ペリー艦隊来航時、主席通詞としての重責を果たしながら、思いもかけぬ罪に問われ入牢すること四年余。その後、日本初の本格的な英和辞書を編纂した堀達之助の一生を克明に描き尽くした雄編(「黒船」から)
小説 「黒船」では、 通詞堀達之助の数奇な運命を辿りながら、幕末維新のターニングポイントを描いています。ここでは、堀達之助とともに、黒船の出現により、運命を変えた元浦賀奉行所与力の中島三郎助に焦点を当てながら、黒船に関わる現地を訪ねます。
今回は、吉村昭の「黒船」をもとに、黒船来航の地、浦賀を訪ね、旧幕臣として、榎本武揚や土方歳三らと共に箱館戦争で闘い、壮絶な死を遂げた元浦賀奉行所与力の「中島三郎助」にスポットを当てながら紹介していきます。
この写真は、
久里浜にあるペリー公園に建てられたペリー上陸記念碑です。
ペリー提督は、4隻の黒船を率いて
浦賀沖に姿を現しました。そして、この
久里浜に上陸し、大統領の開国と通商を求める親書を幕府に渡します。
嘉永6(1853)年6月のことです。
最初に黒船が来航した際、
浦賀奉行所与力の中島三郎助に異国船検分の命が下ります。異国船への乗船を試みますが、ペリー提督から無視されます。ペリー提督は、身分の最も高い者との交渉を望んでいたからなのです。
その時に通詞として
随行していた堀
辰之助が機転を働かせ、ペリー提督に対し、与力の中島三郎助を
浦賀奉行所副奉行として紹介し、漸く黒船に乗船することができ、来航の目的など検分することができました。
この中島三郎助と数奇の縁を持つ通詞堀
辰之助は、後に幕府の命で、
箱館に行くこととなります。しかし、その後の幕府瓦解により、新政府の官吏となり、
箱館戦争を迎えるのです。
今回の「黒船」探訪は、
京急浦賀駅からのスタートです。駅前の交差点を渡り、
浦賀港の西側(西
浦賀コース)を進みます。
浦賀警察署の手前に「大衆帰本塚の碑」があります。この石碑に刻まれている文章は中島三郎助によるものです。
江戸時代、この辺りは湊の繁栄と共に
コレラなどの疫病により多くの人が行き倒れになったため、無縁仏の墓地があった場所で、市外に墓地を移転させるために建てたものです。
西浦賀の湾口に向け進むと東浦賀への渡船場が見えてきます。
渡船からの見た景色です。奥に見えるのが浦賀ドッグです。
安政6年(1859年)に日本で初めてドライドッグとして造られました。ここで鳳凰丸を造船し、また、サンフランシスコへの就航に向け咸臨丸の整備をしました。
乗って5分、東浦賀渡船場に到着します。
乗って5分、東浦賀渡船場に到着です。
東
浦賀の船着場の横に「徳田屋跡」の解説板があります。
船着場にはお洒落なカフェがあります。カフェの建物の柱には、中島三郎助が活躍した
箱館戦争の解説板がありました。
中島三郎助の聖地であることが伝わってきます。
東林寺には、
浦賀奉行所与力だった中島三郎助親子の墓があります。
中島三郎助の墓は、右手前の墓石です。ここで、中島三郎助の人物像に少し触れたいと思います。
中島三郎助は、黒船来航の折に浦賀奉行所副奉行と称し、旗艦サスケハナ号の船上でペリー提督と交渉に当たります。その功績は大きく、中島は幕府から金一封を貰い受けます。
黒船来航を機に、全国に海防のお触れが出され、品川には台場が造られ、砲台が全国各所に整備されるきっかけとなりました。
幕府にとって最初の西洋式大型軍艦となる
鳳凰丸の建造は、中島三郎助らが担当することになります。
その後、幕府の命により
勝海舟らと共に
長崎海軍伝習所の第一期生として、軍事と航海術を修得し、築地海軍操練所に教授として迎えられます。
しかし、
勝海舟と反りが合わず、
浦賀で咸臨丸の修理に携わりながらも、遣米
使節団には選ばれませんでした。
再び
浦賀奉行所に戻りますが、ちょうどその頃、幕府が瓦解し、
浦賀奉行所も新政府軍の手に落ちます。
中島三郎助が眠る東林寺からは、浦賀港が見渡せます。対岸は西浦賀です。
次に叶神社に向かいました。東
浦賀の鎮守様です。裏山は明神山といいます。
祭神は「
厳島姫命」(いつくしまひめのみこと)で、海難その他の難事の際に身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。
本殿の横にある石段を上り切ると(マップでは神社を巻いていますが)、曲輪のような場所に出ます。そこには「
勝海舟断食之跡」という石柱が建てられていました。
ここで遣米
使節団として咸臨丸でサンフランシスコに向う前に、祈願したといわれています。
この場所は、かつて浦賀城でした。
戦国時代に小田原北条氏が
三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて
北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
この場所からは、正面に房総半島を見ることができます。また、この下辺りが黒船が停泊した場所とされています。
先ほどは、叶神社のある明神山の頂きまで登りましたが、今度は、西浦賀の最高峰、愛宕山の登頂を目指します。
愛宕山には、中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があります。浦賀港沿いの路地に入ったところに「浦賀園」と読むのでしょうか、愛宕山公園の入口があります。
