吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「天狗争乱」の舞台を歩く(水戸編)

尊皇攘夷」に命をかけた志士たち

 

元治元年(1864)4月13日朝、下野国都賀軍栃木の家並みは霧雨でかすんでいた。肌寒い朝であった。

町の中には、日光例幣使道と呼ばれる幅広い街道が南北に通じていて、中央に清らかな水が流れる用水堀がのびている。

道の両岸にはがっしりした構えの商家が軒を並べているが、それは日光例幣使街道の主要な宿場であるだけなく、町のかたわらを流れる巴波川の舟の発着場でもあるからであった。

 これは、吉村昭歴史小説「天狗争乱」の書き出しの部分です。いかにも、これから大きな事件が起こる前触れのような静けさが印象的です。

 朝廷では、1646年以降、伊勢神宮とともに、毎年、日光東照宮にも勅使を派遣していて、東照宮の春の大祭の初日である4月15日に日光に到着することになっていました。

 その「日光例幣使街道」がある栃木に、逆方向の北の木戸から天狗勢が入ってきたことに、町中が狼狽しました。

 水戸藩の過激な尊皇攘夷論者は、全国の畏怖の的になっていたのです。

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 巴波川の船着場は、栃木のトレードマークです。舟に人影を写していて、粋な雰囲気が伝わってきます。 


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 巴波川沿いにある「横山郷土館」。横山家は、木造の建物で麻問屋を、大谷石で造られた建物で銀行を営んでいた豪商でした。

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 筑波山で挙兵

過激な尊皇攘夷論社である藤田小四郎が、幕府の外国に対する政策に不満をいだき、水戸藩奉行田丸稲之衛門を大将にあおいで、63名の同士とともに筑波山で兵を挙げたのは、半年ほど前の3月27日であった。 

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 関東地方の梅雨明けと同時に筑波山に出かけてきました。筑波山男体山頂標高871メートル、女体山頂標高877メートルあり、頂上からは関東一円が眺望できます。

 

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 筑波山神社の隋神門(旧中禅寺仁王門)です。明治初年の神仏分離廃仏毀釈により、筑波山信仰の中禅寺は、廃絶し、筑波山神社になり、倭健命(やまとたけるのみこと)、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を祀り、随神門と呼ばれるようになりました。

 

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 筑波山神社は、男体山頂と女体山頂があるように、男女二神を祀る山として、縁結びにご利益があるようです。ということで、天狗党とはあまり関係がなさそうです。

  

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  神社に上がる階段横に藤田小四郎の銅像があります。

水戸藩で確立した尊皇攘夷思想

尊皇攘夷の思想は、藤田小四郎の祖父である藤田幽谷の門弟会沢正志斎があらわした「新論」と、小四郎の父藤田東湖の「弘道館記述義」によって確立した。

その思想は、正志斎と東湖が、水戸藩領の長くておだやかな海岸線に危機感をいだいたことによって生まれたものであった。

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 弘道館の正門です。この門柱には尊攘派(水戸藩)と市川ら門閥派(諸生派)の抗争「弘道館戦争」の際の弾痕が残されています。

 

尊皇攘夷の影響を受けていた朝廷は、幕府に攘夷決行を迫り、諸藩の尊皇攘夷論者もこれに呼応し、その中心は水戸藩尊皇攘夷派であった。その主張は急速に過激なものになっていった。

会沢正志斎の主張は、激派の言動に批判的な尊皇攘夷論を信奉する水戸藩士たちの共感を得て、これらの藩士は、激派と一線を画した。

水戸藩尊攘派は、激派と鎮派に分裂した。

家格の高い藩士たちで構成された門閥派は、尊攘派と鋭く対立していた。

このように、藩内は、門閥派と尊攘派がいがみ合い、しかも尊攘派は激派と鎮派に二分するという複雑な様相を示していた。 

 激動の幕末にあって、水戸藩には、尊攘派門閥派(諸生党)との派閥争いだけでなく、尊攘派の中にも激派と鎮派があり、特に、斉昭公が亡くなった後、水戸藩は内部分裂が激しく、血で血を洗う報復、復讐が続きました。そして、今へとつながっていきます。

 

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 正庁(せいちょう)と呼ばれる建物で弘道館の中心的な建物です。中央に扁額「游於藝」が掲げられています。

 

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 来館者控えの間(正庁諸役会所)には、ドラマによく出てくる「尊攘」の掛け軸がありました。安政3(1856年)に斉昭の命で書かれたものです。

 

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 大政奉還後、水戸に下った慶喜は静岡に移るまでの4ヶ月間を過ごしました。弘道館では企画展「渋沢栄一弘道館」の展示が行われていました。

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 田中愿蔵隊による栃木での虐殺と放火

3月27日、一行 63人は、府中の鈴の宮稲荷神社で目的遂行を祈願し、筑波山に出発した。筑波山へ着いた彼らは、大御堂で軍議を開いた。

藤田小四郎は軍議の折に、「我らの挙兵を知った幕府は、当然のことながら追討の兵を向けてくるだろう。日光の東照宮に行って攘夷の先鋒になることを祈願すれば、幕府も東照宮には兵を向けることはないはずだ」と発言した。 

東照宮に向かった藤田らは、多数の藩兵らが要所要所に大砲を据え、銃を手にした猟師らも参詣道の両側を固めているのを眼にして、占拠するのは無理だと判断した。

日光に立てこもることができなかった天狗勢は、仮根拠地を大平山とさだめ、例幣使一行との接触を避けて、14日に栃木町に姿をあらわし、その日のうちに太平山に登ったのである。  

 天狗勢は、当初日光に立てこもる計画でしたが、日光奉行小倉正義の鋭い判断と行動で遮られ、天狗勢は当初の計画を変更し、栃木の太平山に向かうことにしました。そのため日光例幣使たちとすれ違うことになったのです。

  しばらく、太平山に籠っていた天狗勢でしたが、当初の日光での立てこもりが不可能になったことから、再び筑波山に戻ることにしました。この時、事件は起こりました。  

田中隊は筑波山に向かって追わなければならなかったが、栃木で軍用金を集めてからでも間に合うと判断し、栃木に向かった。 

「ザン切り組だ!4日前に栃木を離れるさいに弓矢を放った田中隊が再び現れたことで恐怖を感じた。

田中らは土下座して迎え入れると思っていたが、怯えて横の路地や家屋に入るものがいて、不快感をつのらせた。

前方の道の中央に、下駄を履いた男が一人立っているのが見えた。男は道の端に身を寄せることもなく、放心したような眼をこちらに向けている。田中には、男が行列の進んでいるのを道の中程で立ちはだかっているように見えた。

彼は、傍を歩く隊員に、「行く手を遮る無礼者がいる。あの者を斬れ」と叫んだ。

「隊員は酒蔵の中を探し回り、うずくまっている男を見出した」「立てい」という声に立ち上がった男の左腕に、隊員の刀が振り下ろされた。

腕が土間に鈍い音を立てて落ち、悲鳴をあげて立ちすくむ男の右腕に、さらに刀が叩きつけられた。

 天狗党の田中愿蔵隊が栃木で起こした惨殺のシーンです。この残虐なシーンはショッキングでした。この事件は、民衆に天狗党の畏怖のイメージを植え付ける要因のひとつになったようです。

 

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 創業天明年間の味噌屋「油伝味噌」。建物は明治時代の土蔵他5棟が国の登録有形文化財の指定を受けている栃木を代表する建築物。

 

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 江戸時代から続く老舗人形店「三桝屋本店」

 

田中は、南北に通じる街道を南に北にと馬を走らせながら「焼き尽くせ、焼き尽くせ」と叫ぶことを繰り返した。

隊員たちは家の中にも入って火をつけ、杉皮でふいた屋根にも松明を投げ上げる。たちまち街道の両側に並ぶ家々から炎が吹き出し、物の弾ける凄まじい音が響き、街道に黒煙が充満した。

焼失家屋は四百戸にも達し、ことに田中隊の退路になった下町は一戸残らず全焼していた。

この栃木町の大半を田中愿蔵隊が焼き払った火事は、愿蔵火事と称され、それは関東一帯に広く知れ渡った。

 

f:id:mondo7:20210720150948j:image  「とちぎ蔵の街美術館」は江戸時代後期建築3棟を改修した美術館

幕府の迷走と水戸藩の悲劇

5月28日水戸藩主慶篤は、天狗勢と思想の一致した尊攘派の家老武田耕雲斎、目付山国兵部らを罷免し、それに代わって、尊攘派と激しく対立している市川三左衛門らの門閥派を要職に復帰させたのである。

市川三左衛門は執政に任命され、江戸藩邸での過激な尊攘派も一掃された。

市川らは幕府が天狗勢追討を命じたことに呼応して、水戸藩も出征すべきと主張し、慶篤も遂に同意した。

市川三左衛門を陣将に、門閥派の藩士数百名による追討軍が編成された。幕府軍3775人が江戸を出発した。 

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 小石川後楽園は、水戸徳川家水戸藩江戸上屋敷庭園の一部です版籍奉還により、上屋敷は政府に接収されます。(水道橋駅側の入口)


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 「藤田東湖護母致命の所」藤田東湖安政の大地震の際、老母を助けるため建物の下敷きになり、亡くなります。小石川後楽園の園内に石碑が残されています。


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 小石川後楽園は花菖蒲も人気の場所です。


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 昨年12月に、園内に「唐門」が復元されました。

 

市川三左衛門は城下町に潜む尊攘派25人を捕らえ、弾圧を加え始めたとの情報が入った。

同時に残した家族に危害が加わることを恐れた天狗勢は市川ら門閥派を壊滅させ、水戸城を占領することを決する。その上で兵を出して横浜を攻めることとした。 

幕府は、天狗勢を完全に壊滅させるため、若年寄田沼意尊を追討軍総括に任命した。 

尊攘派藩士は、藩主徳川慶篤の意向を無視するかのように藩政を左右していることに憤り、これら門閥派を一掃するには、慶篤が水戸に戻って藩政を司るしかないと考えた。 

しかし、慶篤は将軍家茂の補佐役で江戸から離れられないため、慶篤は、水戸藩支藩である穴土藩主頼徳を自分の名代として水戸に送り込んだ。

頼徳は、斉昭を心服し、尊皇攘夷思想を信奉していた。 

8月4日、頼徳は数百の尊攘派水戸藩士を付き従い、江戸を出発した。

謹慎させられ、新治郡穴倉村にいた武田耕雲斎尊攘派の一族郎党、土民480人を引き連れ、頼徳一行を追い、合流した。

尊攘派の農民、神官らが頼徳一行に加わり、3千人に膨らんだ。 

頼徳は、戦闘に及ぶことは夢にも思わず、食糧補給も難しいことや、戦闘になれば、尊攘派家族の身にも危害が加えられることも予想できたので、城下を離れ、那珂湊に行くことにした。那珂湊は物資の調達もでき、武器の購入にも便利だった。 

斉昭は10年前の安政元年、1854年に那珂湊に大砲鋳造の反射炉を設けていた。那珂川の川岸には大砲、小銃の訓練所の神勢館があった。

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「山上門」は、水戸藩江戸小石川邸の門で、建物で現存している唯一のものです。この門は、勅使奉迎のために作られたもので、幕末には、佐久間象山西郷隆盛など歴史的にも重要な人物が、この門から小石川邸に出入りしていたようです。昭和11年に移築されました。

 

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 「山上門」を抜けて階段を上がると 、「那珂湊反射炉」があります。

攻撃の第一目標は、強大な大砲が据えられている反射炉で、天狗勢はその方向に突き進んだ。

そこを固めている門閥派の兵の銃撃は凄まじく、白煙が流れ、また、反射炉からの砲撃も始まって、銃砲声が辺りに満ちた。

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 那珂湊反射炉は、安政2年に完成しています。年代的には、佐賀藩薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国で4番目に完成されたものです。元治元年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開されました。このため、反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊しました。 

 

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 天狗勢、水戸藩、幕府を巻き込んだ「元治甲子の乱」は、この辺りで激戦を展開しました。奥に見える川は、那珂川で左手に那珂湊があります。

穏健派の頼徳一行は、天狗党が入ることで市川らに絶好の口実を与えることで、追悼の対象になることを恐れていたが、那珂湊の戦いのみという条件をつけた武田耕雲斎の助言で頼徳は天狗党が入ることを許可した。  

市川は、頼徳一行が天狗党と同じ賊徒として、幕府の追討軍とともに討伐の対象にすべきと江戸水戸藩邸に書状を送った。 

天狗勢の拠点としていた磯浜村は陥落し、幕府軍の手中となった。9月25日、幕府追討軍総括の田沼意尊は、水戸に入り、弘道館を本営とした。 

10月5日、幕府は頼徳に切腹を申し渡した。市川は、頼徳に従ったもの、門閥派に批判的な者らも処罰し、ひとり残さず首を刎ねた。それにより、市川らが藩政を完全に掌握した。

 頼徳一行、武田勢、天狗勢に対する市川ら門閥派、幕府軍との闘いは、元治甲子の乱として水戸、那珂湊を中心に関東の各地で激戦が展開されました。

 そして、劣勢となった天狗勢らは、幕府軍らの隙を狙い、大子村に移動し、今後の戦略を練ることになりました。

10月26日、夜、大子村で軍議を開き、武田勢、天狗勢、潮来勢が同志として行動することが申し合わせられた。三木、鮎沢も加わった。

千人に上るこの集団を世に言う天狗勢と呼ばれるようになる。目的は尊皇攘夷ということで一致していた。

幕府や門閥派と戦うより、攘夷としての行動をすべきということで、武田耕雲斎は「一橋慶喜様の元へ参ろう」と発言した。 

こうして、天狗勢は慶喜を頼って、京を目指し、西に向かうのです。

 《この先は、「敦賀編」をご覧ください》

 

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悲しい報復の連鎖

 幕府の手により、敦賀の地で、天狗党353名の斬首が行われます。武田耕雲斎の孫、金次郎18歳は、死罪から減刑され、他の129名とともに遠島刑となり、鯡蔵に収容されます。

 その間、幼な子を含め武田耕雲斎ら家族の処刑が水戸赤沼の牢屋敷で行われました。

慶応4年正月、朝廷の命令で水戸に帰ることになり、武田は同志129人とともに京都に入った。

すでに、前年、朝廷は王政復古を宣言し、その年の正月には鳥羽伏見の戦いが始まっていた。

「水戸殉難志士ノ墓」がある水戸の回天神社に行きました

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 水戸市内にある回天神社は、元治甲子ノ変(天狗党ノ変)において関東各地で分拘され刑死、幽閉・獄死した殉難者の遺骸を収集し、現在の回天神社境内に合葬したのが創始です。

 「回天神社」の「回天」という名前は、大戦中に海軍が開発した人間魚雷を連想させますが、元々の由来は、藤田東湖の「回転史詩」の著名から採り、「衰えた勢いをもり返し、もとの正しさに引き戻す」の意味なのだそうです。

 

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 太平洋戦争終戦後の昭和29年、「水戸殉難志士ノ墓」として水戸市の指定文化財に指定されますが、この時、政教分離政策の影響から「勤皇」の2文字が除かれています。回天神社には371基の墓石を数えますが、敦賀で斬首された天狗勢は含まれていません。

 

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 降伏後、幕府(幕府追討軍総括田沼意尊)に捕らえられた天狗党823名は、足枷のうえ、この「鯡蔵」に幽閉され、斬首などの処罰を受けます。16棟の鯡蔵は昭和35年敦賀市の都市計画事業により解体処理が決定されることになり、水戸市民有志が天狗党にゆかりの深い建物の消亡を惜しみ、1棟を譲り受けたものです。

 

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 建物の老朽化に伴い、平成元年にこの場所に移築補修されました。館内には天狗党ゆかりの資料等が展示されています。

 

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 館内の間柱のうち、約三分の一は敦賀にあった当時の材が用いられています。

 武田らは428日に江戸に入り、521日に水戸に向かった。慶応が明治に改元されたのは、98日であった。

  吉村昭歴史小説「天狗争乱」は、この2行をもって完結します。

 

 しかし、水戸藩にとって、地獄のような様相を迎えるのは、ここからでした。

 天狗党の乱の鎮圧後、市川三左衛門ら諸生党は実権を掌握します。しかし、戊辰戦争の勃発により、形勢は逆転します。朝廷から諸生党討伐の追討令が出されるのです。

 武田金次郎ら天狗党の残党たちは、かつての報復として門閥派(諸生党)の家族をことごとく虐殺し、藩内は極度の混乱に陥ります。

 市川勢ら諸生党は、北越戦争会津戦争などの戊辰戦争に参戦します。会津が降伏すると、諸生党は水戸城奪還を企てますが、防備が固く、入城できない諸生党は、三の丸にある「弘道館」を占拠するのです。

 こうして水戸藩の改革派らと弘道館を戦場にして銃撃戦(弘道館戦争)が展開され、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失します。

 その後、水戸藩改革派は新政府軍とともに、敗走する市川ら諸生党を追撃し、下総八日市場(匝瑳市)の戦い(松山戦争)で壊滅します。

 市川三左衛門は敗走して江戸に潜伏していたところを捕らえられ、水戸の長岡原で逆さ磔の極刑に処されます。

 一方、武田金次郎は、その後、藩の権大参事を務めたものの、廃藩置県後は病に伏せ、晩年は栃木県の温泉場の風呂番をしていたと伝えられています。享年48歳。

 こうした激しい藩内抗争により、水戸藩では優秀な人材がことごとく失われ、新しく誕生した明治新政府に一人も高官を輩出することが叶わなかったと言われています。