吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「冬の鷹」の舞台を歩く

 わずかな手掛かりをもとに、ほとんど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。

 出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する。

 我が国近代医学の礎を築いた画期的偉業、「解体新書」成立の過程を克明に再現し、両者の劇的相剋を浮彫りにする感動の歴史長編。    

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江戸の町々に、春の強い風が吹き付けていた。

日本橋に通じる広い道を、中津藩医前野良沢は総髪を風になびかせながら歩いていた。

 吉村昭歴史小説「冬の鷹」 の書き出しです。

 前野良沢は、藩医として豊前中津藩中屋敷に住んでいました。現在の東京都中央区明石にある聖路加国際病院のところです。

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 当時、この場所は、築地鉄砲洲という地名で、下の絵図にある「奥平大膳大夫奥平昌服 豊前中津藩(大分)十万石」と書かれている場所にありました。

 前野良沢が仕えていた頃は、藩主奥平昌鹿侯の中屋敷でした。この地は、元々埋め立てられたところで、周りは鉄砲洲川と築地川に囲まれ、南側は隅田川に面していて、多くの船宿が軒を連ねていました。

 現在、両側の川は埋め立てられ、都会の小さなオアシス、公園になっています。

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 聖路加国際病院の先にある聖路加ガーデンは、明治初めの頃、築地居留地内の一部でアメリカ公使館があったところです。

 現在、聖路加ガーデンの前には「アメリカ公使館跡」の解説板があり、また隅田川の岸辺の歩道には当時の史跡が残されています。

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 聖路加ガーデンからは、隅田川を挟んで、向う岸の佃島や月島に建ち並ぶタワーマンションが見えます。


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 前野良沢が総髪を風になびかせながら歩いていた先は、日本橋本石町の長崎屋源右衛門の経営する宿「長崎屋」でした。

 当時、桜の蕾が膨らみ始める頃、長崎のオランダ商館長一行は、年に一回一ヶ月ほど、将軍に拝謁するため江戸に訪れていました。その期間、滞在している定宿がこの長崎屋でした。

日本橋が遠くに見えはじめた頃、良沢は足をとめた。急に気分が重くなった。面識のない西善三郎(商館長一行に随行したオランダ大通詞)を訪れることに気おくれがしてきたのだ。

かれは、幼少の頃から人と会うのが嫌いであった。・・・

ふとかれは、だれかを誘ってみようかと思った。かれは一人の人物を思い起こした。それは、以前に顔を合わせたことのある小浜藩医の杉田玄白であった。

幸い玄白は、長崎屋に近い日本橋堀留町に住んでいて医家を開業している。

 長崎屋は、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷から直線距離で約3キロほどのところにあります。前野良沢は、日本橋の「木屋」「越後屋」を通り過ぎ、路地を曲がり、杉田玄白を誘って、現在の日本橋室町3丁目の交差点付近に建つ長崎屋に向かっていたのでしょう。

 長崎屋の一本奥の通りに火の見櫓のような「時の鐘」(下の絵図の赤い鐘の目印)が建っていました。今でも、その通りを「時の鐘通り」と名付けられています。後ほど、現存する「時の鐘」も紹介します。

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 交差点の角に「長崎屋」はありました。


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 角のビル一階部分に新日本橋駅(JR東日本総武線の駅)の出入口があります。その脇に「長崎屋跡」の解説板があります。

 江戸参府の際には、商館長の他に通訳や医師なども連れ立って訪れていました。後の時代にはシーボルトも一行として滞在していました。

 オランダ商館長が江戸参府している時期に併せて、蘭学に興味を持つ蘭学者や医師たちが訪問し、先進的な外国の知識を吸収する場所になっていました。前野良沢もそのうちの一人でした。


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 絵図にあった「時の鐘」は、寛永3(1626)年に本石町3丁目に建てられて以来、日本橋周辺に時を知らせてきました。

