吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「冬の鷹」の舞台を歩く

 わずかな手掛かりをもとに、ほとんど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。

 出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する。

 我が国近代医学の礎を築いた画期的偉業、「解体新書」成立の過程を克明に再現し、両者の劇的相剋を浮彫りにする感動の歴史長編。    

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江戸の町々に、春の強い風が吹き付けていた。

日本橋に通じる広い道を、中津藩医前野良沢は総髪を風になびかせながら歩いていた。

 吉村昭歴史小説「冬の鷹」 の書き出しです。

 前野良沢は、藩医として豊前中津藩中屋敷に住んでいました。現在の東京都中央区明石にある聖路加国際病院のところです。

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 当時、この場所は、築地鉄砲洲という地名で、下の絵図にある「奥平大膳大夫奥平昌服 豊前中津藩(大分)十万石」と書かれている場所にありました。

 前野良沢が仕えていた頃は、藩主奥平昌鹿侯の中屋敷でした。この地は、元々埋め立てられたところで、周りは鉄砲洲川と築地川に囲まれ、南側は隅田川に面していて、多くの船宿が軒を連ねていました。

 現在、両側の川は埋め立てられ、都会の小さなオアシス、公園になっています。

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 聖路加国際病院の先にある聖路加ガーデンは、明治初めの頃、築地居留地内の一部でアメリカ公使館があったところです。

 現在、聖路加ガーデンの前には「アメリカ公使館跡」の解説板があり、また隅田川の岸辺の歩道には当時の史跡が残されています。

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 聖路加ガーデンからは、隅田川を挟んで、向う岸の佃島や月島に建ち並ぶタワーマンションが見えます。


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 前野良沢が総髪を風になびかせながら歩いていた先は、日本橋本石町の長崎屋源右衛門の経営する宿「長崎屋」でした。

 当時、桜の蕾が膨らみ始める頃、長崎のオランダ商館長一行は、年に一回一ヶ月ほど、将軍に拝謁するため江戸に訪れていました。その期間、滞在している定宿がこの長崎屋でした。

日本橋が遠くに見えはじめた頃、良沢は足をとめた。急に気分が重くなった。面識のない西善三郎(商館長一行に随行したオランダ大通詞)を訪れることに気おくれがしてきたのだ。

かれは、幼少の頃から人と会うのが嫌いであった。・・・

ふとかれは、だれかを誘ってみようかと思った。かれは一人の人物を思い起こした。それは、以前に顔を合わせたことのある小浜藩医の杉田玄白であった。

幸い玄白は、長崎屋に近い日本橋堀留町に住んでいて医家を開業している。

 長崎屋は、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷から直線距離で約3キロほどのところにあります。前野良沢は、日本橋の「木屋」「越後屋」を通り過ぎ、路地を曲がり、杉田玄白を誘って、現在の日本橋室町3丁目の交差点付近に建つ長崎屋に向かっていたのでしょう。

 長崎屋の一本奥の通りに火の見櫓のような「時の鐘」(下の絵図の赤い鐘の目印)が建っていました。今でも、その通りを「時の鐘通り」と名付けられています。後ほど、現存する「時の鐘」も紹介します。

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 交差点の角に「長崎屋」はありました。


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 角のビル一階部分に新日本橋駅(JR東日本総武線の駅)の出入口があります。その脇に「長崎屋跡」の解説板があります。

 江戸参府の際には、商館長の他に通訳や医師なども連れ立って訪れていました。後の時代にはシーボルトも一行として滞在していました。

 オランダ商館長が江戸参府している時期に併せて、蘭学に興味を持つ蘭学者や医師たちが訪問し、先進的な外国の知識を吸収する場所になっていました。前野良沢もそのうちの一人でした。


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 絵図にあった「時の鐘」は、寛永3(1626)年に本石町3丁目に建てられて以来、日本橋周辺に時を知らせてきました。

 明治5年に本石町から日本橋小伝馬町の「十思公園」に移され保存展示されています。現在の鐘は、宝永8(1711)年に鋳造されたものです。

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 前野良沢に誘われて、ともに長崎屋に向かった杉田玄白は、親交を結んでいた平賀源内と、以前、長崎屋に訪れたことがありました。

 当時、平賀源内は和漢洋の多くの物産を一堂に集めた物産会の会主として活躍していて、西洋の知識を得ることに熱心で長崎屋に度々訪れていました。

 下の写真「平賀源内電気実験の地」は、平賀源内がエレキテルを修理して、日本人で初めて電気の実験をしたことを記念する石碑です。石碑は江東区深川にあります。

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 玄白とともに長崎屋に向かった良沢は、商館長一行に加わっていたオランダ大通詞西善三郎に面会し、オランダ語を修得する方法を尋ねることにしたのです。

 かれは、蘭書を自由に読む力をつけたいと西に言った。それは至難のわざであるに違いないが、同じ人間であるオランダ人の書きしるしたものが読めぬはずがない。かれは蘭語の研究に身を入れたいのだが、その方法を教えて欲しいと言った。

西は、良沢に眼を向けた。その顔には依然として柔和な表情がうかんでいたが、口から漏れた言葉は、「それは御無理だからおやめなさるがよい」という素気ないものであった。

 長崎屋に同行した杉田玄白は別れ際に、「オランダ語の修得は断念する」ということを口にしましたが、良沢は西の忠告を排してオランダ語の勉学の手掛かりを得たいと思い、江戸のオランダ語研究者の青木昆陽のもとに弟子入りすることにします。

 初歩的なものでしたが、青木昆陽は700語以上の単語を分類した「和蘭文字略考」という著書を著していました。しかし、1年も満たず、老齢の昆陽は病臥の身となり、オランダ語の初歩を学ぶ貴重な機会を失われてしまいます。

 その後、良沢は藩主奥平昌鹿に長崎遊学を願い出ます。藩主は、医術修行でなく、オランダ語を極めたいという良沢の思いを理解し、多額の金子を出して、長崎に送り出してくれたのです。

 100日ばかりの長崎遊学ではほとんど得るものはなかったのですが、藩主から頂いた金子で「仏蘭辞書」とオランダの腑分け書「ターヘル・アナトミア」を手に入れることが叶い、江戸に戻って来たのです。

妻の珉子は、三人の子を生んだ。二人の娘は、妻に似て目鼻立ちがととのい肌も白く、息子の逹は、良沢に似て背丈の高い若者に成長している。・・・

幼くして父をうしない、母に去られ、孤児となった良沢にとって、妻と三人の子にかこまれた生活は得がたいものに思われた。

 玄白とは5年前に長崎屋で会って以来、顔を合わせていませんでしたが、この頃、玄白は、かねてから腑分けに立ち入って人体の内部を直接見たいという願望を持ち、町奉行にもその機会を与えてほしい旨の願いを出していました。

杉田玄白様から頼まれましたと、辻駕籠の者が持って参りました」珉子は言った。良沢は、すぐに書簡を開き行燈の灯の下で文字を追った。・・・

それによると、明日千住骨ケ原で刑死人の遺体を腑分けするが、もしもお望みなら骨ケ原刑場へお越しなさるがよいという。・・・

良沢は、ターヘル・アナトミアを紫の布につつんで中屋敷を出た。 

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刑場は広く、処刑者の遺体が至るところに埋めせれているらしく土の表面が遠くまで波打っている。その地表に雑草がまばらに生え、その中に石像坐身の地蔵と南無阿弥陀仏ときざまれた石碑の立っているのが、その地を一層寒々としたものにみせていた。

 上の写真は、JR南千住駅近くにある延命寺首切り地蔵です。江戸時代に小塚原刑場で刑死した人たちの菩提を弔うために寛保元(1741)年に建立されたものです。その隣には小塚原の刑場跡に建つ回向院があります。

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 回向院に入ると、右側の壁面に小説「冬の鷹」の表紙にもなったレリーフと「蘭学を生んだ解体の記念に」と題された解説があります。

 日本医史学会、日本医学会、日本医師会が、杉田玄白前野良沢中川淳庵等が安永3(1774)年に解体新書5巻を作り上げた偉業をたたえたものです。

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 この小塚原の刑場では、火罪、磔、獄門などの刑罰が行われるだけでなく、刑死者等の死者の埋葬も行われていました。時に、刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も行われてきました。

 明治前期にはその機能も廃止され、回向院は顕彰、記念の地となっていき、橋本左内吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となっていきました。


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 玄白も良沢も、競い合うようにターヘル・アナトミアのページを操って解剖図をさぐった。

「ございました。確かにこれでござる。位置も形も全く同一でございます」玄白が、甲高い声をあげた。・・・

「いかがでござろうか。このターヘル・アナトミアをわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか」玄白の顔には、激しい熱意の色が見られた。・・・

良沢は、彼らとともに翻訳事業に取組むことを固く心に決めた。

 翌日から、小浜藩杉田玄白中川淳庵は、築地鉄砲洲の中津藩大名屋敷に通い、オランダ語の初歩的な知識を持つ良沢を師と仰ぎ、翻訳作業を始めることになります。

 

 築地鉄砲洲の中津藩大名屋敷の跡地である聖路加国際病院の構内には、前野良沢らがオランダ解剖書を初めて読んだことを記念した碑が建てられています。

翻訳作業を始めて2年余りが過ぎました。

玄白は、出版を予定している「解体新書」の草稿の整理に勤めていた。・・・

かれは、出版についてその形態をどのようにすべきか思案していた。ターヘル・アナトミアの翻訳は、前野良沢の語学力なしには到底果たし得ないものだった。と言うよりは、良沢の翻訳環境を玄白らが整えたに過ぎないといった方が適切だった。・・・

 玄白は良沢を訪ね、翻訳の盟主である良沢に序文をしたためてほしいと伝えると、良沢は、「それはご辞退したい」と即座に答えます。

そして、「私の氏名は、翻訳書には一字たりとも記載していただきたくないのでござる」ときっぱりとした口調で言ったのです。

かれは、ターヘル・アナトミアの翻訳書ー「解体新書」の刊行には不賛成だった。少なくとも時期尚早と信じていた。さらに長い年月を費やして訳を練り、完訳を果たして後に初めて刊行すべきものと思っていた。しかし、玄白は、ひたすら出版することのみに心を傾けていた。

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本文の巻之一から四の冒頭には、「解体新書」訳業の関係者の氏名が左のように記されていた。

