吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「日本医家伝」の舞台を歩く

 「日本医家伝」は、医学関係の季刊雑誌「クレアタ」に3年間連載されたものをまとめた短編集で、いずれも江戸時代中期から明治初期にかけて活躍した12人の医家の生涯が綴られています。

 取り上げられている医家は、吉村昭の長編小説にも主人公として登場している方が半数で、残りの医家は私自身初めて名前を聞くという方でした。吉村昭が選んだ12人の医家とはどんな人物か、あとがきにはこう記されています。

顕著な医学業績を残した人たちであることはもちろんだが、それ以上に人間的に強い興味をいだいた医家たちである。それらの医家たちの生き方に、現代の様々な医家との激しい類似も見出すのである。

  ここでは、12人の中から特に印象が残った前野良沢、伊東玄朴、土生玄碩について、その作品の舞台を紹介したいと思います。

 また、「日本医家伝」の「文庫本あとがき」に、吉村昭自身がそれぞれの作品に対して、作家の立場から述べているところがあったので、併せてご紹介します。

         日本医家伝 新装版(講談社文庫)

前野良沢

 最初の医家は、プログでも前回ご紹介している「冬の鷹」の主人公前野良沢です。吉村昭は、この「日本医家伝」の執筆の後、「冬の鷹」を書くことになります。

 良沢は、中津藩の藩医で、藩主奥平昌鹿の江戸中屋敷に居を構えていました。小浜藩医の杉田玄白からの誘いを受け、千住小塚原で刑死者の遺体の腑分け(解剖)に立ち会うことに。

 それがきっかけとなり、オランダ語訳の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に乗り出します。

 実際に翻訳にあたっていたのは、オランダ語の素養を持った前野良沢で、杉田玄白らは、その環境を整えることに努めていたのでした。

 下の写真は、南千住駅近くにある「回向院」です。前野良沢杉田玄白らが、刑死者の遺体の腑分け(解剖)に立ち会った場所です。

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  回向院に入ると、右側の壁面に小説「冬の鷹」の表紙にもなったレリーフと「蘭学を生んだ解体の記念に」と題された解説があります。

 日本医史学界、日本医学会、日本医師会が、杉田玄白前野良沢中川淳庵等が安永3(1774)年に解体新書5巻を作り上げた偉業を讃えたものです。

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 オランダ語訳の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として 発刊した中に訳業の指導者であった前野良沢の名前はありませんでした。

しかし、前野良沢杉田玄白と翻訳事業が終了したと同時に仲たがいしたというわけでもなかった。良沢は、「解体新書」はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけて完全なものにした後に行うべきだと考えていたのだ。

そうした良沢の気持ちに反して、玄白は刊行を急いだ。学究肌の良沢は、それについてゆく気になれず学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。

玄白は、それを素直に聞き入れ、「解体新書」の訳者は、杉田玄白ただ一人となったのである。

杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。・・・玄白は、85歳の長寿を全うし、開業医として経済的にも豊かな後半生を送った。

杉田玄白とは対照的に、前野良沢は「解体新書」刊行後もオランダ語研究に没頭し、病と称して門を閉じ交際も極力避けた。・・・生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。

良沢は、享和3年10月17日81歳で病没したが、玄白はその葬儀にもおもむかず、その日記にただひとこと、

良沢死ー と書き記しただけであった。良沢の遺体は、江戸下谷の慶安寺に葬られ、現在は杉並の高円寺に小さな墓碑が置かれている。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

前野良沢は「解体新書」の翻訳を進めた中津藩の藩医である。「解体新書」の訳者は杉田玄白とされているが、実際の訳者は良沢であることを知って、私は驚いた。歴史の真の姿を伝えるための義務を感じるとともに、良沢と玄白の対照的な生き方に興味をいだき、筆をとった。 