 明治5年に本石町から日本橋小伝馬町の「十思公園」に移され保存展示されています。現在の鐘は、宝永8(1711)年に鋳造されたものです。

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 前野良沢に誘われて、ともに長崎屋に向かった杉田玄白は、親交を結んでいた平賀源内と、以前、長崎屋に訪れたことがありました。

 当時、平賀源内は和漢洋の多くの物産を一堂に集めた物産会の会主として活躍していて、西洋の知識を得ることに熱心で長崎屋に度々訪れていました。

 下の写真「平賀源内電気実験の地」は、平賀源内がエレキテルを修理して、日本人で初めて電気の実験をしたことを記念する石碑です。石碑は江東区深川にあります。

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 玄白とともに長崎屋に向かった良沢は、商館長一行に加わっていたオランダ大通詞西善三郎に面会し、オランダ語を修得する方法を尋ねることにしたのです。

 かれは、蘭書を自由に読む力をつけたいと西に言った。それは至難のわざであるに違いないが、同じ人間であるオランダ人の書きしるしたものが読めぬはずがない。かれは蘭語の研究に身を入れたいのだが、その方法を教えて欲しいと言った。

西は、良沢に眼を向けた。その顔には依然として柔和な表情がうかんでいたが、口から漏れた言葉は、「それは御無理だからおやめなさるがよい」という素気ないものであった。

 長崎屋に同行した杉田玄白は別れ際に、「オランダ語の修得は断念する」ということを口にしましたが、良沢は西の忠告を排してオランダ語の勉学の手掛かりを得たいと思い、江戸のオランダ語研究者の青木昆陽のもとに弟子入りすることにします。

 初歩的なものでしたが、青木昆陽は700語以上の単語を分類した「和蘭文字略考」という著書を著していました。しかし、1年も満たず、老齢の昆陽は病臥の身となり、オランダ語の初歩を学ぶ貴重な機会を失われてしまいます。

 その後、良沢は藩主奥平昌鹿に長崎遊学を願い出ます。藩主は、医術修行でなく、オランダ語を極めたいという良沢の思いを理解し、多額の金子を出して、長崎に送り出してくれたのです。

 100日ばかりの長崎遊学ではほとんど得るものはなかったのですが、藩主から頂いた金子で「仏蘭辞書」とオランダの腑分け書「ターヘル・アナトミア」を手に入れることが叶い、江戸に戻って来たのです。

妻の珉子は、三人の子を生んだ。二人の娘は、妻に似て目鼻立ちがととのい肌も白く、息子の逹は、良沢に似て背丈の高い若者に成長している。・・・

幼くして父をうしない、母に去られ、孤児となった良沢にとって、妻と三人の子にかこまれた生活は得がたいものに思われた。

 玄白とは5年前に長崎屋で会って以来、顔を合わせていませんでしたが、この頃、玄白は、かねてから腑分けに立ち入って人体の内部を直接見たいという願望を持ち、町奉行にもその機会を与えてほしい旨の願いを出していました。

杉田玄白様から頼まれましたと、辻駕籠の者が持って参りました」珉子は言った。良沢は、すぐに書簡を開き行燈の灯の下で文字を追った。・・・

それによると、明日千住骨ケ原で刑死人の遺体を腑分けするが、もしもお望みなら骨ケ原刑場へお越しなさるがよいという。・・・

良沢は、ターヘル・アナトミアを紫の布につつんで中屋敷を出た。 

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刑場は広く、処刑者の遺体が至るところに埋めせれているらしく土の表面が遠くまで波打っている。その地表に雑草がまばらに生え、その中に石像坐身の地蔵と南無阿弥陀仏ときざまれた石碑の立っているのが、その地を一層寒々としたものにみせていた。

 上の写真は、JR南千住駅近くにある延命寺首切り地蔵です。江戸時代に小塚原刑場で刑死した人たちの菩提を弔うために寛保元(1741)年に建立されたものです。その隣には小塚原の刑場跡に建つ回向院があります。

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 回向院に入ると、右側の壁面に小説「冬の鷹」の表紙にもなったレリーフと「蘭学を生んだ解体の記念に」と題された解説があります。