若狭 杉田玄白翼  訳

同藩 中川淳庵鱗  校

東都 石川玄常世通 参

官医東都 桂川甫周世民 閲

・・・

「解体新書」が出版されてから、4年目の春をむかえた。杉田玄白蘭方医家としての名声は華々しく多くの学徒が入門を乞い、天真楼塾の名はひろく知られるようになった。・・・

かれ(前野良沢)の唯一の楽しみは、酒であった。かれは、訳読を終えると、妻の手料理に箸を動かしながら酒をふくみ、食事をする息子の逹と娘の峰子の姿を眺める。それは、かれに一日の仕事を終えた安息をあたえていた。・・・

収入は、藩医として授けられる定まったものだけで、生活は貧しかった。・・・

「解体新書」の出版から20年近く経った。

杉田玄白は六十歳の誕生日を迎えていた。・・・

養子の伯元は、養父玄白の還暦を祝う催しを企画し、たまたま前野良沢が七十歳の古希を迎えていたので祝宴に招待することになった。

誘いを受けた良沢の感情は、複雑だった。玄白とターヘル・アナトミアの翻訳を志してからすでに21年が経過している。

その訳業は「解体新書」として出版されたが、同書に名をとどめることをきらった良沢と代表訳者として出版を進めた玄白との境遇は、それを分岐点として大きな差を生んでいた。・・・

玄白は江戸随一の蘭方の流行医として名声を得、それに比べて良沢は、オランダ語研究に没頭し次々と蘭書の翻訳を続けていた。それらを出版することを拒んでいたので、名声と富には縁がなかった。  

かれは金銭の貯えもなかったので家を買い求めることができず、御隠殿坂の近くにある小さな借家を見つけて、そこに移り住んだ。

 現在の御隠殿坂は、谷中霊園からJR山手線等の跨線橋を越え、根岸3丁目につながる通路ですが、この御隠殿とは東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸のことで、江戸時代、寛永寺から輪王寺宮が別邸へ行くために造られた坂でした。この坂の周辺に借家を借りて良沢は住んでいたようです。

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 ターヘル・アナトミアの翻訳を志してから、すでに27年という長い歳月が経過した。そして、「解体新書」の出版とともに良沢との交際は断たれた。かれは、江戸のみならず全国に名を知られた大蘭方医と称されるようになったが、良沢は、一般人には無名の一老人にすぎず、侘しい暮らしをしている。その差は、余りにも大きい。

玄白は、良沢に対してひそかにひけ目を感じていた。ターヘル・アナトミアの翻訳は良沢の力によるものであったが、訳者は玄白になった。それによってかれは輝かしい栄光につつまれたが、良沢は貧窮の道をたどっている。

享和三年が、明けた。

良沢の老いは、さらに深まった。歩行も困難になって、ほとんど坐ったままであった。・・・

十月十七日朝、良沢は昏睡状態におちいった。そして、その日の午後、かれの呼吸は停止した。

かれの遺体は棺におさめられ、菩提寺の慶安寺に葬られた。通夜にも葬儀にも焼香客はほとんどなかった。戒名は、楽山堂蘭化天風居士で、妻珉子、息子逹と長女の戒名の並べられた小さな墓碑に、かれの戒名もきざまれた。

かれの死は、その日のうちに杉田玄白にもつたえられた。が、玄白は近所の患家と駿河台の患家に往診におもむき、良沢の息をひきとった小島春庵の家へは足を向けなかった。・・・

玄白は、良沢の死んだ当日の日記に「十七日雨曇近所・駿河台病用」という文字の下に、「前野良沢死」という五文字を記したのみであった。

執筆を終えた翌日、私は、良沢の墓のある慶安寺に赴いた。良沢の歿した頃、同寺は下谷池ノ端七軒町にあったが、大正三年に現在の東京都杉並区梅里一の四の二十四に移され、墓もその境内に立っている。(あとがき)

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碑面には、三つの戒名が並んで刻まれていた。右側に良沢の子の逹の葆光堂蘭渓天秀居士、中央に妻の珉子の静寿院蘭室妙桂大姉、左側に良沢の楽山堂蘭化天風居士という戒名がそれぞれ見える。

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さらに暮石の側面に、良沢がターヘル・アナトミア翻訳中に病死した長女の報春院現成妙身信女という戒名もある。つまり、他家に嫁した次女峰子を除く家族すべてがその暮石の下に埋葬されているのだ。

孤児同然の淋しい生い立ちであったが良沢が死後も家族と共にあることに、私は安らぎを感じた。(あとがき)

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 かれの栄華は、つづいた。・・・

かれの琴線に対する関心は強く、寛政七年末には、「・・・富は智多きに似て貧は魯に似る。人間万事銭神に因る」という詩を作ったが、金銭の力を信じていた合理主義的な人物でもあった。・・・

文化十四年、玄白は八十五歳の老齢に達した。病弱で結婚まで逡巡したかれにとっては、夢想もできぬ長寿であった。

四月十七日は、美しく晴れた日であった。その日、かれは不帰の客となった。・・・

戒名は九幸院仁誉義貞玄白居士で、棺は長い葬列とともに芝の栄閑院に運ばれた。

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 読後、 再び、聖路加国際病院構内にあるモニュメントの前に立ってみました。

 この場所で、前野良沢杉田玄白らが意気投合し、ターヘル・アナトミアの翻訳に夢中になっていた頃のことを思い浮かべながら。

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 参考までに「冬の鷹」の舞台となった場所をマップにしました。 

                                           (完)

島抜け-「梅の刺青」の舞台を歩く

 吉村昭歴史小説「島抜け」(新潮文庫)には、「島抜け」、「欠けた椀」、「梅の刺青」の三篇が収録されています。

 今回は、その中の「梅の刺青」を取り上げ、その舞台を歩きます。

 「梅の刺青」は、明治2年に日本最初の献体をした元遊女をはじめ初期解剖の歴史を主題とした小説です。

 吉村昭は、元遊女の解剖に立会った医学者石黒忠悳氏のご子孫のもとに伺い、日記を見せてもらい、解剖の記述の中に遊女の腕に梅の小枝の刺青が彫られていることに衝撃を受けたとあとがきで書いています。

 さらに、以前から吉村昭が関心を寄せていたという元米沢藩雲井龍雄が、同じように解剖に付されていた事実を突き止め、「梅の刺青」の創作意欲を抱いて筆をとったと後述しています。

 

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元遊女みきのこと

 東京都文京区白山にある「念速寺」に「梅の刺青」の主人公の元遊女みきの墓石があります。

 本堂の前には、文京区指定史跡「美幾女墓」(特志解剖一号)と書かれた解説板が建てられています。
解説板の文字を起こしてみますと、
 美幾女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美幾女は、病重く死を予測して、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)8月12日、34歳で没した。
 死後、直ちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら屍体を提供することの難しい時代にあって、美幾女の志は、特志解剖一号として、わが国の医学 研究の進展に大きな貢献をした。
 墓石の裏面には、"わが国病屍解剖の始めその志を憙賞する"と、美幾女の解剖に当たった当時の医学校教官の銘が刻まれている。
                          文京区教育委員会

 
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 墓地は、本堂の裏手で、美幾女の墓は千川通りの塀ぎわにあります。しっかりとしたアクリル板で覆われていて、「美幾女の墓」と記されているのですぐ見つけることができます。墓石は思っていたよりも、小さな作りでした。


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 解剖と言うと、明和8年(1771)3月4日に杉田玄白前野良沢中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」を刊行したことが有名ですね。
江戸時代後期になると、西洋医学を学ぶ者によって、解剖が続けられましたが、幕府が公認しているのは中国医学だったことから、漢方医たちの西洋医学への反発があり、江戸で行われることは稀でした。
 
 明治維新以来、一例もないことから苛立っていた医師たちは、医学校に付属していた黴毒院に視線を注ぐようになっていました。その医療所は、広く蔓延する梅毒に侵された重傷患者を収容していましたが、治療法もなく死を迎える者がほとんどでした。
 
 黴毒院は、徳川吉宗が創設した小石川養生所の性格をそのまま受け継いだところで、極貧の梅毒患者に無料で薬を与え治療を施す施療院でした。

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 黴毒院に入院している患者の中に、みきと言う34歳の女がいました。長年遊女をしていた女で、みきの病勢は進み、体は痩せこけ、寝たきりの状態で舌もただれて出血し、激痛に悶えていました。みきも死を自覚していました。
 
 医学校の医師は、医学の進歩のため死後の解剖を受け容れるように溶きます。みきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという言葉でした。遊女は死ぬと投込寺の穴に遺棄されるのが習いだったことから、戒名をつけて、然るべき寺の墓地に埋葬し、墓も建ててやるという説得を受け容れたのです。
 下の写真は、小石川植物園内にある旧養生所の井戸です。
 
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 旧藤堂家の江戸屋敷に建てられた医学校では、直ちに解剖の準備に手を付けました。

 体の所々にはただれの跡が残り、身体は痩せこけ骨が浮き出ている。乳房はしぼんでいるが、隠毛の豊かさと艶をおびた黒さが際立っていた。

 遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。

 それは、刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に「・・・さま命」と記されている。

 小石川植物園でも、梅が少しづつ咲き始めていました。(スマホで撮影)

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 親族の意向により、小石川戸崎町の念速寺に埋葬することが決められました。
 白提灯灯をかかげた長い葬列に、沿道の人々は身分の高い死者の葬送と思ったらしく、道の端に身を寄せ、合掌し頭を垂れる者もいたそうです。
  四人の僧の読経のもと葬儀が行われ、みきには「釈妙倖信女」という戒名がおくられました。

 

米沢藩雲井龍雄のこと

 吉村昭歴史小説「梅の刺青」は、解剖される側の人間を描きながら、日本の死体解剖の歴史を掘り起こしています。
 日本で初めて解剖が行われたのは、宝暦4(1754)年でした。
 京都の古医方の大家山脇東洋が、それまで誰も疑うことのなかった中国医学五臓六腑説が果たして正しいのかを確認したいという願望から始まっています。
 宝暦4年2月7日、京都六角の獄舎で罪人5人が斬首刑に処され、嘉兵衛という38歳の罪人の解剖が行われました。
 その後、腑分けが続きますが、明和8(1771)年3月4日に杉田玄白前野良沢中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」の刊行に繋がっています。
 
