吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

島抜け-「梅の刺青」の舞台を歩く

 吉村昭歴史小説「島抜け」(新潮文庫)には、「島抜け」、「欠けた椀」、「梅の刺青」の三篇が収録されています。

 今回は、その中の「梅の刺青」を取り上げ、その舞台を歩きます。

 「梅の刺青」は、明治2年に日本最初の献体をした元遊女をはじめ初期解剖の歴史を主題とした小説です。

 吉村昭は、元遊女の解剖に立会った医学者石黒忠悳氏のご子孫のもとに伺い、日記を見せてもらい、解剖の記述の中に遊女の腕に梅の小枝の刺青が彫られていることに衝撃を受けたとあとがきで書いています。

 さらに、以前から吉村昭が関心を寄せていたという元米沢藩雲井龍雄が、同じように解剖に付されていた事実を突き止め、「梅の刺青」の創作意欲を抱いて筆をとったと後述しています。

 

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元遊女みきのこと

 東京都文京区白山にある「念速寺」に「梅の刺青」の主人公の元遊女みきの墓石があります。

 本堂の前には、文京区指定史跡「美幾女墓」(特志解剖一号)と書かれた解説板が建てられています。
解説板の文字を起こしてみますと、
 美幾女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美幾女は、病重く死を予測して、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)8月12日、34歳で没した。
 死後、直ちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら屍体を提供することの難しい時代にあって、美幾女の志は、特志解剖一号として、わが国の医学 研究の進展に大きな貢献をした。
 墓石の裏面には、"わが国病屍解剖の始めその志を憙賞する"と、美幾女の解剖に当たった当時の医学校教官の銘が刻まれている。
                          文京区教育委員会

 
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 墓地は、本堂の裏手で、美幾女の墓は千川通りの塀ぎわにあります。しっかりとしたアクリル板で覆われていて、「美幾女の墓」と記されているのですぐ見つけることができます。墓石は思っていたよりも、小さな作りでした。


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 解剖と言うと、明和8年(1771)3月4日に杉田玄白前野良沢中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」を刊行したことが有名ですね。
江戸時代後期になると、西洋医学を学ぶ者によって、解剖が続けられましたが、幕府が公認しているのは中国医学だったことから、漢方医たちの西洋医学への反発があり、江戸で行われることは稀でした。
 
 明治維新以来、一例もないことから苛立っていた医師たちは、医学校に付属していた黴毒院に視線を注ぐようになっていました。その医療所は、広く蔓延する梅毒に侵された重傷患者を収容していましたが、治療法もなく死を迎える者がほとんどでした。
 
 黴毒院は、徳川吉宗が創設した小石川養生所の性格をそのまま受け継いだところで、極貧の梅毒患者に無料で薬を与え治療を施す施療院でした。

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 黴毒院に入院している患者の中に、みきと言う34歳の女がいました。長年遊女をしていた女で、みきの病勢は進み、体は痩せこけ、寝たきりの状態で舌もただれて出血し、激痛に悶えていました。みきも死を自覚していました。
 
 医学校の医師は、医学の進歩のため死後の解剖を受け容れるように溶きます。みきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという言葉でした。遊女は死ぬと投込寺の穴に遺棄されるのが習いだったことから、戒名をつけて、然るべき寺の墓地に埋葬し、墓も建ててやるという説得を受け容れたのです。
 下の写真は、小石川植物園内にある旧養生所の井戸です。
 
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 旧藤堂家の江戸屋敷に建てられた医学校では、直ちに解剖の準備に手を付けました。

 体の所々にはただれの跡が残り、身体は痩せこけ骨が浮き出ている。乳房はしぼんでいるが、隠毛の豊かさと艶をおびた黒さが際立っていた。

 遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。

 それは、刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に「・・・さま命」と記されている。

 小石川植物園でも、梅が少しづつ咲き始めていました。(スマホで撮影)

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 親族の意向により、小石川戸崎町の念速寺に埋葬することが決められました。
 白提灯灯をかかげた長い葬列に、沿道の人々は身分の高い死者の葬送と思ったらしく、道の端に身を寄せ、合掌し頭を垂れる者もいたそうです。
  四人の僧の読経のもと葬儀が行われ、みきには「釈妙倖信女」という戒名がおくられました。

 

