慶応三年、万国博覧会に出席する徳川昭武の随行医として渡欧した三十一歳の医師・高松凌雲。
パリの医学校「神の館」で神聖なる医学の精神を学んだ彼は、幕府瓦解後の日本に戻り、旧幕臣として函館戦争に身を投じる。
壮絶な戦場において敵味方の区別なく治療を行った、博愛と義の人の生涯を描く歴史長編。
下の写真は、高松凌雲が、慶応3年、パリ万国博覧会に出席する徳川昭武の随行医として渡欧した時のメンバーです。
後の左から3人目が高松凌雲で、中央で椅子に腰掛けている一際小さい方が
徳川昭武(
徳川慶喜の
実弟)です。
吉村昭「夜明けの雷鳴」の中でも
渋沢栄一の「緻密な計算」と「人への誠意」が描かれています。
今回の旅の目的は、吉村昭「夜明けの雷鳴」の舞台を巡ることです。この小説、ご存知の方も多いかと思いますが、幕末維新に活躍した医師、高松凌雲を描いた歴史記録小説です。この写真は、ご存知、五稜郭です。
慶応4年4月に江戸城無血開城になり、戊辰戦争は、上野、北陸、東北へと舞台が移り、新政府が決定した徳川家に対する処分は、駿河、遠江70万石への減封というものでした。
約8万人の幕臣が路頭に迷うことになることを憂い、海軍副総裁の榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ、北方の防備と開拓に活路を求めたのです。
そして、約3千人が開陽を旗艦とする8隻の軍艦で10月21日(西暦12月4日)に函館の北、内浦湾に面する鷲ノ木に上陸を開始したのです。
五稜郭タワーから函館市内を一望することができます。正面に見えるのは、函館山です。この五稜郭から、函館山までの間で、壮絶な死闘が繰り広げられました。
函館市立博物館です。場所は、函館山麓にある函館公園の中にあって、周りには動物園や遊園地、図書館などが点在しています。
函館市立博物館でちょうど箱館戦争の企画展示が行われていました。
博物館の展示には、実際に
箱館戦争で使用した高松凌雲の手術道具も展示されていました。これは、パリの医学校兼病院で使用していたものを日本に持ち帰り、
箱館戦争で使用していたものです。
当時は、この道具が最先端だったのでしょうが、現代では、手術道具というよりも、ノコギリやペンチといった大工道具のように見えてしまいますね。
函館から1時間半ほどで江差町に行くことができます。
江差港は、榎本軍の軍艦「開陽丸」が沈没したところです。
榎本は、
蝦夷を完全に征服するために、土方隊を送り、
松前藩の
福山城を攻め立てます。
江差は、
北前船の発着地で繁栄をきわめていたことから、榎本ら首脳陣は
江差の占領を企て、土方隊の応援に
榎本武揚自らが軍艦「開陽丸」で
江差に向かいます。
しかし、折からの風雪で押し流され、浅瀬に乗り上げ、
座礁し、沖合で沈没してしまうのです。
開陽丸は榎本軍最強の軍艦で、しかも、オランダで製造し、日本まで運んできた榎本武揚自身にとってもかけがえのないものだったに違いありません。
この開陽丸記念館には、平成2年に開陽丸の実物大で復元した船体と、引き揚げた3万3千点の遺物が展示されています。
船体の中は意外に広く、引き揚げられた当時の大砲や砲弾の数には驚きました。
蝋人形もよくできています。
次に向かったのは、千代ヶ丘陣屋跡です。
この千代ヶ丘陣屋の隊長は、中島三郎助でした。中島三郎助を有名にした最初の話は、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に副奉行として乗り込んだことでしたね。
当時は
浦賀奉行所の与力に過ぎなかったのですが、身を挺して幕府を守ろうとした勇気ある行動でした。
その後、長崎に派遣され、海軍伝習生となり、幕府海軍の充実に尽力します。そして、榎本釜次郎(武揚)の下、「開陽」の機関長として
箱館の地を踏むのです。
中島三郎助親子は、新政府軍によって
箱館が制圧された後も降伏することなく、長男、次男とともに新政府軍の攻撃の中、戦闘を続け、命を落としました。
函館中心部を通り抜け、現在の
函館どつく前に来ました。ここに、かつて弁天台場がありました。もともと
箱館奉行所が外国船が来襲するのを恐れ、幕府に願い出て建造した砲撃用の台場でしたが、使われたのは、
箱館戦争の場面でした。
戦いは、
箱館湾海戦となり、新政府軍の艦艇の甲鉄や春日からの艦砲射撃により、砲台は崩壊します。最後まで籠城していた