前野良沢については、下の「冬の鷹」で紹介しています。

mondo7.hatenadiary.jp

伊東玄朴

伊東玄朴は、寛政12年12月28日肥前国神埼郡仁比村に生まれた。生家は貧農で、名は勘造と言った。・・・恵まれた頭脳をもって生まれた勘造は、農耕以外に立身の道をもとめようとし医家を志したのである。・・・勘造は、郷里を去って、長崎へ出た。かれは、新しい医学であるオランダ医学を身につけて一家を成そうと決意した。

その頃、長崎はシーボルトを中心に洋楽の研究がさかんで、シーボルトの開いていた鳴滝の私塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。勘造はシーボルトの講義を末席に坐って聴講した。

 文政9年2月、シーボルトはオランダ商館長に随行して将軍の拝謁を受けるため江戸に向った。それを追うように通詞猪俣源三郎も江戸に向かい、勘造も共し、浅草の天文台役宅に入った。

翌年、勘造は故郷に帰ることになった。その折、源三郎から高橋作左衛門に依頼された日本地図をシーボルトへ渡すよう命じられたのである。

翌文政11年10月10日、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって、シーボルト事件は公けなものになった。

 勘造は、シーボルト事件の連累者として幕府の役人が探していることを知り、愕然とする。幼児から立身を夢見て飢えに堪えながらオランダ語を学び、医学を修業してきた自分の努力を無にしたくなかった。

 なんとかしてこの災いを避けたかった。勘造は、肥前藩留守居役に「私はただの使いであったということにします」ときっぱりと言った。

勘造は、江戸本所番場町に医業を開いた。かれは、勘造という名では医家らしくないので、シーボルト事件の折に使用した伊東玄朴という名を借りて使用することにした。勘造の医学に対する熱意も藩主鍋島直正の知るところとなり、一代限りではあるが、正式に藩士伊東仁兵衛弟として伊東玄朴を名乗ることを許されたのである。

玄朴は、時勢の流れを鋭く観察していた。西洋文明は果てしなく流入し、医学はいつしかオランダ医学が主流を占めるに違いないと判断していた。

かれは禁令の発せられた年に輸入された種痘術に注目した。この天然痘予防術は効果が著しく、オランダ医学の優秀性を立証するのに最適だと思った。・・・

安政4年5月、大槻俊斎蘭医9名とはかって江戸に種痘所を設けることを計画した。翌年に許可が下りたので、玄朴は江戸在住の蘭医82名を糾合、その寄付を得て5月7日神田お玉ケ池に私設種痘所をひらいた。

 千代田区岩本町2丁目にお玉ケ池種痘所の標柱があります。

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  この場所は、元勘定奉行川路聖謨の屋敷でした。

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  近くには、「お玉ケ池跡」に祠があります。

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 その裏手に「お玉ケ池跡」と書かれた柱が建てられていました。かつてあった池は不忍池のような大きさだったと書かれていましたが、埋められたようです。

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  この周囲には、他にも儒学者蘭学者の塾や剣術家などの道場がありました。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

伊東玄朴は貧農の子として生まれたが、優れた頭脳とたゆまざる努力によって江戸屈指のオランダ医家となり、さらに奥医師最高の地位である法院の座にもついた。種痘を江戸に広め、種痘所を開くなど医家としての業績は著しい。が、金銭に対する執着が強く、その証跡が各種の資料に散見している。私は、そこに玄朴の人間らしさを感じとった。

土生玄碩 

玄碩の家は、代々眼科医の業をつぎ、先祖には徳川将軍家の侍医となり法眼の地位にのぼった医家もいる吉田の町の名家であった。・・・

善太という顔見知りの馬医者がしゃがんでいた。「善太、この馬のどこが悪いのだ」「眼でございます」「この馬の眼に膿が溜まっておりまして」「それをお前が治療するというのかい」「へぇ」善太は顔を赤らめると首筋をかいた」眼科を専門とする玄碩に、かれは気恥ずかしさを感じたのだ。