 南千住駅の近くにある小塚原回向院に入ると、「解体新書の扉絵」と「蘭学を生んだ解体の記念に」が刻まれた記念碑が掲げられています。
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 明治政府が発足してからは、解剖は東京のみで行われていました。明治2年8月の美幾女(みき)の解剖を最初に、黴毒院患者の生前志願によるものでした。

 

 その後、社会情勢が不安定なことから犯罪がしきりに発生し、処刑される罪人の身許不明者が多いことから、大学東校(東京医学校前身)のある旧藤堂家屋敷の敷地内で処刑された罪人の解剖が行われるようになりました。

 
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 小塚原回向院の墓地には、安政の大獄等で斬刑(梟首刑)に処された橋本左内吉田松陰らの墓石が並んでいます。

 

 その中の一つに「雲井龍雄」の墓碑があります。墓碑には「雲井龍雄遺墳」と刻まれています。

 

 いずれも伝馬町牢屋敷で斬首された後、梟首刑の者は野捨てにされる定めとなっていて、斬首された頭部は小塚原刑場にさらされました。

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 5年ほど前に吉村昭歴史小説「島抜け」を読んでいた際、亡き友人が眠る「円真寺」が、著書のなかで重要な場所として登場していることに気付き、米沢藩雲井龍雄について知る機会となりました。

 雲井龍雄のことについては、藤沢周平歴史小説「曇奔る-小説・雲井龍雄-」に詳しく書かれています。
 
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 円真寺は、東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ日蓮宗の寺院です。
 米沢藩雲井龍雄と円真寺について、吉村昭の「島抜け(梅の刺青)」から紹介します。
 雲井は、慶応元年正月、二十二歳で江戸警衛に派遣された。任期後も江戸にとどまって、考証学の大家安井息軒の門に入って、多くの俊才と交わり、憂国の情熱を燃やすようになった。米沢にもどった雲井は、情勢に即した藩論を定めるべきと強く説き、藩命を受け探索方として京都に潜行した。
 明治元年薩摩藩長州藩とともに倒幕の兵を起こし、強硬な薩摩藩の動きに反撥した雲井は、各藩の代表者に接近して倒薩論を強く唱えた。倒幕軍が江戸を占拠して東北への進撃を開始すると、雲井は関東に潜入し、さらに東北諸藩によって成立した奥羽列藩同盟を支持して激しい動きをしめした。
 薩摩に反撥する諸藩の連合のもとに、江戸を奪回する檄を発したりした。雲井のもとには、薩摩藩が主導権を握る政府に反感をいだく旧幕臣や脱藩浪士たちが集まり、雲井は芝二本榎の上行寺と円真寺を借りてそれらの者を寝泊まりさせ、「帰順部曲点検所」という標札をかかげた。
 帰順とは、雲井らが服従して政府の兵力になるというものであったが、それが容れられた折には政府の武器を手に反乱を起こそうと企てていたのである。
 政府は雲井に手を焼き、彼を隔離すべきだと考え、藩に命じて米沢に禁錮させた。東京に残された者たちは、挙兵の準備に取り組んで動き、これを政府の密偵が的確につかんで、次々に逮捕した。
 彼らの中には拷問に堪えきれず、雲井が政府転覆を企てて不満分子を積極的に集めていたことを告白する者もいて、罪状は明白になった。
 雲井は、三十名の兵の護衛の元に東京に押送され、八月十八日に小伝馬町の獄舎に投じられた。

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 雲井の遺体は、会津藩士原直鐡をはじめ九体の遺体とともに甕に入れられて大学東校に運ばれた。
 初めに甕から出されたのは、雲井の遺体であった。解剖台にのせられた雲井の体はきわめて小柄であることに、見学者たちの顔には一様に驚きの表情が浮かんだ。
 政府転覆を企てた一党の首魁である雲井は体躯も大きいと予想していたが、体は華奢で肌は白く、あたかも女体のようであった。解剖後、雲井の遺体は、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられた。
 他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれ僧の読経のもとに無縁墓地に埋葬された。
 小塚原回向院に埋葬された雲井の遺体は、その後米沢に移葬されますが、その際に建てた自然石「竜雄雲井君之墓表」が谷中天王寺(現谷中霊園)にあります。
  撰文は人見寧によるもので、雲井の事績が刻まれています。
 人見寧は旧幕府遊撃軍の幹部で戊辰戦争では雲井と刎頚の交わりを結び、新政府軍に抗した人物です。


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 雲井の遺体は解剖後、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられましたが、他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれました。

谷中天王寺

 谷中天王寺は、戊辰戦争上野戦争)の際、幕府側・彰義隊の営所となったため官軍との戦闘に巻き込まれ、本堂(毘沙門堂)などを焼失しています。


 さらに明治初年の廃仏毀釈神仏分離寛永寺の広大な境内地が上野公園になるなどの荒波を受け、天王寺も境内の多くを失っています。


 都立谷中霊園も江戸時代には天王寺の墓地(徳川将軍家の墓地は寛永寺墓地)。中央の園路は天王寺の参道だったそうです。


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 元禄13年(1700年)には感応寺(現・天王寺)に対して富突(富くじ)の興行が許され、湯島天神目黒不動瀧泉寺)とともに「江戸の三富」に数えられていました。


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 境内にある「元禄大仏」(露座、銅製)は、元禄3年(1690年)鋳造の釈迦牟尼如来坐像。神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造し、像高296センチです。
 江戸時代後期の天保年間(1831年〜1845年)刊行の『江戸名所図会』にも記される大仏なので、当時からかなり有名だったことがわかります。

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 谷中の墓地(都立谷中霊園)にある五重塔の跡は、寛政3年(1791年)再建の天王寺五重塔の跡です。

 

 戊辰戦争の戦火を逃れた五重塔ですが、昭和32年に放火(谷中五重塔放火心中事件)で焼失してしまいます。幸田露伴の小説『五重塔』は、その顛末を題材にしています。


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 雲井龍雄らの解剖のあと、刑死者の遺体解剖は頻繁に行われるようになりました。

 

 明治5年8月に旧藤堂家屋敷にあった大学東校は、第一大学区医学校と改称され、明治7年5月に東京医学校となります。

 その後、東京医学校は、明治9年11月に本郷の加賀藩屋敷跡に校舎を新築し、翌年4月に東京大学医学部と改称されます。

 小石川植物園にあった旧東京医学校本館は、その時に建てられたものです。

 

千人塚と東京大学医学部納骨堂

 明治14年に入って、解剖遺体が千体に及んだので、霊を慰めるために千人塚を建立する計画が起こり、谷中霊園にその年の12月に碑が建立された。

 その後、千人塚はさらに2基建てられ、年に一度、東京大学医学部の主催で多くの医学部関係者が集まり、しめやかに慰霊祭が行われている。

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  千人塚の隣にある東京大学医学部納骨堂
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 吉村昭は、随筆「わたしの普段着」の中でも「雲井龍雄と解剖のこと」について触れています。

 私はこれらの解剖を記録をもとに小説を書いたが、その記録を繰ってゆくうちに思いがけぬ記述を眼にした。

 解剖された刑死者の中に雲井龍雄という名を見出したのである。

 解剖記録によると、雲井と原をはじめ十体の斬首された遺体は大学東校(医学校改め)に運ばれ、解剖に付されている。

 それを見学した者の記録に、雲井の体が華奢で肌は白く、「女体ノ如シ」と記されている。

米沢に行って雲井のことを調べたが、その死は梟首とあるのみで、遺体が解剖されたとはされていない。

 吉村昭歴史小説「島抜け」を読んだことで、元遊女みきが眠る、東京都文京区白山にある「念速寺」を巡り、そして、米沢藩雲井龍雄が活動の拠点とした東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ円真寺を巡る機会となりました。円真寺は、同僚が眠る寺院ということもあり、関心を持ちました。

 この「梅の刺青」は、二人の生き様を通し、日本の解剖の歴史を、医学の発達を私たちに教えてくれています。

万年筆の旅

「万年筆の旅」は、吉村昭記念文学館の広報誌の名称で、吉村昭の夫人で作家の津村節子氏による題字です。この広報誌「万年筆の旅」は吉村昭記念文学館の準備室が開設された2013年3月から発行されていて、最新刊は第15号となっています。

2006年1月、荒川区から吉村氏に、氏の功績を顕彰する文学館の構想を伝えたところ、「区の財政負担にならないこと、図書館のような施設と併設すること」を条件に設置を承認されたそうです。その半年後に吉村昭は亡くなりますが、夫人で作家の津村節子氏の協力で蔵書、原稿、愛用品などが寄託され、2017年3月に図書館「荒川区立ゆいの森あらかわ」に併設する形で吉村昭記念文学館はオープンしました。

吉村昭記念文学館ができるまでは、日暮里図書館内2階に「吉村昭コーナー」がありました。吉村昭の蔵書や直筆の原稿などがある小さなコーナーでしたが、吉村昭の小説に対する思いが伝わる素晴らしい場所でした。この小さな「吉村昭コーナー」には、2013年6月に明仁天皇陛下(現上皇陛下)も訪れていて、「万年筆の旅」第2号にも紹介されています。

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この写真は、最新刊の吉村昭記念文学館news Vol.15の巻頭を飾ったもので、吉村昭の仕事場(書斎)の写真かと思います。
吉村昭記念文学館は吉村昭ファンの聖地ともいえる場所で、私も何度か見学に行きました。
私が初めて読んだ吉村昭の小説は、「漂流」でした、次に読んだのが「羆嵐」です。2冊とも吉村文学を代表する作品です。これでハマりました。 

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私が「吉村昭記念文学館友の会」に入会したのは、準備室ができた2013年でした。下の写真の上段の紫色のものがその会員証で、2017年に開館するまでの期限付きでした。当時300人ほどいたそうです。下段の赤色のものが、2017年に開館して以降に発行された会員証です。
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友の会に入会すると、「万年筆の旅」が毎回送られてきますから、吉村昭記念文学館のイベント情報を知ることができます。また、文学館に展示されている常設展示図録(144ページ)が送られてきます。そこからは、吉村昭の人間像を知ることができ、展示されている資料に解説が添えられているので、作品を深読みすることができます。
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「メガネ拭きクロス」も同封されています。メガネをかけていた吉村昭には必需品のひとつだったのかも知れませんね。描かれている絵は、吉村昭の書斎から見える愛犬クッキーです。
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あと、スタンド式のカレンダーも入っていました。
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最新の吉村昭記念文学館news Vol.15と一緒に送られてきたのは、下の写真にある「戦後75年戦史の証言者たち(令和2年度企画展)」の図録(64ページ)です。

今回の企画展は、新型コロナウィルス感染拡大防止の折、館内展示を控え、ウェブサイトで開催されました。

ページをめくると、吉村司氏(吉村昭の長男)が寄稿した「父と戦艦武蔵」が掲載されています。

私も父の作品で何を勧めるか? と問われたら「戦艦武蔵」を筆頭に上げる。しかし、この小説が発表されてベストセラーになった時、父の純文学が好きだった小学生の私には事実だけを書いているように思えたこの作品を、これでも小説なのか? と言ってしまったことがある。しかし、そんな私が今、愛好し読み返す父の作品と言えば、圧倒的に記録小説だ。父という小説家が歴史に対峙すると、それまで本質が埋もれていた史実も生き生きと蘇ってくる。それは、多くの読者も同感されるのではないだろうか。私は親孝行ができなかったといって悔やむ息子ではないが、小説「戦艦武蔵」は最高だと、存命中の父に言えなかったことが、唯一私の悔いとなっている。

吉村昭記録文学の原点は「戦艦武蔵」と「戦艦武蔵ノート」に書かれてあると思う。この企画展を機に改めてこの2作品を読み返そうと思っている。(出典「戦後75年戦史の証言者たち(令和2年度企画展)」)

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友の会入会と同時に送られてくる「吉村昭記念文学館常設展示図録」には、「吉村作品の舞台と取材地」(A2サイズ)が挟み込まれています。以前からこうした情報が欲しいと願っていたので、これを見た瞬間、これだけでも友の会に入会した価値があると思ったほどです。

一昨年は、小説「長英逃亡」の舞台である東北地方を巡り、昨年は小説「夜明けの雷鳴」の舞台、北海道函館を歩きました。さて、今年はどこに行こうかと思いを膨らませています。これだけ作品の舞台があるとなかなか制覇するのは容易ではありませんね。
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小説「黒船」の舞台を訪ねて

ペリー艦隊来航時、主席通詞としての重責を果たしながら、思いもかけぬ罪に問われ入牢すること四年余。その後、日本初の本格的な英和辞書を編纂した堀達之助の一生を克明に描き尽くした雄編(「黒船」から)

    小説 「黒船」では、 通詞堀達之助の数奇な運命を辿りながら、幕末維新のターニングポイントを描いています。ここでは、堀達之助とともに、黒船の出現により、運命を変えた元浦賀奉行所与力の中島三郎助に焦点を当てながら、黒船に関わる現地を訪ねます。                   

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今回は、吉村昭の「黒船」をもとに、黒船来航の地、浦賀を訪ね、旧幕臣として、榎本武揚土方歳三らと共に箱館戦争で闘い、壮絶な死を遂げた元浦賀奉行所与力の「中島三郎助」にスポットを当てながら紹介していきます。

この写真は、久里浜にあるペリー公園に建てられたペリー上陸記念碑です。
ペリー提督は、4隻の黒船を率いて浦賀沖に姿を現しました。そして、この久里浜に上陸し、大統領の開国と通商を求める親書を幕府に渡します。嘉永6(1853)年6月のことです。

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 最初に黒船が来航した際、浦賀奉行所与力の中島三郎助に異国船検分の命が下ります。異国船への乗船を試みますが、ペリー提督から無視されます。ペリー提督は、身分の最も高い者との交渉を望んでいたからなのです。
 その時に通詞として随行していた堀辰之助が機転を働かせ、ペリー提督に対し、与力の中島三郎助を浦賀奉行所副奉行として紹介し、漸く黒船に乗船することができ、来航の目的など検分することができました。
  この中島三郎助と数奇の縁を持つ通詞堀辰之助は、後に幕府の命で、箱館に行くこととなります。しかし、その後の幕府瓦解により、新政府の官吏となり、箱館戦争を迎えるのです。
 今回の「黒船」探訪は、京急浦賀駅からのスタートです。駅前の交差点を渡り、浦賀港の西側(西浦賀コース)を進みます。

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浦賀警察署の手前に「大衆帰本塚の碑」があります。この石碑に刻まれている文章は中島三郎助によるものです。
 
江戸時代、この辺りは湊の繁栄と共にコレラなどの疫病により多くの人が行き倒れになったため、無縁仏の墓地があった場所で、市外に墓地を移転させるために建てたものです。

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 西浦賀の湾口に向け進むと東浦賀への渡船場が見えてきます。

渡船からの見た景色です。奥に見えるのが浦賀ドッグです。

 安政6年(1859年)に日本で初めてドライドッグとして造られました。ここで鳳凰丸を造船し、また、サンフランシスコへの就航に向け咸臨丸の整備をしました。 

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乗って5分、東浦賀船場に到着します。 

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乗って5分、東浦賀船場に到着です。

浦賀の船着場の横に「徳田屋跡」の解説板があります。
徳田屋とは東浦賀の旅籠で、浦賀江戸湾防衛の最前線となると、多くの武士や文化人が訪れたといわれています。その中には、吉田松陰佐久間象山がいました。

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船着場にはお洒落なカフェがあります。カフェの建物の柱には、中島三郎助が活躍した箱館戦争の解説板がありました。
中島三郎助の聖地であることが伝わってきます。

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東林寺には、浦賀奉行所与力だった中島三郎助親子の墓があります。

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中島三郎助の墓は、右手前の墓石です。ここで、中島三郎助の人物像に少し触れたいと思います。

 中島三郎助は、黒船来航の折に浦賀奉行所副奉行と称し、旗艦サスケハナ号の船上でペリー提督と交渉に当たります。その功績は大きく、中島は幕府から金一封を貰い受けます。

黒船来航を機に、全国に海防のお触れが出され、品川には台場が造られ、砲台が全国各所に整備されるきっかけとなりました。
幕府にとって最初の西洋式大型軍艦となる鳳凰丸の建造は、中島三郎助らが担当することになります。
 その後、幕府の命により勝海舟らと共に長崎海軍伝習所の第一期生として、軍事と航海術を修得し、築地海軍操練所に教授として迎えられます。
 しかし、勝海舟と反りが合わず、浦賀で咸臨丸の修理に携わりながらも、遣米使節団には選ばれませんでした。
 再び浦賀奉行所に戻りますが、ちょうどその頃、幕府が瓦解し、浦賀奉行所も新政府軍の手に落ちます。

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中島三郎助が眠る東林寺からは、浦賀港が見渡せます。対岸は西浦賀です。

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次に叶神社に向かいました。東浦賀の鎮守様です。裏山は明神山といいます。
祭神は「厳島姫命」(いつくしまひめのみこと)で、海難その他の難事の際に身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。

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本殿の横にある石段を上り切ると(マップでは神社を巻いていますが)、曲輪のような場所に出ます。そこには「勝海舟断食之跡」という石柱が建てられていました。
 ここで遣米使節団として咸臨丸でサンフランシスコに向う前に、祈願したといわれています。

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この場所は、かつて浦賀城でした。

戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
この場所からは、正面に房総半島を見ることができます。また、この下辺りが黒船が停泊した場所とされています。

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先ほどは、叶神社のある明神山の頂きまで登りましたが、今度は、西浦賀の最高峰、愛宕山の登頂を目指します。

 愛宕山には、中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があります。浦賀港沿いの路地に入ったところに「浦賀園」と読むのでしょうか、愛宕山公園の入口があります。

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息を荒くして登った先に「咸臨丸出航の碑」がありました。

この碑は、昭和35年日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられました。

碑の裏には、勝海舟をはじめ、福沢諭吉中浜万次郎(ジョン万次郎)など乗組員全員の名前が刻まれています。

主要な浦賀奉行所与力が選ばれるなか、功績も高く、咸臨丸の修理も担当していた中島三郎助や通詞として活躍した堀辰之助が遣米使節団の一員になれなかったことに複雑な思いがします。

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その先に中島三郎助の招魂碑と功績を記した解説板がありました。
 江戸時代末期に横須賀造船所ができてから、浦賀は幕府の軍港としての役割はなくなりますが、中島三郎助の23回忌に建てた招魂碑の除幕式に、箱館五稜郭で共に戦った榎本武揚らが中島三郎助の功績を称えて、再び浦賀に造船所建設を呼びかけ、煉瓦造りのドライドッグが造られることになったのです。
 それにより、浦賀は造船所の街として再び賑わいを取り戻すことになりました。多くの軍艦や、青函連絡船などがこの港で造られています。 

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浦賀湾から少し奥に入ったところに「浦賀奉行所跡」があります。

2年ほど前に来た時は、まだ団地がありましたが、現在は埋蔵文化財の調査も終え、更地になっています。

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享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀に移されました。

奉行所では、船改めのほか、海難救助や地方役所としての業務を行っていました。

 また、1830年代にたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防御する海防の最前線として、さらに重要な役割を担うようになりました。

奉行所跡を取り囲む堀の石垣は当時のものです。 

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浦賀奉行所跡から1キロほど歩いた先に「燈明堂跡」があります。
 慶安元年(1642年)に幕府の命により建てられた燈明堂は灯台の役割をはたしていて、その灯は、房総半島まで届いたといいます。
燈明堂の建物は明治5年に消滅しますが、台座の石垣のみ横須賀市の史跡に指定されています。

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1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、米国フィルモア大統領の日本開国を求める国書をもって、提督ペリーは久里浜海岸に上陸しました。
この歴史的事実をきっかけに、翌年には日米和親条約が結ばれ、日本は200年以上に渡ってつづけてきた鎖国を解き、開国しました。
ペリー公園は、日本の近代の幕開けを象徴する史実を記念した公園です。
1901年(明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日にペリー上陸記念碑の除幕式がおこなわれました。 
碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣 伊藤博文の筆によるものです。
太平洋戦争以降、日米が敵対関係となり、1945年(昭和20年)2月に碑は引き倒されました。
しかし、終戦後、粉砕されず残っていた碑は同年11月に復元されました。

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ペリーは、翌年の嘉永7(1854)年1月16日、7隻の艦隊を率いて再び来航し、和親条約の締結を迫ります。

