吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「陸奥爆沈」を追う旅・横須賀

 昭和44年4月、吉村昭は岩国市の紹介紀行文を書くために、編集者山泉進氏と柱島に行くことにしました。

 その理由の一つに小説「戦艦武蔵」を書いていて、戦艦武蔵の訓練基地であり、最後に攻撃命令を受けて、出撃した場所も「柱島泊地」だったことから、「訪れないことに後ろめたさが潜んでいたから」と記しています。

 この柱島は、瀬戸内海の周防大島の沖にある島で、戦艦陸奥の他に戦艦大和もこの場所から出撃していて、戦艦、巡洋艦駆逐艦航空母艦など100隻以上の艦艇が勢ぞろいしていた時もあったというほど海軍にとって重要な泊地でした。

 この場所で、昭和18年6月8日正午頃、旗艦ブイに係留中の戦艦「陸奥」は、大爆発を起こして船体を分断し、瞬く間に沈没したのです。小説「陸奥爆沈」では、あらゆる角度から過去の調査を分析し、その謎に迫っています。

 吉村昭が「あとがき」で「一般の小説形式とは異なって、私自身が陸奥爆沈という対象にむかって模索する過程を描いているが・・・」と書いているように、いつの間にか、私も沈没の謎について吉村昭と一緒に追求していくような気分で読み進めていました。

                             

 今回、「陸奥爆沈」に関係する場所として、横須賀港に行ってきました。

 横須賀港は、かつて横須賀海軍工廠として戦艦陸奥を建造したところで、現在も海上自衛隊アメリカ海軍基地がある軍港として引き継がれています。

また、その対岸に横須賀港を一望できる「ヴェルニー公園」があって市民の憩いの場になっています。

「戦艦陸奥」主砲の里帰り 

 ヴェルニー公園に現在「戦艦陸奥」の主砲身が展示されています。

 戦艦陸奥は大正10年に就役し、戦艦長門とともに日本の海軍を牽引する象徴として世界にその名を轟かしていましたが、第二次世界大戦ではほとんど出番がないまま、昭和18年6月18日に柱島沖(周防大島伊保田沖)で原因不明の爆発事故を起こし沈没してしまうのです。

 総員1471名のうち死者1121名、生存者わずか350名という大惨事でした。しかし、世間に公表されることはありませんでした。遺族に知らされたのも事故から2年後のことだったようです。しかも、生存者のほとんどが最も厳しい最前線に送られてしまうのです。いかに、爆沈した事実を秘匿しておきたかったかが分かります。

 小説「陸奥爆沈」では、戦艦陸奥の爆沈の原因は何だったのか、その謎を追った記録が克明に記されています。

 戦艦陸奥は戦後、瀬戸内海の42メートルの海底から引きあげが行われ、昭和45年には艦体の一部や菊の御紋章、主砲塔、主砲身などが回収され、日本各地で展示された後、この主砲身は「船の科学館」に展示されていました。

 その後、2020東京オリンピックに伴う再開発のため移転をすることになり、平成29年3月に「戦艦陸奥」の故郷である横須賀港に里帰りしてきたのです。

 主砲は41インチ砲で、長さが約18.8メートル、重さは約102トン、主砲8門のうち4番砲塔の一門で、昭和11年に横須賀海軍工廠で行われた大改修の際に搭載されたものです。