箱館奉行永井玄蕃ほか240人全員が
五稜郭降伏の前に降伏した地です。
この弁天台場には、
島田魁ら
新撰組も戦闘に立っていたようで、「
新撰組最後の地」という標柱もありました。
土方歳三も、この弁天台場の救出に向かう途中に戦死しています。
明治29年、港湾改良のため、周囲が埋め立てられ、現在の姿となっています
土方歳三ファンにとっては聖地とも呼べる場所ですね。
弁天台場前の坂を上り切った場所に高龍寺があります。市内で最も古いお寺です。ちょうど、お彼岸ともあって、お墓参りの方が大勢いました。
高龍寺は、
箱館戦争の折に、高松凌雲が病院長を務める
箱館病院の分院として、負傷者らを受け入れたところです。
明治2年5月11日、
箱館戦争最大の激戦が
箱館の市街地で行われました。
当時の高龍寺は坂の下にあり、高龍寺に収容されていた
旧幕府軍負傷兵は、
松前、
津軽両藩兵らによって斬殺され、両藩兵はさらに火を放って引揚げていきました。
両藩兵は、前年の10月に鷲ノ木に上陸した榎本軍の攻撃を受けて敗走し、
津軽海峡を渡り、青森に逃れた者たちで、その報復の念をいだき新政府軍に参加していたための惨禍となったようです。
今回の旅の目的でもある高松凌雲にまつわる高龍寺には、供養塔が本堂の前に置かれています。高松凌雲は、慶応3年、パリ万国博覧会に徳川慶喜将軍の名代として出席した徳川昭武の随行医として渡欧し、1年半にわたりパリの医学校で医学の精神を学んだ後、幕府瓦解後、日本に戻り、旧幕臣として箱館戦争に身を投じ、壮絶な戦場で敵味方の区別なく治療を行った人物で、日本の赤十字創設に係った義の方です。
供養塔の横には、「傷心惨目」の碑があります。
新政府軍の先鋒隊の乱入により、傷病者らを殺傷して、寺に放火し、
会津遊撃隊の者が多数犠牲者となったと言われていますが、
明治13年に旧
会津藩有志がこの碑を建て、斬殺された
藩士を供養しています。
碑面の「傷心惨目」は、中国、唐の
文人李華の作「古戦場を弔う文」からとったものだそうです。
旧ロシア領事館です。
安政元年(1854)12月の日露通好条約に基づき、実業寺に領事館を置き、2年後の万延元年(1860)元町の現ハリストス
正教会敷地内に領事館を建てますが、隣の英国領事館の火災で被災します。その後、建設は
日露戦争で中断し、
明治41年にこの建物が完成しました。
設計は、ドイツ人建築家R.ゼールで、レンガ造りの2階建て本館の玄関には唐破風を用い、日本的な意匠が加味されています。現在は、
函館市が所有しています。
次に向かったのは、称名寺です。
函館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院です。
解説板には、次のように書いてあります。
「
土方歳三(
新撰組副長)は、榎本軍に加わり、函館で戦死した。その場所は一本木(
若松町)、鶴岡町、異国橋(十字街)など諸説があるが、土方ゆかりの東京都日野市
金剛寺の
過去帳には、函館
称名寺に供養塔を建てた、と記されている。
称名寺は、明治期の大災で3回も焼けて碑は現存しないため、昭和48年に有志が現在の碑を建立した。他の4名は
新撰組隊士で、
称名寺墓地に墓碑があったが、昭和29年の台風で壊されたため、この碑に名を刻んだ。」
碧血碑は、箱館戦争で亡くなった新撰組の土方歳三ら旧幕府軍の戦死者約800人の霊が祀られています。観光雑誌には土方歳三の遺骨もこの場所に埋葬されたと書かれていました。
碧血碑の隣に柳川熊吉の寿碑があります。先程、実行寺でも触れましたが、侠客の柳川熊吉が大工棟梁の大岡助右衛門や実行寺住職らと市内に放置された
旧幕府軍戦死者の遺体を回収し、碧血碑を建立した方です。
パンフレットの人物紹介には、江戸浅草の料亭の息子として生まれ、侠客として
箱館に渡り、江戸流
柳川鍋を商売として生活していた。と書かれていました。本名は野村熊吉ですが、
箱館奉行から柳川と呼ばれていたので、姓を柳川としたようです。
函館の観光スポットにも足を運びました。まさに異国情緒たっぷりです。
東京に戻り、あらためて荒川区にある円通寺に詣りました。このお寺には、彰義隊をはじめ、箱館戦争で活躍され、亡くなった方々のお墓や追悼碑が建てられています。
高松凌雲の墓標は、谷中霊園にあります。お墓の場所は乙5号2側です。
最後までご拝読ありがとうございました。