 日本医史学会、日本医学会、日本医師会が、杉田玄白前野良沢中川淳庵等が安永3(1774)年に解体新書5巻を作り上げた偉業をたたえたものです。

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 この小塚原の刑場では、火罪、磔、獄門などの刑罰が行われるだけでなく、刑死者等の死者の埋葬も行われていました。時に、刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も行われてきました。

 明治前期にはその機能も廃止され、回向院は顕彰、記念の地となっていき、橋本左内吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となっていきました。


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 玄白も良沢も、競い合うようにターヘル・アナトミアのページを操って解剖図をさぐった。

「ございました。確かにこれでござる。位置も形も全く同一でございます」玄白が、甲高い声をあげた。・・・

「いかがでござろうか。このターヘル・アナトミアをわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか」玄白の顔には、激しい熱意の色が見られた。・・・

良沢は、彼らとともに翻訳事業に取組むことを固く心に決めた。

 翌日から、小浜藩杉田玄白中川淳庵は、築地鉄砲洲の中津藩大名屋敷に通い、オランダ語の初歩的な知識を持つ良沢を師と仰ぎ、翻訳作業を始めることになります。

 

 築地鉄砲洲の中津藩大名屋敷の跡地である聖路加国際病院の構内には、前野良沢らがオランダ解剖書を初めて読んだことを記念した碑が建てられています。

翻訳作業を始めて2年余りが過ぎました。

玄白は、出版を予定している「解体新書」の草稿の整理に勤めていた。・・・

かれは、出版についてその形態をどのようにすべきか思案していた。ターヘル・アナトミアの翻訳は、前野良沢の語学力なしには到底果たし得ないものだった。と言うよりは、良沢の翻訳環境を玄白らが整えたに過ぎないといった方が適切だった。・・・

 玄白は良沢を訪ね、翻訳の盟主である良沢に序文をしたためてほしいと伝えると、良沢は、「それはご辞退したい」と即座に答えます。

そして、「私の氏名は、翻訳書には一字たりとも記載していただきたくないのでござる」ときっぱりとした口調で言ったのです。

かれは、ターヘル・アナトミアの翻訳書ー「解体新書」の刊行には不賛成だった。少なくとも時期尚早と信じていた。さらに長い年月を費やして訳を練り、完訳を果たして後に初めて刊行すべきものと思っていた。しかし、玄白は、ひたすら出版することのみに心を傾けていた。

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本文の巻之一から四の冒頭には、「解体新書」訳業の関係者の氏名が左のように記されていた。

若狭 杉田玄白翼  訳

同藩 中川淳庵鱗  校

東都 石川玄常世通 参

官医東都 桂川甫周世民 閲

・・・

「解体新書」が出版されてから、4年目の春をむかえた。杉田玄白蘭方医家としての名声は華々しく多くの学徒が入門を乞い、天真楼塾の名はひろく知られるようになった。・・・

かれ(前野良沢)の唯一の楽しみは、酒であった。かれは、訳読を終えると、妻の手料理に箸を動かしながら酒をふくみ、食事をする息子の逹と娘の峰子の姿を眺める。それは、かれに一日の仕事を終えた安息をあたえていた。・・・

収入は、藩医として授けられる定まったものだけで、生活は貧しかった。・・・

「解体新書」の出版から20年近く経った。

杉田玄白は六十歳の誕生日を迎えていた。・・・

養子の伯元は、養父玄白の還暦を祝う催しを企画し、たまたま前野良沢が七十歳の古希を迎えていたので祝宴に招待することになった。

誘いを受けた良沢の感情は、複雑だった。玄白とターヘル・アナトミアの翻訳を志してからすでに21年が経過している。

その訳業は「解体新書」として出版されたが、同書に名をとどめることをきらった良沢と代表訳者として出版を進めた玄白との境遇は、それを分岐点として大きな差を生んでいた。・・・

玄白は江戸随一の蘭方の流行医として名声を得、それに比べて良沢は、オランダ語研究に没頭し次々と蘭書の翻訳を続けていた。それらを出版することを拒んでいたので、名声と富には縁がなかった。  