    主砲展示の横に「ヴェルニー記念館」があります。

 ヴェルニーとは幕末に日本国内で初めて造られた近代式造船所「横須賀製鉄所」を建設したフランス人技師で、記念館はその功績を紹介するためにつくられた博物館です。

 ヴェルニー記念館に入ると、戦艦陸奥の100分の1の精巧な模型が展示されています。解説ボランティアの方がいて、丁寧に説明もしてくださいます。

    このパネルは、明治22年当時の横須賀製鉄所(造船所)を紹介したものです。

 元横須賀製鉄所の向かいにヴェルニー記念館が位置しているので、下にある位置図と照らして当時の様子を想像することができます。

 これは、横須賀製鉄所に当時据え付けられていたスチームハンマーの実物展示で、当時オランダから輸入されたものです。

蒸気の圧力で大型の鉄の加工を可能にするもので、これにより国内で艦船が造れるようになりました。

 ヴェルニー公園から海上自衛隊の艦船を見ることができます。時代は変わりましたが、横須賀港が担っている軍港としての役割は今も継承されているのがわかります。

 下の艦船は、「いかづち」という護衛艦です。

 こちらは海上自衛隊の潜水艦で「たいげい」だと思います。横須賀港にはこうした海上自衛隊の軍艦などのほか、アメリカ海軍のイージス艦や大型潜水艦なども停泊しています。

 横須賀港にはクルーズ船「 YOKOSUKA軍港めぐり」が就航していて、港湾施設内にある海上自衛隊アメリカ海軍の軍艦や潜水艦を間近で見ることができます。

 ヴェルニー公園の中央には、ヴェルニーさんの胸像があります。

 ヴェルニーさんの隣には「小栗上野介忠順」の胸像があります。

 小栗上野介忠順は、日本初の遣米使節を務め、外国奉行勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと、横須賀製鉄所(造船所)の建設を進めた方です。

 大政奉還後も、徹底抗戦を主張していたため役職を解かれ、領地の上野国田村(群馬県倉渕村)に移りますが、何の取調べもないまま、官軍により斬首されてしまいます。

私は前に童門冬二さんの小説「小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男」(集英社文庫)を読んだことがありました。

爆沈していた「戦艦三笠」

 さて、タイトルにあった「陸奥爆沈の謎」についてはまだ触れてませんでしたが、実は今も「不明」とされているのです。

 吉村昭の記録小説「陸奥爆沈」では、詳細に「査問委員会」の内容や経過、関係者による調書なども詳らかに書かれています。

 査問委員会では当初「自然発火説」を有力視していましたが、諸条件を考え合わせ実験を重ねた結果、装薬の自然発火は決してあり得ないことが確認されたということです。

ただし、常識では考えられないこととして、装薬缶の蓋が全て開けられていた時には装薬の発火により、誘爆を起こし、大爆発となることも判明したのです。

 実は、「戦艦陸奥」の爆沈以前にも、同様に停泊中に爆沈している軍艦がいくつかありました。そのうちの一つが、この「戦艦三笠」です。

 

 戦艦三笠は、日本海連合艦隊の旗艦として東郷平八郎の指揮のもと、ロシアのバルチック艦隊を殲滅し、日本側に勝利をもたらしたことは教科書で習いましたが船舶中に爆沈したことは知りませんでした。

 戦艦三笠の爆沈は、日本開戦から3ヶ月後の明治38年9月11日のことです。佐世保港に寄港していた時に爆発炎上し、その場で沈没してしまいます。やはり、この時も多数の死傷者を出しました。

 その後、査問委員会が開かれましたが、やはり解明には至りませんでした。

 原因については諸説ありますが、記録小説「陸奥爆沈」の中で、旧海軍技術少佐の福井静夫氏が「日本海戦に勝利をおさめ、浮き浮きした空気にあふれ、解放的な気分で祝酒も出されていた、その中の数人が深夜、火薬庫に酒を持ち込み宴をひらき、その時にローソクが倒れ、火薬に引火し、火薬庫が大爆発を起こした」と証言しています。

 「戦艦三笠」の爆沈についても最終的には、原因不明の事故として処理されているのです。

 

 戦艦三笠は、爆沈後、停泊していた海底が浅かったことから、引きあげて改修され、現役として第一次世界大戦にも参加します。

その後、ワシントン軍縮会議で廃艦が決まりますが、何とか解体を免れ、現在の横須賀新港にコンクリートで固定展示されることになったのです。

記念艦三笠」は横須賀新港の三笠公園に展示されています。

陸奥爆沈の謎

 話は「戦艦陸奥」に戻ります。戦艦三笠を含め乗組員の行為により、火薬庫爆発の事故を起こしているものが3件(「三笠」「磐手」「日進」)あります。他にも原因不明として2件(「松島」「河内」)あります。

 日本海軍は「戦艦陸奥」についても乗組員の行為ではないかと疑いを抱きます。そして、査問委員会は或る一人の人物を特定します。吉村昭の取材により当時技術少尉だった鈴木氏から名前が明かされます。

 特定されたQ二等兵曹は艦内で盗みをはたらいていたことから、軍法会議にかけられ処罰されることを恐れ、絶望的になり、罪状隠滅のため火薬庫に入り、火を放ったというのです。

しかし、Q二等兵曹の行方は分からず、死体も確認できないことから今も謎とされています。

下の写真は、戦艦三笠の主砲です。

戦艦陸奥爆沈に秘められた衝撃的な事実

 小説「陸奥爆沈」の「あとがき」に、ミステリーを思わせるような衝撃的な事実が語られていました。

この作品が単行本として出版された頃、瀬戸内海に沈む戦艦「陸奥」の引揚げ準備が進められていたが、間もなく実施に移された。

昭和四十五年七月二十三日、まず砲塔が二十七年ぶりに海面から姿を現わした。

その内部からは一体の遺骨と印鑑二個が発見されたが、印鑑の一個にはQ氏の姓、他の一個には姓と名が刻まれていた。

これをどのように解釈すべきか、私の判断の範囲外にある。

 戦艦陸奥の資料については、横須賀の他に「陸奥記念館」(周防大島)等にもあることがわかりましたので、日本海軍の重要拠点であった瀬戸内海の柱島泊地にも訪れてみたいと思いました。

 横須賀新港に固定展示された「記念艦三笠」から、無人島の「猿島」がよく見えます。この「猿島」は幕末から要塞の島でした。日本で初めて築かれた台場も「猿島」です。島内には今も当時の要塞の足跡が残されています。桟橋から10分ほどで上陸することができます。

 

河井継之助と山本五十六を生んだ新潟県長岡のまちを訪ねて

吉村昭「戦史の証言者たち」- 山本連合艦隊司令長官の戦死-から

 吉村昭のお墓のある越後湯沢で一泊し、翌日、河井継之助山本五十六を生んだ長岡の町を探訪しました。

 吉村昭の著書で「山本五十六」を扱ったものとしては、「海軍乙事件」(文春文庫)、「戦史の証言者たち」(文春文庫)などがあります。

 「海軍乙事件」には、山本長官の護衛に当たっていた零式戦闘機操縦者 柳谷謙治氏の取材をもとに「海軍甲事件」の全容が記されています。その内容から「イ号作戦」の労をねぎらうために向かった視察計画があまりにも無防備だったことが分かります。また、山本五十六の最期の様子や長い間死亡が秘匿されていた事実も知ることができます。

 取材そのものを記録した「戦史の証言者たち」は、証言者の取材を通して、戦争に加担した「ヒト」をフォーカスすることで、戦争の実相を私たちに伝えているように思います。

 「山本五十六記念館」は、長岡駅から数分のところにあります。記念館の中央には墜落によりちぎれ破損した「長官搭乗機の左翼」が展示されています。これは、アメリカ軍のP38ライトニング16機により撃墜された山本長官ら11名が搭乗していた海軍一式陸上攻撃機の残骸で、1989年にパプアニューギニア政府の厚意により里帰りしたものです。(展示は撮影禁止のため写真はありません)

 このアメリカ軍のP38ライトニング16機の攻撃に際し、護衛していた一人が柳谷謙治氏でした。護衛していたのは僅か6機で、柳谷氏以外はその後戦死されています。

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 「山本五十六記念館」に隣接している「山本記念公園」には、山本(旧姓「高野家」跡)五十六の生家や銅像があります。

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 長岡市は、昭和20年8月1日に凄まじい大空襲を受け、市街地の8割が焼失しているので、この生家も復元されたものですが、当時の生活の雰囲気を感じることができます。

 天井の低い2階に上がると、五十六が海軍兵学校に入るために猛勉強した二畳間があります。

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長岡藩軍事総督「河井継之助」と長岡

 また、「山本五十六記念館」の近くには「河井継之助記念館」があります。何年か前に、司馬遼太郎の「峠」を読んでいたことと、役所広司松たか子さんが主演をされている映画「最後のサムライ峠」が先月公開され、観ていることもあって、興味深く見学しました。