結局、幕府は嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に横浜村で日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。横浜開港記念資料館の園地に「日米和親条約締結の地」碑が立っています。
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横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。

資料館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。
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中庭にある「たまくすの木」
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横浜港を見下ろす掃部山公園には、幕末の大老で「日米修好通商条約」を締結し横浜開港を導いた井伊直弼銅像が建っています。日米修好通商条約」を締結は、横浜で「日米和親条約」が締結されてから2年半後のことでした。

像が建立されたのは横浜開港50年を迎えた明治42(1909)年。建立には旧彦根藩士で横浜正金銀行頭取を務めた相馬永胤が深く関与し、像の台座は横浜正金銀行本店本館を設計した妻木頼黄が手がけました。
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安政3(1853)年7月21日、下田に駐在するため初代アメリカ総領事として来日したハリスは、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を幕府に求めました。

孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政(1853)年6月19日、大老井伊直弼は「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結しました。条約の調印は神奈川沖に泊まっているポーハタン号の上で行いました。
また幕府は、アメリカに続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。

条約の調印場所となったポーハタン号は、日米修好通商条約の批准書を交換するため、安政7(1857)年1月、アメリカに向けて横浜を出発しました。勝海舟らが乗る咸臨丸も、浦賀港から共にアメリカに向かいました。 

歴史小説「間宮林蔵」の郷里を訪ねて

間宮林蔵の郷里を訪ねて 

 吉村昭の小説「間宮林蔵」は、文化4年(1807)4月、千島エトロフ島のオホーツク沿岸にあるシャナの海岸にロシア軍艦が現れ、シャナ村を襲撃し、箱館奉行所支配下にある会食(砦)の役人全員が逃避するという事件から始まります。

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 間宮林蔵の郷里は、茨城県つくばみらい市上平柳。生家は、小貝川の岡堰の近くにあります。現在は、つくばみらい市により「間宮林蔵記念館」として保存されています。
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 ロシア軍艦によって襲撃され、シャナ村を逃避した役人はその後、自刃したり、処罰される中、間宮林蔵は、幕府からのお咎めもなく、逆に幕府から現在の樺太の踏査を命じられます。単独の踏査を含め2回にわたり、未踏の地「樺太」の探検に赴くのです。

 その結果、樺太が半島ではなく、島であることを証明し、樺太および蝦夷地全体の測量を行い、蝦夷地地図を作成したのです。ちなみに大陸と島の間にある海峡は、「間宮海峡」とシーボルトにより世界に紹介され世界地図にその名を残します。

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  19世紀初め、蝦夷地は十分な踏査がなされておらず、未開の地でした。また、ロシア軍艦が度々蝦夷地沿岸や千島列島に現れ、村々を襲撃するという事件もあって、幕府にとって樺太の領地所有の実態を正確に掴む必要があったのです。 

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 「間宮林蔵記念館」は、資料が見やすく展示されています。車を利用する方は、間宮林蔵の師匠に当たる伊能忠敬の記念館も千葉県香取市にあるので、併せて見学するのも良いかもしれません。

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 記念館に隣接して間宮林蔵の生家があります。

 林蔵は、幼い頃、幕府役人が小貝川の河川工事をしていた時、林蔵の才能に驚き、江戸に出て行くきっかけとなります。

 その後、蝦夷地を中心に測量を行う他、全国各地を隠密として行脚することとなるのです。林蔵は立ち寄ることはあったものの、生家で暮らすことはありませんでした。

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 茅葺き屋根の生家も自由に見学することができます。

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www.city.tsukubamirai.lg.jp

間宮林蔵の墓地

 「間宮林蔵記念館」から200メートルほど離れたところに専称寺というお寺があります。幼い頃、林蔵は寺子屋だった専称寺に通い読み書き算盤を学びました。

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 幕府から海防担当の命を受け、蝦夷地をはじめ、全国を歩き回っていた林蔵は両親の臨終に立ち会うことはできませんでした。この専称寺本堂で法要が営まれました。

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 専称寺本堂の前の緑に囲まれた場所に、間宮林蔵とご両親のお墓があります。

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 小高い丘を上がると、明治37年に正五位贈位を受けた後、明治43年に建立された間宮林蔵の顕彰記念碑があります。

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 顕彰記念碑の後ろに、間宮林蔵の墓があります。向かって右は両親の墓で、左側が間宮林蔵の墓です。この墓は、文化4年(1807)、決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立した生前の墓です。身分の低い武士に合った百姓並みの墓です。

 林蔵は、天保15年(1844)、波乱に満ちた65歳の生涯をこの地に遺骨が納められ、眠っています。墓地の背後には、小貝川が流れています。

 吉村昭は、小説「間宮林蔵」のあとがきで次のように書いています。

 林蔵の墓石について、様々な推測がなされている。林蔵の故郷の専称寺に、間宮林蔵墓と刻まれた墓碑がある。問題は、墓石の両側面に刻まれている二人の女性の戒名である。

 右側面には林誉妙慶信女、左側面に養誉善生信女とある。林誉妙慶信女は専称寺過去帳に記載され、庄兵衛娵と記されている。庄兵衛は林蔵の父であるから、その戒名の女性は林蔵の妻ということになる。が、林蔵は妻帯した気配がなく、両親が、旅に明け暮れて故郷に変えることのない林蔵の嫁として家に入れた女性とかんがえられる。・・・

 養誉善生信女とは、どんな女性であったのか。寺の過去帳にはないが、墓碑に刻まれているのだから、林蔵の妻と考えられる。

 林蔵の故郷には、第二回目の樺太探検後、アイヌの娘を妻とし、故郷に連れ帰ってきたという伝承がある。戒名の女性は、その娘ではないかという。・・・それを裏付ける確証がないので採用することはしなかった。

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小貝川の岡堰

 専称寺を後に、小貝川の反対側に移動しました。前方に見えるのが小貝川の岡堰です。幾度も氾濫を起こした小貝川は、田畑にとって命の水源だったのです。

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 小貝川の中島には最近整備された岡堰記念公園があります。周囲の紅葉が綺麗です。

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 江戸時代以降、岡堰は小貝川の氾濫により、幾度も壊されます。田畑に水を引くために欠かせなかった岡堰は煉瓦からコンクリートに製法を変え、改築されていきました。公園には、その一部が野外展示されています。

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 公園の中には、岡堰の史跡と一緒に間宮林蔵の記念のブロンズ像があります。

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師匠伊能忠敬との接点

 間宮林蔵の測量技術は、伊能忠敬から学んだものです。

 下の写真は、深川黒江町にある伊能忠敬の住居跡碑です。伊能忠敬は、千葉県小関村の生まれで、18歳の時に江戸に出て、平山左忠次の名で昌平坂の学問所に入ります。その年、酒造業を営む伊能家の養子に入り、、やがて天文学への関心を深めるようになります。

 そして、50歳で家督を譲り、専門の測地術を学ぶことを志し、幕府天文方高橋至時(当時31歳)の門に入ります。当時、蝦夷地の地図は粗末なものしかなかったため、高橋至時の勧めで幕府に蝦夷地の調査を願い出るのです。

 結局、幕府は許可はするものの、費用は出さなかったため、自費で箱館、室蘭、釧路、厚岸、に達し、箱館に戻るのですが、蝦夷地にいた間宮林蔵はその際、伊能忠敬に会っているのです。

 林蔵は、樺太蝦夷地の調査、地図の作成を終え、江戸深川蛤町に住むようになってからは、深川黒江町に住んでいた忠敬の住まいに度々通い、忠敬から測量法を学んでいいました。

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 伊能忠敬やその師匠である高橋至時の墓は、浅草の源空寺にあります。明暦の大火で湯島から浅草に移転した浄土宗のお寺です。台東区東上野6-19-2

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 伊能忠敬のお墓です。測量学の師匠高橋至時のお墓も隣にあります。これは、偶然ではなく、忠敬が高橋至時が眠っている源空寺に埋葬してほしいと願っていたからなんです。

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 間宮林蔵シーボルト事件

 樺太蝦夷地の測量を行い、地図を作成した林蔵は、幕府から海防関係の隠密の命を受け、東日本の沿岸や九州、伊豆七島と全国を歩きます。

 深川で体調を整えていたある日、高橋至時の息子の高橋作左衛門(景保)から小包が届きます。中身はシーボルトからの書簡と贈答でした。

 シーホルトとの面識のない林蔵は小包を上司の勘定奉行村垣淡路守に届けるのですが、それがきっかけで、高橋作左衛門(景保)がシーホルトに国禁である日本地図を譲渡していたことがわかり、高橋作左衛門(景保)は獄中で亡くなり、その他、多くの学者たちが処罰されていきます。また、シーボルトは、日本地図を没収され、国外追放となるのです(実際には、すでに日本地図は海外に持ち出されていたのですが・・・)。

 この事件により、周囲から、林蔵は自分の栄達のために密告したと噂されるということになります。歴史にも登場する「シーボルト事件」です。

 都内にもシーポルトの記念の胸像があります。場所は、中央区築地のあかつき公園です。直接、シーボルトとこの地は関係があるわけではありませんが、この地が江戸蘭学発祥の地であり、娘のいねが築地に産院を開業したことなどから建てられたもののようてす。

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 東京にある間宮林蔵の墓地

 間宮林蔵は生涯独り身でした。そのため間宮家を継がせるため、茨城伊奈間宮家(上平柳)として、分家から哲三郎を養子にもらい、現在も子孫に引き継がれています。

 また、江戸の普請役の家督は、勘定奉行戸川播磨守が浅草の札差青柳家の鉄二郎に目を付け、引き継がせます。子孫の方の情報はわかりません。

 晩年、林蔵は深川蛤町に住まいを持っていたことから、江東区平野2丁目7-8にも墓が建てられました。墓の管理は、近くにある本立院が行なっていて、この墓には、林蔵の遺体の一部が埋葬されているということです。

 墓石の正面には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれています。この墓標は水戸徳川藩主徳川斉昭が選したものと言われています。林蔵が江戸にいる頃、水戸徳川斉昭は、蝦夷地を領地にしたいと考えを持っており、林蔵に蝦夷地やロシアのことを聴取していた縁からかもしれないと思います。

