊豆地震から今年で87年目を迎えます。