米沢藩雲井龍雄のこと

 吉村昭歴史小説「梅の刺青」は、解剖される側の人間を描きながら、日本の死体解剖の歴史を掘り起こしています。
 日本で初めて解剖が行われたのは、宝暦4(1754)年でした。
 京都の古医方の大家山脇東洋が、それまで誰も疑うことのなかった中国医学五臓六腑説が果たして正しいのかを確認したいという願望から始まっています。
 宝暦4年2月7日、京都六角の獄舎で罪人5人が斬首刑に処され、嘉兵衛という38歳の罪人の解剖が行われました。
 その後、腑分けが続きますが、明和8(1771)年3月4日に杉田玄白前野良沢中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」の刊行に繋がっています。
 
 南千住駅の近くにある小塚原回向院に入ると、「解体新書の扉絵」と「蘭学を生んだ解体の記念に」が刻まれた記念碑が掲げられています。
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 明治政府が発足してからは、解剖は東京のみで行われていました。明治2年8月の美幾女(みき)の解剖を最初に、黴毒院患者の生前志願によるものでした。

 

 その後、社会情勢が不安定なことから犯罪がしきりに発生し、処刑される罪人の身許不明者が多いことから、大学東校(東京医学校前身)のある旧藤堂家屋敷の敷地内で処刑された罪人の解剖が行われるようになりました。

 
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 小塚原回向院の墓地には、安政の大獄等で斬刑(梟首刑)に処された橋本左内吉田松陰らの墓石が並んでいます。

 

 その中の一つに「雲井龍雄」の墓碑があります。墓碑には「雲井龍雄遺墳」と刻まれています。

 

 いずれも伝馬町牢屋敷で斬首された後、梟首刑の者は野捨てにされる定めとなっていて、斬首された頭部は小塚原刑場にさらされました。

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 5年ほど前に吉村昭歴史小説「島抜け」を読んでいた際、亡き友人が眠る「円真寺」が、著書のなかで重要な場所として登場していることに気付き、米沢藩雲井龍雄について知る機会となりました。

 雲井龍雄のことについては、藤沢周平歴史小説「曇奔る-小説・雲井龍雄-」に詳しく書かれています。
 
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 円真寺は、東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ日蓮宗の寺院です。
 米沢藩雲井龍雄と円真寺について、吉村昭の「島抜け(梅の刺青)」から紹介します。
 雲井は、慶応元年正月、二十二歳で江戸警衛に派遣された。任期後も江戸にとどまって、考証学の大家安井息軒の門に入って、多くの俊才と交わり、憂国の情熱を燃やすようになった。米沢にもどった雲井は、情勢に即した藩論を定めるべきと強く説き、藩命を受け探索方として京都に潜行した。
 明治元年薩摩藩長州藩とともに倒幕の兵を起こし、強硬な薩摩藩の動きに反撥した雲井は、各藩の代表者に接近して倒薩論を強く唱えた。倒幕軍が江戸を占拠して東北への進撃を開始すると、雲井は関東に潜入し、さらに東北諸藩によって成立した奥羽列藩同盟を支持して激しい動きをしめした。
 薩摩に反撥する諸藩の連合のもとに、江戸を奪回する檄を発したりした。雲井のもとには、薩摩藩が主導権を握る政府に反感をいだく旧幕臣や脱藩浪士たちが集まり、雲井は芝二本榎の上行寺と円真寺を借りてそれらの者を寝泊まりさせ、「帰順部曲点検所」という標札をかかげた。
 帰順とは、雲井らが服従して政府の兵力になるというものであったが、それが容れられた折には政府の武器を手に反乱を起こそうと企てていたのである。
 政府は雲井に手を焼き、彼を隔離すべきだと考え、藩に命じて米沢に禁錮させた。東京に残された者たちは、挙兵の準備に取り組んで動き、これを政府の密偵が的確につかんで、次々に逮捕した。
 彼らの中には拷問に堪えきれず、雲井が政府転覆を企てて不満分子を積極的に集めていたことを告白する者もいて、罪状は明白になった。
 雲井は、三十名の兵の護衛の元に東京に押送され、八月十八日に小伝馬町の獄舎に投じられた。