善太は、馬挽きに命じて頭部を抑えさせた。そして、その片方の眼の瞼をおさえて、鍼をその角膜に突き立てた。・・・善太は、鍼の先端で角膜に小さな孔をつくり、病んだ部分の膿をはじき出した。・・・「これで馬の眼は治るのか?」かれは呆れたようにたずねた。

かれは、その後、善太をたずねると鍼の扱い方を教わり、その治療の実際を見学して、その方法を使って、眼に膿のたまった人の眼の治療を行い、好結果を得た。当時西洋で開発され実施されていた手術法と同一のものであった。

玄碩は特異な性格の持主で、日頃から自分には天与の才があると高言してはばからなかった。・・・

かれは無卿を持て余して酒や女に耽溺し、毎日重都という盲人の音曲師のもとに通って三味線を教わっていた。・・・

自分は名医を自任し、遊蕩にふけってきた。狭い郷里で大言壮語を吐き遊興にふけっていた自分が井の中の蛙のように見えた。 

玄碩は故郷の吉田に帰り、家業を継いで眼科治療法について研究を続けた。その間、広島の蘭方医と交流を保ち、オランダ医学の研究につとめていた。享和3年、42歳の秋には、広島藩に召し出されて藩医となった。眼科医としての玄碩の知識と技倆が高く買われたのである。・・・

玄碩ははるばる江戸にくだって赤坂にあった芸州侯の中屋敷に赴き、教姫の治療にあたったところ、たちまち効果があって快癒した。この話は江戸中に広まった。・・・

江戸に出た翌年には、徳川将軍家斉の謁見を受け、奥医師を拝命した。

 文政9年、玄碩は65歳を迎えていた。長崎のオランダ商館の医官であったシーボルトが商館長の随行として将軍謁見のため江戸にきていました。

 江戸の蘭方医達は、その旅宿である長崎屋に競うようにシーボルトから西洋医学の話を熱心に聞いていました。

 玄碩はその席でシーボルトに瞳孔を開く薬の成分を聞いたが、教えてくれません。

 シーボルトは、交換条件を出します。「貴方の持つ葵の紋服が欲しい」その紋服は将軍家拝領のもので、無論外人に渡すことは固く禁じられていた。が、玄碩は治療に役立つものを得たい一心で紋服を贈り、その薬の作製法を入手するのです。

しかし、三年後、シーボルト事件が起こり、その荷のなかに青いの紋服が発見されて、玄碩は捕らえられた。

息子の玄昌も爺の職を奪われ、拝領地、住居地、私有地など家財のことごとくを没収された。玄碩とその家族は、たちまち無一文となり、深川の木場で淋しい蟄居生活を送った。

ようやくかれが家族との交流を許されたのは82歳の時であったが、掟にしたがつて医業に携わることは厳禁されていた。

土生玄碩が死亡したのは嘉永元年8月17日、行年87歳で、「自分生涯は、悔いなきものであった」という述懐が、最後の言葉であった。 

 最後の居宅となった深川に近い築地本願寺に土生玄碩の墓はあります。

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 境内の道路側の芝生に芝生に、他に比べ一際大きな暮石が立っているのですぐわかります。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

土生玄碩は、新しい手術を積極的に推し進めた眼科医で、奥医師になり多額の財を得たが、シーボルト事件に連坐し不運な死を迎えた。 

 12人の医家にはそれぞれの生き方があったが、共通して言えることは力の限界ギリギリの真剣な生き方をしていることである。時代の厳しい制約の中で、自己に忠実に生きようとした姿が、私には美しいものとして感じられる。 昭和48年冬

 休館されていた吉村昭記念文学館が5月19日から再開されました。令和2年度企画展「吉村昭 医学小説」も期間延長して開催されています。

 「雪の花」「北天の星」「破船」「花渡る海」などコロナ禍においても注目を集めた天然痘に関する作品が取り上げられています。

 今回の「日本医家伝」に収められている主人公の貴重な資料も展示されていますので、ぜひご覧ください。

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吉村昭記念文学館HPから



www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp