吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

河井継之助と山本五十六を生んだ新潟県長岡のまちを訪ねて

吉村昭「戦史の証言者たち」- 山本連合艦隊司令長官の戦死-から

 吉村昭のお墓のある越後湯沢で一泊し、翌日、河井継之助山本五十六を生んだ長岡の町を探訪しました。

 吉村昭の著書で「山本五十六」を扱ったものとしては、「海軍乙事件」(文春文庫)、「戦史の証言者たち」(文春文庫)などがあります。

 「海軍乙事件」には、山本長官の護衛に当たっていた零式戦闘機操縦者 柳谷謙治氏の取材をもとに「海軍甲事件」の全容が記されています。その内容から「イ号作戦」の労をねぎらうために向かった視察計画があまりにも無防備だったことが分かります。また、山本五十六の最期の様子や長い間死亡が秘匿されていた事実も知ることができます。

 取材そのものを記録した「戦史の証言者たち」は、証言者の取材を通して、戦争に加担した「ヒト」をフォーカスすることで、戦争の実相を私たちに伝えているように思います。

 「山本五十六記念館」は、長岡駅から数分のところにあります。記念館の中央には墜落によりちぎれ破損した「長官搭乗機の左翼」が展示されています。これは、アメリカ軍のP38ライトニング16機により撃墜された山本長官ら11名が搭乗していた海軍一式陸上攻撃機の残骸で、1989年にパプアニューギニア政府の厚意により里帰りしたものです。(展示は撮影禁止のため写真はありません)

 このアメリカ軍のP38ライトニング16機の攻撃に際し、護衛していた一人が柳谷謙治氏でした。護衛していたのは僅か6機で、柳谷氏以外はその後戦死されています。

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 「山本五十六記念館」に隣接している「山本記念公園」には、山本(旧姓「高野家」跡)五十六の生家や銅像があります。

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 長岡市は、昭和20年8月1日に凄まじい大空襲を受け、市街地の8割が焼失しているので、この生家も復元されたものですが、当時の生活の雰囲気を感じることができます。

 天井の低い2階に上がると、五十六が海軍兵学校に入るために猛勉強した二畳間があります。

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長岡藩軍事総督「河井継之助」と長岡

 また、「山本五十六記念館」の近くには「河井継之助記念館」があります。何年か前に、司馬遼太郎の「峠」を読んでいたことと、役所広司松たか子さんが主演をされている映画「最後のサムライ峠」が先月公開され、観ていることもあって、興味深く見学しました。

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 長岡市が生んだ河井継之助山本五十六の共通点は、最後まで戦争に反対しながらも、戦争の旗頭に立たざるを得なかったこと、もう一つは、河井継之助を描いた映画「最後のサムライ峠」と山本五十六を描いた映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」(原作:半藤一利)の両方の映画で主人公を役所広司さんが演じていること(笑)。

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 小千谷市にある「慈眼寺」です。慶応4年(1868年)5月2日、長岡藩軍事総督河井継之助が戦争回避のため、土佐藩出身24歳の新政府軍軍監岩村精一郎との「小千谷談判」に臨んだ場所です。「会見の間」が今でも大切に保存されています。

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 小千谷談判で決裂し、止むを得ず戦いを決意した継之助が本陣を置いた「光福寺」です。摂田屋にあります。ここには最新鋭のガトリング砲と洋式武装した藩兵が配備されていました。

 長岡はこうして奥羽25藩と越後6藩で結成された「奥羽越列藩同盟」の先陣を切って、北越戊辰戦争の激戦へと運命を辿っていきます。

 圧倒的な新政府軍の兵力は越後平野を覆い尽くし、町は火の海と化し、激戦を強いられる中、河井継之助は新政府軍の銃撃により左足に重傷を負います。僅かな残兵は苦難の「八十里越」を経て会津に向かうことになります。峠を越え、逗留した只見(塩沢)では幕府侍医の松本良順から治療を受けますが、尽力も虚しく河井継之助はここで息を引き取ります。

 河井継之助の墓は、長岡駅から徒歩10分ほどの「栄涼寺」にあります。栄涼寺は長岡藩主牧野氏の菩提寺でもあり、歴代藩主の墓のほか、戊辰戦争で亡くなった藩士や太平洋戦争で命を落とした町民の慰霊碑があります。

 河井継之助の墓は、見ての通り傷だらけです。墓石に刻まれた文字も読むことができません。河井継之助記念館の職員に伺ったところ、「河井継之助の判断で新政府軍との戦争に巻き込まれ、戦禍を受けた町民にとって、河井継之助に対する思いは複雑だったのです。今回の映画を観て多くの方が記念館に足を運んでいただけて嬉しい」と胸のうちを聞かせてくれました。

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 小千谷市の船岡公園に新政府軍199人が埋葬されている西軍墓地があります。

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 小高い山の頂にある船岡公園からは小千谷市内が一望できます。この地で北越戊辰戦争の火ぶたが切られました。遠くに見える川は信濃川です。

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歴史と文化が残る摂田屋の街並み

 ここからは長岡市の観光です。越後の銘酒などが並ぶ醸造のまち「摂田屋」です。下の写真は、銘酒「吉野川」の酒ミュージアム醸造」です。

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 館内に入ると醸造の解説や試飲コーナーなどがあり、楽しめます。

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 銘酒「吉野川」の酒ミュージアム醸造」の隣には、1926(大正15)年に建築された旧機那サフラン酒本舗の「鏝(こて)絵蔵」があります。この摂田屋界隈は、北越戊辰戦争、太平洋戦争の長岡空襲でも戦禍を逃れ、貴重な歴史と景観が残されています。

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 「鏝絵蔵」には十二支などをモチーフにした圧巻の鏝絵が施されていて、技術の高さに驚かされます。この「鏝絵蔵」は、以前、太田和彦さんが新居酒屋百選という番組でも紹介していたので楽しみにしていました。

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 ここも「摂田屋」の一角。江戸時代に始まった醤油造りの「越のむらさき」の景観は、とても素晴らしいです。明治10年竣工の社屋は登録有形文化財で、長岡市の第一回都市景観賞も受けているそうです。正面に見えるお稲荷様は「竹駒稲荷」。

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 「越のむらさき」と「竹駒稲荷」の間を抜けると、モダンな空間が広がっていました。

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 全景はこんな感じです。長岡市街は共通して路面が茶色です。これは冬季に融雪のために地下水(鉄分を含んでいる)を利用して路面に流しているからという説明書きがありました。正しいでしょうか。

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 2日目は長岡市内のビジネスホテルに宿泊しました。やはり、路面が茶色いですね。翌日は寺泊、三条市見附市を観光します。

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 終わり。