かれは金銭の貯えもなかったので家を買い求めることができず、御隠殿坂の近くにある小さな借家を見つけて、そこに移り住んだ。

 現在の御隠殿坂は、谷中霊園からJR山手線等の跨線橋を越え、根岸3丁目につながる通路ですが、この御隠殿とは東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸のことで、江戸時代、寛永寺から輪王寺宮が別邸へ行くために造られた坂でした。この坂の周辺に借家を借りて良沢は住んでいたようです。

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 ターヘル・アナトミアの翻訳を志してから、すでに27年という長い歳月が経過した。そして、「解体新書」の出版とともに良沢との交際は断たれた。かれは、江戸のみならず全国に名を知られた大蘭方医と称されるようになったが、良沢は、一般人には無名の一老人にすぎず、侘しい暮らしをしている。その差は、余りにも大きい。

玄白は、良沢に対してひそかにひけ目を感じていた。ターヘル・アナトミアの翻訳は良沢の力によるものであったが、訳者は玄白になった。それによってかれは輝かしい栄光につつまれたが、良沢は貧窮の道をたどっている。

享和三年が、明けた。

良沢の老いは、さらに深まった。歩行も困難になって、ほとんど坐ったままであった。・・・

十月十七日朝、良沢は昏睡状態におちいった。そして、その日の午後、かれの呼吸は停止した。

かれの遺体は棺におさめられ、菩提寺の慶安寺に葬られた。通夜にも葬儀にも焼香客はほとんどなかった。戒名は、楽山堂蘭化天風居士で、妻珉子、息子逹と長女の戒名の並べられた小さな墓碑に、かれの戒名もきざまれた。

かれの死は、その日のうちに杉田玄白にもつたえられた。が、玄白は近所の患家と駿河台の患家に往診におもむき、良沢の息をひきとった小島春庵の家へは足を向けなかった。・・・

玄白は、良沢の死んだ当日の日記に「十七日雨曇近所・駿河台病用」という文字の下に、「前野良沢死」という五文字を記したのみであった。

執筆を終えた翌日、私は、良沢の墓のある慶安寺に赴いた。良沢の歿した頃、同寺は下谷池ノ端七軒町にあったが、大正三年に現在の東京都杉並区梅里一の四の二十四に移され、墓もその境内に立っている。(あとがき)

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碑面には、三つの戒名が並んで刻まれていた。右側に良沢の子の逹の葆光堂蘭渓天秀居士、中央に妻の珉子の静寿院蘭室妙桂大姉、左側に良沢の楽山堂蘭化天風居士という戒名がそれぞれ見える。

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さらに暮石の側面に、良沢がターヘル・アナトミア翻訳中に病死した長女の報春院現成妙身信女という戒名もある。つまり、他家に嫁した次女峰子を除く家族すべてがその暮石の下に埋葬されているのだ。

孤児同然の淋しい生い立ちであったが良沢が死後も家族と共にあることに、私は安らぎを感じた。(あとがき)

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 かれの栄華は、つづいた。・・・

かれの琴線に対する関心は強く、寛政七年末には、「・・・富は智多きに似て貧は魯に似る。人間万事銭神に因る」という詩を作ったが、金銭の力を信じていた合理主義的な人物でもあった。・・・

文化十四年、玄白は八十五歳の老齢に達した。病弱で結婚まで逡巡したかれにとっては、夢想もできぬ長寿であった。

四月十七日は、美しく晴れた日であった。その日、かれは不帰の客となった。・・・

戒名は九幸院仁誉義貞玄白居士で、棺は長い葬列とともに芝の栄閑院に運ばれた。

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 読後、 再び、聖路加国際病院構内にあるモニュメントの前に立ってみました。

 この場所で、前野良沢杉田玄白らが意気投合し、ターヘル・アナトミアの翻訳に夢中になっていた頃のことを思い浮かべながら。

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 参考までに「冬の鷹」の舞台となった場所をマップにしました。 

                                           (完)