 最初に作られた墓石は昭和20310日の東京大空襲で焼けてしまいますが、拓本が残っていたので、昭和215月に建て直されています。

 また、林蔵の墓の傍に「まみや」と刻まれた小さな墓碑が建てられています。これは、晩年、林蔵の身の回りの世話をし、看取った女性「りき」のものとされています。

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 間宮林蔵の直系の子孫

 吉村昭の「間宮林蔵」は、間宮海峡を発見した間宮林蔵のその苦難の探検行をリアルに再現していて、面白かったのですが、幕府隠密として生きた晩年までの知られざる生涯が幕末の日本の事件に繋がっていくことにも驚きました。史実の闇に光を当てた傑作だと思います。

 さらに驚いたのは、インターネットで偶然見つけたニュースでした。

 2003年に間宮林蔵をしのぶ「林蔵祭」が生誕地の茨城県伊奈町で開かれ、子孫が一堂に集まったのですが、そこに、間宮林蔵の直系の子孫と前年に確認された間見谷喜昭さん(75歳、北海道旭川市)の親子が参加されていたという記事です。

 主催した間宮林蔵顕彰会によると、間見谷さんは間宮林蔵アイヌ民族の女性との間に生まれた娘の子孫。長年、間宮林蔵に直系の子孫はいないとされていましたが、2002年の郷土史研究家の調査で子孫と確認されたようです。

「夜明けの雷鳴」の舞台を歩く

慶応三年、万国博覧会に出席する徳川昭武随行医として渡欧した三十一歳の医師・高松凌雲。

パリの医学校「神の館」で神聖なる医学の精神を学んだ彼は、幕府瓦解後の日本に戻り、旧幕臣として函館戦争に身を投じる。

壮絶な戦場において敵味方の区別なく治療を行った、博愛と義の人の生涯を描く歴史長編。       

        

下の写真は、高松凌雲が、慶応3年、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武随行医として渡欧した時のメンバーです。

後の左から3人目が高松凌雲で、中央で椅子に腰掛けている一際小さい方が徳川昭武(徳川慶喜実弟)です。
一行の中には、次期NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公の渋沢栄一も事務方として同行していました。
吉村昭「夜明けの雷鳴」の中でも渋沢栄一の「緻密な計算」と「人への誠意」が描かれています。

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今回の旅の目的は、吉村昭「夜明けの雷鳴」の舞台を巡ることです。この小説、ご存知の方も多いかと思いますが、幕末維新に活躍した医師、高松凌雲を描いた歴史記録小説です。この写真は、ご存知、五稜郭です。 

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慶応4年4月に江戸城無血開城になり、戊辰戦争は、上野、北陸、東北へと舞台が移り、新政府が決定した徳川家に対する処分は、駿河遠江70万石への減封というものでした。

約8万人の幕臣が路頭に迷うことになることを憂い、海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓に活路を求めたのです。

そして、約3千人が開陽を旗艦とする8隻の軍艦で10月21日(西暦12月4日)に函館の北、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸を開始したのです。

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 五稜郭タワーから函館市内を一望することができます。正面に見えるのは、函館山です。この五稜郭から、函館山までの間で、壮絶な死闘が繰り広げられました。

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函館市立博物館です。場所は、函館山麓にある函館公園の中にあって、周りには動物園や遊園地、図書館などが点在しています。

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函館市立博物館でちょうど箱館戦争の企画展示が行われていました。

 

博物館の展示には、実際に箱館戦争で使用した高松凌雲の手術道具も展示されていました。これは、パリの医学校兼病院で使用していたものを日本に持ち帰り、箱館戦争で使用していたものです。 

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当時は、この道具が最先端だったのでしょうが、現代では、手術道具というよりも、ノコギリやペンチといった大工道具のように見えてしまいますね。

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函館から1時間半ほどで江差町に行くことができます。

江差港は、榎本軍の軍艦「開陽丸」が沈没したところです。
榎本は、蝦夷を完全に征服するために、土方隊を送り、松前藩福山城を攻め立てます。
土方隊は松前藩の要害を撃破し、逃れた松前藩を追って江差に向かいます。
江差は、北前船の発着地で繁栄をきわめていたことから、榎本ら首脳陣は江差の占領を企て、土方隊の応援に榎本武揚自らが軍艦「開陽丸」で江差に向かいます。
しかし、折からの風雪で押し流され、浅瀬に乗り上げ、座礁し、沖合で沈没してしまうのです。

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開陽丸は榎本軍最強の軍艦で、しかも、オランダで製造し、日本まで運んできた榎本武揚自身にとってもかけがえのないものだったに違いありません。

この開陽丸記念館には、平成2年に開陽丸の実物大で復元した船体と、引き揚げた3万3千点の遺物が展示されています。

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船体の中は意外に広く、引き揚げられた当時の大砲や砲弾の数には驚きました。

蝋人形もよくできています。

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 次に向かったのは、千代ヶ丘陣屋跡です。

この千代ヶ丘陣屋の隊長は、中島三郎助でした。中島三郎助を有名にした最初の話は、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に副奉行として乗り込んだことでしたね。
当時は浦賀奉行所の与力に過ぎなかったのですが、身を挺して幕府を守ろうとした勇気ある行動でした。
その後、長崎に派遣され、海軍伝習生となり、幕府海軍の充実に尽力します。そして、榎本釜次郎(武揚)の下、「開陽」の機関長として箱館の地を踏むのです。
中島三郎助親子は、新政府軍によって箱館が制圧された後も降伏することなく、長男、次男とともに新政府軍の攻撃の中、戦闘を続け、命を落としました。

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函館中心部を通り抜け、現在の函館どつく前に来ました。ここに、かつて弁天台場がありました。もともと箱館奉行所が外国船が来襲するのを恐れ、幕府に願い出て建造した砲撃用の台場でしたが、使われたのは、箱館戦争の場面でした。
戦いは、箱館湾海戦となり、新政府軍の艦艇の甲鉄や春日からの艦砲射撃により、砲台は崩壊します。最後まで籠城していた箱館奉行永井玄蕃ほか240人全員が五稜郭降伏の前に降伏した地です。
この弁天台場には、島田魁新撰組も戦闘に立っていたようで、「新撰組最後の地」という標柱もありました。土方歳三も、この弁天台場の救出に向かう途中に戦死しています。
明治29年、港湾改良のため、周囲が埋め立てられ、現在の姿となっています

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土方歳三最期の地です。
箱館戦争に身を投じた土方歳三は、この一本木(若松町)の地で最期を遂げます。
土方歳三ファンにとっては聖地とも呼べる場所ですね。
私も、戊辰戦争の関係で宇都宮城の戦い会津戦争土方歳三の足跡を巡りましたが、この箱館戦争でも大きい働きをしました。
箱館戦争の一場面でもある宮古湾海戦は、吉村昭歴史小説幕府軍艦「回天」始末」でも紹介されていますが、そこでも土方歳三の勇姿が描かれていました。特にスペクタルなシーンが面白いですよ。
そういえば、岡田准一主演の映画「燃えよ剣」がコロナウイルス  の影響で上映延期になって久しい感じがしていますが、まだですかね。早く観たいです。

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弁天台場前の坂を上り切った場所に高龍寺があります。市内で最も古いお寺です。ちょうど、お彼岸ともあって、お墓参りの方が大勢いました。
高龍寺は、箱館戦争の折に、高松凌雲が病院長を務める箱館病院の分院として、負傷者らを受け入れたところです。
明治2年5月11日、箱館戦争最大の激戦が箱館の市街地で行われました。
当時の高龍寺は坂の下にあり、高龍寺に収容されていた旧幕府軍負傷兵は、松前津軽両藩兵らによって斬殺され、両藩兵はさらに火を放って引揚げていきました。
両藩兵は、前年の10月に鷲ノ木に上陸した榎本軍の攻撃を受けて敗走し、津軽海峡を渡り、青森に逃れた者たちで、その報復の念をいだき新政府軍に参加していたための惨禍となったようです。

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今回の旅の目的でもある高松凌雲にまつわる高龍寺には、供養塔が本堂の前に置かれています。高松凌雲は、慶応3年、パリ万国博覧会徳川慶喜将軍の名代として出席した徳川昭武随行医として渡欧し、1年半にわたりパリの医学校で医学の精神を学んだ後、幕府瓦解後、日本に戻り、旧幕臣として箱館戦争に身を投じ、壮絶な戦場で敵味方の区別なく治療を行った人物で、日本の赤十字創設に係った義の方です。

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供養塔の横には、「傷心惨目」の碑があります。

新政府軍の先鋒隊の乱入により、傷病者らを殺傷して、寺に放火し、会津遊撃隊の者が多数犠牲者となったと言われていますが、明治13年に旧会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された藩士を供養しています。
碑面の「傷心惨目」は、中国、唐の文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったものだそうです。

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旧ロシア領事館です。

安政元年(1854)12月の日露通好条約に基づき、実業寺に領事館を置き、2年後の万延元年(1860)元町の現ハリストス正教会敷地内に領事館を建てますが、隣の英国領事館の火災で被災します。その後、建設は日露戦争で中断し、明治41年にこの建物が完成しました。
設計は、ドイツ人建築家R.ゼールで、レンガ造りの2階建て本館の玄関には唐破風を用い、日本的な意匠が加味されています。現在は、函館市が所有しています。

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次に向かったのは、称名寺です。

函館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院です。
このお寺には、高田屋嘉兵衛の顕彰碑や土方歳三新撰組隊士の供養塔があります。

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土方歳三新撰組隊士の供養塔です。
解説板には、次のように書いてあります。
土方歳三新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(若松町)、鶴岡町、異国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市金剛寺過去帳には、函館称名寺に供養塔を建てた、と記されている。称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年に有志が現在の碑を建立した。他の4名は新撰組隊士で、称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。」

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碧血碑は、箱館戦争で亡くなった新撰組土方歳三旧幕府軍の戦死者約800人の霊が祀られています。観光雑誌には土方歳三の遺骨もこの場所に埋葬されたと書かれていました。

碧血碑の隣に柳川熊吉の寿碑があります。先程、実行寺でも触れましたが、侠客の柳川熊吉が大工棟梁の大岡助右衛門や実行寺住職らと市内に放置された旧幕府軍戦死者の遺体を回収し、碧血碑を建立した方です。
パンフレットの人物紹介には、江戸浅草の料亭の息子として生まれ、侠客として箱館に渡り、江戸流柳川鍋を商売として生活していた。と書かれていました。本名は野村熊吉ですが、箱館奉行から柳川と呼ばれていたので、姓を柳川としたようです。