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 雲井の遺体は、会津藩士原直鐡をはじめ九体の遺体とともに甕に入れられて大学東校に運ばれた。
 初めに甕から出されたのは、雲井の遺体であった。解剖台にのせられた雲井の体はきわめて小柄であることに、見学者たちの顔には一様に驚きの表情が浮かんだ。
 政府転覆を企てた一党の首魁である雲井は体躯も大きいと予想していたが、体は華奢で肌は白く、あたかも女体のようであった。解剖後、雲井の遺体は、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられた。
 他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれ僧の読経のもとに無縁墓地に埋葬された。
 小塚原回向院に埋葬された雲井の遺体は、その後米沢に移葬されますが、その際に建てた自然石「竜雄雲井君之墓表」が谷中天王寺(現谷中霊園)にあります。
  撰文は人見寧によるもので、雲井の事績が刻まれています。
 人見寧は旧幕府遊撃軍の幹部で戊辰戦争では雲井と刎頚の交わりを結び、新政府軍に抗した人物です。


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 雲井の遺体は解剖後、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられましたが、他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれました。

谷中天王寺

 谷中天王寺は、戊辰戦争上野戦争)の際、幕府側・彰義隊の営所となったため官軍との戦闘に巻き込まれ、本堂(毘沙門堂)などを焼失しています。


 さらに明治初年の廃仏毀釈神仏分離寛永寺の広大な境内地が上野公園になるなどの荒波を受け、天王寺も境内の多くを失っています。


 都立谷中霊園も江戸時代には天王寺の墓地(徳川将軍家の墓地は寛永寺墓地)。中央の園路は天王寺の参道だったそうです。


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 元禄13年(1700年)には感応寺(現・天王寺)に対して富突(富くじ)の興行が許され、湯島天神目黒不動瀧泉寺)とともに「江戸の三富」に数えられていました。


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 境内にある「元禄大仏」(露座、銅製)は、元禄3年(1690年)鋳造の釈迦牟尼如来坐像。神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造し、像高296センチです。
 江戸時代後期の天保年間(1831年〜1845年)刊行の『江戸名所図会』にも記される大仏なので、当時からかなり有名だったことがわかります。

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 谷中の墓地(都立谷中霊園)にある五重塔の跡は、寛政3年(1791年)再建の天王寺五重塔の跡です。

 

 戊辰戦争の戦火を逃れた五重塔ですが、昭和32年に放火(谷中五重塔放火心中事件)で焼失してしまいます。幸田露伴の小説『五重塔』は、その顛末を題材にしています。


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 雲井龍雄らの解剖のあと、刑死者の遺体解剖は頻繁に行われるようになりました。

 

 明治5年8月に旧藤堂家屋敷にあった大学東校は、第一大学区医学校と改称され、明治7年5月に東京医学校となります。

 その後、東京医学校は、明治9年11月に本郷の加賀藩屋敷跡に校舎を新築し、翌年4月に東京大学医学部と改称されます。

 小石川植物園にあった旧東京医学校本館は、その時に建てられたものです。

 

千人塚と東京大学医学部納骨堂

 明治14年に入って、解剖遺体が千体に及んだので、霊を慰めるために千人塚を建立する計画が起こり、谷中霊園にその年の12月に碑が建立された。

 その後、千人塚はさらに2基建てられ、年に一度、東京大学医学部の主催で多くの医学部関係者が集まり、しめやかに慰霊祭が行われている。

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  千人塚の隣にある東京大学医学部納骨堂
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 吉村昭は、随筆「わたしの普段着」の中でも「雲井龍雄と解剖のこと」について触れています。

 私はこれらの解剖を記録をもとに小説を書いたが、その記録を繰ってゆくうちに思いがけぬ記述を眼にした。

 解剖された刑死者の中に雲井龍雄という名を見出したのである。

 解剖記録によると、雲井と原をはじめ十体の斬首された遺体は大学東校(医学校改め)に運ばれ、解剖に付されている。

 それを見学した者の記録に、雲井の体が華奢で肌は白く、「女体ノ如シ」と記されている。

米沢に行って雲井のことを調べたが、その死は梟首とあるのみで、遺体が解剖されたとはされていない。

 吉村昭歴史小説「島抜け」を読んだことで、元遊女みきが眠る、東京都文京区白山にある「念速寺」を巡り、そして、米沢藩雲井龍雄が活動の拠点とした東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ円真寺を巡る機会となりました。円真寺は、同僚が眠る寺院ということもあり、関心を持ちました。

 この「梅の刺青」は、二人の生き様を通し、日本の解剖の歴史を、医学の発達を私たちに教えてくれています。