息を荒くして登った先に「咸臨丸出航の碑」がありました。
この碑は、昭和35年に日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられました。
碑の裏には、勝海舟をはじめ、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)など乗組員全員の名前が刻まれています。
主要な浦賀奉行所与力が選ばれるなか、功績も高く、咸臨丸の修理も担当していた中島三郎助や通詞として活躍した堀辰之助が遣米使節団の一員になれなかったことに複雑な思いがします。
その先に中島三郎助の招魂碑と功績を記した解説板がありました。
江戸時代末期に横須賀造船所ができてから、
浦賀は幕府の軍港としての役割はなくなりますが、中島三郎助の23回忌に建てた招魂碑の除幕式に、
箱館五稜郭で共に戦った
榎本武揚らが中島三郎助の功績を称えて、再び
浦賀に造船所建設を呼びかけ、煉瓦造りのドライドッグが造られることになったのです。
それにより、
浦賀は造船所の街として再び賑わいを取り戻すことになりました。多くの軍艦や、
青函連絡船などがこの港で造られています。
浦賀湾から少し奥に入ったところに「浦賀奉行所跡」があります。
2年ほど前に来た時は、まだ団地がありましたが、現在は埋蔵文化財の調査も終え、更地になっています。
享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀に移されました。
奉行所では、船改めのほか、海難救助や地方役所としての業務を行っていました。
また、1830年代にたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防御する海防の最前線として、さらに重要な役割を担うようになりました。
奉行所跡を取り囲む堀の石垣は当時のものです。
浦賀奉行所跡から1キロほど歩いた先に「燈明堂跡」があります。
慶安元年(1642年)に幕府の命により建てられた燈明堂は
灯台の役割をはたしていて、その灯は、房総半島まで届いたといいます。
燈明堂の建物は明治5年に消滅しますが、台座の石垣のみ
横須賀市の史跡に指定されています。
1853年7月14日(
嘉永6年6月9日)、米国
フィルモア大統領の日本開国を求める国書をもって、提督ペリーは
久里浜海岸に上陸しました。
この歴史的事実をきっかけに、翌年には
日米和親条約が結ばれ、日本は200年以上に渡ってつづけてきた
鎖国を解き、開国しました。
ペリー公園は、日本の近代の幕開けを象徴する史実を記念した公園です。
1901年(
明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日にペリー上陸記念碑の除幕式がおこなわれました。
太平洋戦争以降、日米が敵対関係となり、1945年(昭和20年)2月に碑は引き倒されました。
しかし、
終戦後、粉砕されず残っていた碑は同年11月に復元されました。
ペリーは、翌年の嘉永7(1854)年1月16日、7隻の艦隊を率いて再び来航し、和親条約の締結を迫ります。
結局、幕府は嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に横浜村で日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。横浜開港記念資料館の園地に「日米和親条約締結の地」碑が立っています。
横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。
資料館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。
中庭にある「たまくすの木」
横浜港を見下ろす掃部山公園には、幕末の大老で「日米修好通商条約」を締結し横浜開港を導いた井伊直弼の銅像が建っています。日米修好通商条約」を締結は、横浜で「日米和親条約」が締結されてから2年半後のことでした。
像が建立されたのは横浜開港50年を迎えた明治42(1909)年。建立には旧彦根藩士で横浜正金銀行頭取を務めた相馬永胤が深く関与し、像の台座は横浜正金銀行本店本館を設計した妻木頼黄が手がけました。
安政3(1853)年7月21日、下田に駐在するため初代アメリカ総領事として来日したハリスは、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を幕府に求めました。
孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政(1853)年6月19日、大老井伊直弼は「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結しました。条約の調印は神奈川沖に泊まっているポーハタン号の上で行いました。
また幕府は、アメリカに続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。
条約の調印場所となったポーハタン号は、日米修好通商条約の批准書を交換するため、安政7(1857)年1月、アメリカに向けて横浜を出発しました。勝海舟らが乗る咸臨丸も、浦賀港から共にアメリカに向かいました。