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函館の観光スポットにも足を運びました。まさに異国情緒たっぷりです。
長崎や横浜と同様で安政5年(1858)に締結された日米修好通商条約を機に開港しているので、西洋文化の影響を受けた建物がたくさんありますね。

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東京に戻り、あらためて荒川区にある円通寺に詣りました。このお寺には、彰義隊をはじめ、箱館戦争で活躍され、亡くなった方々のお墓や追悼碑が建てられています。

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高松凌雲の墓標は、谷中霊園にあります。お墓の場所は乙5号2側です。

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 最後までご拝読ありがとうございました。

「長英逃亡」を歩く

吉村昭「長英逃亡」を歩く

吉村昭の小説「長英逃亡」は、昭和58年3月から1年5ヶ月にわたって毎日新聞に連載された長編歴史小説である。

小説「長英逃亡」は、「逃亡」「医学」「蘭学者」「幕末」「史実」といった吉村昭がライフワークとしてきた題材をぎゅっと詰め込んだ、まさに吉村文学、至極の一冊と言える。

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 放火・脱獄という前代未聞の大罪を犯した高野長英に、幕府は全国に人相書と手配書をくまなく送り大捜査網をしく。その中を門人や牢内で面倒をみた侠客らに助けられ、長英は陸奥水沢に住む母との再会を果たす。その後、念願であった兵書の翻訳をしながら、米沢・伊予宇和島・広島・名古屋と転々とし、硝石精で顔を焼いて江戸に潜状中を逮捕されるまで、六年四ヶ月を緊迫の筆に描く大作。(「長英逃亡」より)

高野長英は、6年4ヵ月に及ぶ逃亡生活を送った。この地図に記した番号は、若い順から逃亡した場所(一部経路を含む)を小説に基づいて記録したものである。

長英逃亡の足跡

 この高野長英肖像画は、三河国田原藩士で画家の渡辺崋山の弟子、椿椿山(つばきちんざん)の作品。奥州市高野長英記念館が収蔵しており、国の重要文化財である。

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長英の故郷「水沢」

 文化4年(1804)、長英は水沢藩士後藤実慶の三男として生まれる。

長英9歳の時に父実慶が病気し、母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄の水沢藩医高野幻斎の養子となる。

下の写真は、その後、長英が18歳の時、実兄が江戸に遊学する際に、養父の反対を押し切って江戸に行くまでの間住んでいた旧宅である。

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 幻斎には千越(ちお)と言う長英より2歳年下の一人娘がいて、将来、長英の妻となることが定められていた。幻斎は、「解体新書」の訳者として知られる江戸の蘭方医杉田玄白に師事し、長英もその影響で蘭学に関心をいだいた。(「長英逃亡」より)

高野長英旧宅の入口には史蹟の案内がある。

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 長英は江戸へ遊学したいという願望をおさえきれず、養父の反対を無視して穴に随行した。この時から、長英の故郷に対する背反がはじまったと言っていい。(「長英逃亡」より)

江戸では、内科専門の蘭方医吉田長淑の塾に学僕として入門し、学問に専念した。しかし、師の吉田長淑が病死したこともあり、長英は長崎で塾を開いていたシーボルトの元に行くことにした。シーボルトは入塾して間もない長英の才能を高く評価した。

長英は、天保2年、江戸にもどってから麹町の「貝坂」に塾をひらき、多くの門人にオランダ語を教えた。

場所は、平河町一丁目3番地と4番地の間を北から南へ下る坂。

坂の名の由来については二つあると言われている。

もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことから。また、甲州街道の一里塚があったので土地の人が甲斐坂と呼んだといわれている。近くには、「諏訪坂」がある。)

麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡

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標識「貝坂」の向かいにある白い建物に「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」と書かれた御影石のプレートがはめ込まれている。

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小説「長英逃亡」の書き出しは、天保15年(1844)の江戸小伝馬町の牢獄のシーンから始まる。

風が通らず、しかも数十人が押し込められている牢内は、病んだものが発する臭気と排泄物の匂いが混じり合い息もできない場所によく生きてこられたと、長英は感慨にふけっていた。5年前に入牢した長英はこの時、牢名主になっていた。

町奉行所に自首したものの、投獄された直接の原因は、目付け鳥居耀蔵(のちに南町奉行)に睨まれたからである。申し渡された刑は、死ぬまで牢での生活をさせられる永牢であった。

その要因は、田原藩士で画家の渡辺崋山との出会いにあった。崋山は、藩の財政立て直しと共に、当時頻繁に出没していた異国船に対する海防への関心から洋書を読む必要を感じていた。そして、オランダ語の才に恵まれた高野長英に翻訳を依頼したことから、長英の世界情勢への関心と幕府政治への不信が高まることにつながったのである。

渡辺崋山は、幕府の上層部の愚かさを非難した「慎機論」を書き、長英は幕府の政策をあやぶみ「夢物語」を書いた。仲間うちで回し読むものであったが発覚し、目付け鳥居耀蔵の罠にかかり、大老水野忠邦はそれを許した。世に言う「蛮社の獄」である。

 江戸小伝馬町牢獄跡

下の写真は、江戸小伝馬町牢獄跡である。現在は十思公園となっている。地下鉄「小伝馬町駅」の出口付近に位置していて、お昼時になると、お弁当を食べるサラリーマンの姿もチラホラ。

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 「伝馬町牢屋敷」は現在の中央区日本橋小伝馬町3~5丁目を占めていた。面積は2,618坪(8,637平方メートル)。周囲に土手を築いて堀を巡らし、土塀に囲まれていた。十思公園には、平成24年の発掘調査で出土した牢屋敷の石垣が残されている。

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すでに入牢してから5年間が経過し、かれも41歳の夏をむかえている。

このまま牢内で朽ち果てたくなかった。郷里に帰った母に会い、妻の体を抱きしめ、子に頬ずりもしたかった。さらに洋書を手にし、それを読み、翻訳することも強い念願であった。(「長英逃亡」より)

 十思公園の向かいにある大安楽寺には、江戸伝馬町処刑場跡の碑がある。

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かれは考えあぐねた末、牢から逃走できる方法は、火災の折に行われる切放しを利用する以外にない、と判断した。(「長英逃亡」より)

長英は、牢屋敷に出入りする栄蔵に牢屋敷の御様場(おためしば)に火付けを頼んだ。礼金として十両を用意していることも伝えた。栄蔵は、長英が指示した通りに牢屋敷の御様場に火を放った。

御奉行石出帯刀はこれまでの例に従って、「切放し」を命じた。そして、三日を限りに本所回向院に戻るよう囚人たちに伝えた。通常、予定通りに戻った者は刑が軽減されるが、火付けをした者は例外なく極刑である。江戸市中引き廻しの上、火あぶりの刑となる。

長英の逃亡が始まる

長英を落とし入れた南町奉行鳥居耀蔵の耳にもそのことは伝わっており、草の根分けても探し出す手を緩めることがないと承知していた。

長英は、大槻俊斎宅を経て、牛込見附から北にのぼる神楽坂を早足で歩いた。そして、赤城神社の境内の一隅に住む漢方医加藤宗俊の家で身なりを整えた。下の写真は、現在の牛込見附から神楽坂を撮ったもの。今では、おしゃれな街として紹介されることが多い。

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 神楽坂を登りきったところに赤城神社がある。当時は、この付近一帯、火災に見舞われ、社殿も礎石だけとなっていた。

この境内の一隅に、漢方医加藤宗俊の家があったと思われる。加藤宗俊の家では、好意に甘え、疲れ果てた身体を休め、空腹を満たし、眠り込んだ。

神楽坂 赤城神社

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その後、紀伊国坂にある尚歯会の主宰者遠藤勝助、弟子で和算家の内田弥太郎宅に立ち寄った。

鳥居耀蔵は、長英が江戸市中にとどまっていると考え、探索の網を市中各方面に張り巡らせていた。特に内田弥太郎は捜査の上でマークされている一人。

危険を察知した長英は、内田弥太郎宅を離れ、牢屋敷で知り合った斎藤三平が住む向島小梅村の料亭大七にある隠し部屋に暫くのあいだ身を寄せることにした。

暫くして、捜査の様子から江戸を抜け出す時を迎え、内田弥太郎の助言もあって、中山道を使って江戸を離れることに。

板橋宿 水村玄銅(長民)宅

板橋宿に向けて舟で隅田川を遡った。訪れた先は、板橋宿で代々医科を営んでいた水村玄銅の家であった。長英の門弟である。場所は板橋宿塾の仲宿で、賑やかな街道だけに監視の目が厳しいことが危ぶまれた。

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板橋宿仲宿は、東京メトロ三田線の板場区役所前から5分ほどのところにある。

少し前まで、水村玄銅宅のあった場所には、石神医院があり、その玄関口に「高野長英の隠れ家」として跡碑が建てられていたが、半年前に、マンションが建てられ、今は石神医院も、跡碑も見当たらない。付近一帯の街道沿いは新しいマンションが立ち並び、昔の面影が薄れてきている。

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現在は、街路樹の植え込みに案内板が建てられているだけとなっている。案内板が少し高い位置にあるので見過ごしてしまうかもしれない。場所は、ライフ仲宿店の向かいにある。ちなみにライフ仲宿店の建物の脇に板橋宿本陣跡の石碑が残っている。

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 現存する高野隆仙の「旧高野家離座敷」

長英は、水村玄銅の案内で、武州安達郡大間木村(現 さいたま市緑区大間木)に住む水村玄銅の兄、医科高野隆仙の元に訪れた。

隆仙は、長崎に留学してオランダ語を学び、大間木に戻ってから江戸に赴き、長英に蘭学を学んでいる。

下の写真は、当時、長英が暫くの間匿ってもらっていた高野隆仙の離座敷だ。高野家から寄贈された「旧高野家離座敷」は、現在、浦和くらしの博物館民家園として良好に保存されている。

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 開館日は毎週土日で午前9時から午後4時30分。住所は、さいたま市緑区大間木82-2。

問い合わせ先は浦和くらしの博物館民家園で、048(878)5025

ホームページはこちら さいたま市/旧高野家離座敷

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 「こちらへ・・・」隆仙は、廊下を歩き、独立した離れ家に長英を引き入れた。四畳半、三畳の部屋の奥に書籍のつまれた二畳の部屋があった。見事な茶道具が部屋の隅におかれていた。・・・

「先生が牢破りをしたと言う噂はしきりですが、代官所の役人も参らず、今のところ、御懸念はないと存じます。何日でも、この部屋にご滞在下さい」隆仙は、おだやかな表情で答えた。(「長英逃亡」より)

長英は、久しぶりにゆったりとした気持ちになれたが、長くは続かなかった。

「困ったことになりました」隆仙が、低い声で言った。

「なにか?」長英は、体をかたくした。

「実は、妻に外をそれとなく注意させておりましたところ、岩という岡っ引きがこの離家をうかがっているのに気がつきました」(「長英逃亡」より)

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隆仙は、長英を大宮の小島平兵衛宅に預けると、浦和の自宅に戻った。

隆仙の予想は的中し、代官所の詰所に連行された。

代官所の取調べでも、隆仙は長英を匿ったことは一切ないと否定した。役人たちは、笞打ちや石抱えの過酷な拷問を繰り返し、自白を強要したが、否定し続け、百日目に釈放された。隆仙は、拷問によって障害が生じ、48歳で死去するまで体は不自由なままであった。

武州大間木村から、上州、越後を通り、母が待つ奥州へ

 長英は、小島平兵衛宅で一夜を過ごし、上州境村の蘭方医村上随憲宅を目指した。上州には、多くの優れた医科が輩出し、シーボルト門下屈指の蘭学者である長英に師事する者が多かった。長英は、上州中之条町から清水峠を越え、越後の直江津今町にいる小林百哺(ひゃっぽ)宅に行った。その後、阿賀野川を舟でさかのぼり、母のいる奥州に向かった。写真は奥州を流れる北上川

陸奥国前沢で念願の母との再会を果たした長英は、福島、米沢を巡った。

その頃、暗黒政治を推進した鳥居耀蔵は、失脚し、南町奉行職を追われ、厳しい訊問を受けていた。判決は、讃岐丸亀に配流であった。

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奥州から、江戸に戻り、七年振りに妻ゆきの元へ

 長英は、監視の目が緩やかになったことから、会津道、日光街道を通って再び江戸に入った。長英は、内田弥太郎の手引きを受け、七年振りに妻のゆき、娘のもととの再会を果たす。長英の長年の願いは、オランダ語の兵書の翻訳であった。

江戸での生活に身の危険を感じた長英は、尚歯会のメンバーの一人、伊豆代官の江川英龍に頼み、伊豆代官の支配下である相模国にしばらく身を隠した。

藩主伊達宗城に招かれ、宇和島

その頃、洋式の軍備強化を目指していた宇和島藩伊達宗城は、オランダ語の兵書の翻訳を精力的に行なっていた高野長英宇和島に招き入れたいと考えていた。

長英は伊達宗城の意向を受け入れ、宇和島への長旅に出た。

宇和島での滞在は一年だったが、その間、洋学書を翻訳し、伊達宗城が進めていた宇和島砲台構築地の選定、測量、設計を行い、藩主宗城をはじめ藩士たちに大いに喜ばれた。それもつかの間、幕府に、長英が宇和島に潜入していることを知られてしまう。

長英は、宇和島を離れる前に卯之町にいる二宮敬作に会うことにした。二宮敬作とは長崎のシーボルト鳴滝塾の同門の仲であった。卯之町を後にし、瀬戸内海を渡り、広島城下の藩医後藤松軒宅に身を寄せることにした。

この間、老中阿部正弘の主導の下、幕府は海防問題に本格的に取り組みはじめていた。長英は、老中阿部正弘が西洋の知識を積極的に得ようとしている進取的な人物であることを知っていた。また、江戸では長英の探索の動きが見られないことも聞き及んでいたことから、老中阿部正弘が自分の罪を不問にするのではないかというかすかな期待も膨らんでいた。

再び江戸に戻り、町医者になるため、顔を焼いた長英

長英は、広島を離れ、東海道を通って、江戸に再び戻った。

江戸では、オランダ語の翻訳の仕事も絶え、長英は、家族を養うために町医者を志すことにした。 長英は、シーボルトの高弟として西洋医術を身に付け、豊かな知識と経験を備えていた。

町医として過ごすには、多くの者と接するため、無謀なことであることもわかっていた。残された道は、硝石精で顔を焼くことであった。

ためらいはなかった。瓶をかたむけ、硝石精を頰に思い切ってふりかけた。目の前に炎がひろがった。かれの口から野獣の声に似た叫び声がふき出し、体が後ろに倒れた。頰をおさえた手に痛みが走った。かれは、肉の焼ける匂いと赤い煙につつまれながらころげまわった。(「長英逃亡」より)

  町医者となって住んでいた元青山百人町は、長英の最後の隠れ家となった。現在、青山通りにある「青山スパイラル」の一角に「高野長英先生隠れ家」碑がある。

長英終焉の地「高野長英先生隠れ家」(青山スパイラル)

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 六年あまりの月日がたっていた。町医となり、再び穏やかな日が続き、百人町の同心の家にも往診をこわれることもあった。ようやく家族を養うことができるようになった矢先、南町奉行所の内部で密かな動きが起こっていた。奉行は、遠山金四郎景元であった。

同心たちの長英探索の最大の障害は、彼らが人相書きを持ってはいても長英の実際の顔を見たことがないことであった。

そこで、一人の与力の思いがけない方法で探索に踏み切ることになった。それは、小伝馬町の牢で長英と過ごした経験のある上州無宿の元一という囚人を利用することであった。

診療を終えて外に出た長英は、足をはやめて家に通じる道を歩いた。角雲寺の前にさしかかった時、前方から菅笠をかぶった小柄な男が近づき、かたわらを過ぎた。不意に背後から声をかけられ、長英はふりかえった。一瞬、ききちがいかと耳を疑ったが、お頭、と呼ばれたような気がした。

「やはりお頭でごさいますね」

「どなたかな」長英は、警戒しながらたずねた。

「上州無宿の元一でございますよ」男は、ひきつれた顔で答えた。

「「元一か、おぼえておる」長英は、うなずいた。 

 南町奉行所には、異様な緊張感が張り詰めていた。

元一は、密かに尾行していた岡っ引きに、今、会った男が牢名主をしていた高野長英であることを伝えた。

家の所在を確認すると、元一とともに、奉行所へ急いだ。(「長英逃亡」より)

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(碑文)

都旧跡 高野長英先生隠れ家

ここは昔の青山百人町与力小島持ち家で、質屋伊勢屋の隠れ屋、先生の隠れ家、又最後の処である。時は嘉永3年(1850)10月30日夜であった。この度、青山善光寺の碑の再建に際しここを表彰する。1964年

 

南町奉行所は、物々しい空気につつまれていた。与力の指示で、一番手、二番手、後詰の者が三つの集団に分けられた。一番手として動く同心、中間たちは、屈強な者が選ばれた。彼らは、偽の怪我人を担ぎ込んで踏み込む手はずになっていた。腰には十手を差し込んでいた。

戸が、静かに開かれた。「喧嘩による怪我人か」長英は、つぶやくように言うと、中に担ぎ入れるよう促した。

その瞬間、不意に男が勢いよく半身を起こし、「御用」と叫び、長英に組みついた。 

 長英の顔と体にに同心たちの十手が荒々しく降り下ろされ、たちまち頭と顔から血がふき出した。

久保町をぬけ、赤坂を過ぎた頃、長英の呻き声が高まり、尾をひくように続いたが、そのまま絶えた 。

与力たちは、責任を追求されることを恐れ、協議した末、死因が十手の乱打による者ではないという報告をすることを決めた。自ら喉を突き、それが致命傷になって死亡したということにした。(「長英逃亡」より)

南命山善光寺「高野長英の碑」

北青山にある南命山善光寺の山門を入った脇に「高野長英の碑」がある。長英終焉の地の石碑がある青山スパイラルからほど近い。

善光寺は、かつては谷中にあった。善光寺第109世大蓮社光忍円誉智慶が徳川家康に請願して江戸谷中に7500坪の土地の寄進を受けて、伽藍を建立した。谷中の旧地は玉林寺付近で、今でも「善光寺坂」と坂の名にその名残をとどめている。

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高野長英の名誉が回復されたのは、没後48年たった明治31年のことであった。青山にある善光寺の境内には、顕彰碑がある。勝海舟による撰文である。

高野長英の碑
先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り、発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者であるその間に多くの門人を教え、又、訳書や著書八十餘を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり、47才で不幸な最後をとげた。最後の処は今の青山南町6丁目43の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治31年先生に正四位が贈られたので、同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処、昭和戦災で大部分こわれた。よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する。昭和39年(1964)10月

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 長英の遺体は塩漬けにされた。改めて死罪の申渡しを受け、遺体はしきたりにしたがって斬首されることになった。斬首された遺体は千住小塚原刑場の取捨て場に送られた。

長英の墓がある水沢 大安寺

下の写真は、長英の墓標が建つ水沢の大安寺である。

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明治12年(1879)10月30日、水沢の大安寺境内にある高野家累代の墓地に高野長英の墓が建てられた。昭和11年(1936)10月30日に長英の肖像と垢つきの小布片を霊体として陶器に入れて新しい墓を建てた。f:id:mondo7:20180618101422j:plain

水沢に行った際に、高野長英記念館を見学した。

奥州市高野長英記念館

高野長英記念館は、郷土の先覚者としてその偉業を顕彰する記念館として昭和46年に開館された。記念館には、訳書、著書、手紙、遺品など約200点を展示している。その中には、長英が獄中で書いた「爪書の詩」や「砲家必読」全11巻などの貴重な資料も所蔵している。

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 高野長英の碑は、長英を郷土の先覚者として、その偉業を称え、顕彰したものである。

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 アジサイ高野長英の恩師シーボルトがこよなく愛した花である。牧野富太郎博士は、シーボルトが愛した妻の名前(おたき)を入れ学名とした。高野長英記念館敷地にふさわしい植物の一つである。f:id:mondo7:20180618101741j:plain

●参考にした書籍

吉村昭「長英逃亡」上下(新潮文庫)

吉村昭「史実を歩く」(文春文庫)

吉村昭「歴史を記録する」(河出書房新社)

佐藤昌介「高野長英」(岩波新書)