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 長岡市が生んだ河井継之助山本五十六の共通点は、最後まで戦争に反対しながらも、戦争の旗頭に立たざるを得なかったこと、もう一つは、河井継之助を描いた映画「最後のサムライ峠」と山本五十六を描いた映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」(原作:半藤一利)の両方の映画で主人公を役所広司さんが演じていること(笑)。

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 小千谷市にある「慈眼寺」です。慶応4年(1868年)5月2日、長岡藩軍事総督河井継之助が戦争回避のため、土佐藩出身24歳の新政府軍軍監岩村精一郎との「小千谷談判」に臨んだ場所です。「会見の間」が今でも大切に保存されています。

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 小千谷談判で決裂し、止むを得ず戦いを決意した継之助が本陣を置いた「光福寺」です。摂田屋にあります。ここには最新鋭のガトリング砲と洋式武装した藩兵が配備されていました。

 長岡はこうして奥羽25藩と越後6藩で結成された「奥羽越列藩同盟」の先陣を切って、北越戊辰戦争の激戦へと運命を辿っていきます。

 圧倒的な新政府軍の兵力は越後平野を覆い尽くし、町は火の海と化し、激戦を強いられる中、河井継之助は新政府軍の銃撃により左足に重傷を負います。僅かな残兵は苦難の「八十里越」を経て会津に向かうことになります。峠を越え、逗留した只見(塩沢)では幕府侍医の松本良順から治療を受けますが、尽力も虚しく河井継之助はここで息を引き取ります。

 河井継之助の墓は、長岡駅から徒歩10分ほどの「栄涼寺」にあります。栄涼寺は長岡藩主牧野氏の菩提寺でもあり、歴代藩主の墓のほか、戊辰戦争で亡くなった藩士や太平洋戦争で命を落とした町民の慰霊碑があります。

 河井継之助の墓は、見ての通り傷だらけです。墓石に刻まれた文字も読むことができません。河井継之助記念館の職員に伺ったところ、「河井継之助の判断で新政府軍との戦争に巻き込まれ、戦禍を受けた町民にとって、河井継之助に対する思いは複雑だったのです。今回の映画を観て多くの方が記念館に足を運んでいただけて嬉しい」と胸のうちを聞かせてくれました。

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 小千谷市の船岡公園に新政府軍199人が埋葬されている西軍墓地があります。

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 小高い山の頂にある船岡公園からは小千谷市内が一望できます。この地で北越戊辰戦争の火ぶたが切られました。遠くに見える川は信濃川です。

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歴史と文化が残る摂田屋の街並み

 ここからは長岡市の観光です。越後の銘酒などが並ぶ醸造のまち「摂田屋」です。下の写真は、銘酒「吉野川」の酒ミュージアム醸造」です。

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 館内に入ると醸造の解説や試飲コーナーなどがあり、楽しめます。

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 銘酒「吉野川」の酒ミュージアム醸造」の隣には、1926(大正15)年に建築された旧機那サフラン酒本舗の「鏝(こて)絵蔵」があります。この摂田屋界隈は、北越戊辰戦争、太平洋戦争の長岡空襲でも戦禍を逃れ、貴重な歴史と景観が残されています。

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 「鏝絵蔵」には十二支などをモチーフにした圧巻の鏝絵が施されていて、技術の高さに驚かされます。この「鏝絵蔵」は、以前、太田和彦さんが新居酒屋百選という番組でも紹介していたので楽しみにしていました。

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 ここも「摂田屋」の一角。江戸時代に始まった醤油造りの「越のむらさき」の景観は、とても素晴らしいです。明治10年竣工の社屋は登録有形文化財で、長岡市の第一回都市景観賞も受けているそうです。正面に見えるお稲荷様は「竹駒稲荷」。

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 「越のむらさき」と「竹駒稲荷」の間を抜けると、モダンな空間が広がっていました。

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 全景はこんな感じです。長岡市街は共通して路面が茶色です。これは冬季に融雪のために地下水(鉄分を含んでいる)を利用して路面に流しているからという説明書きがありました。正しいでしょうか。

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 2日目は長岡市内のビジネスホテルに宿泊しました。やはり、路面が茶色いですね。翌日は寺泊、三条市見附市を観光します。

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 終わり。

吉村昭 「わたしの普段着」・「味を追う旅」の舞台を歩く

吉村昭先生(命日7月31日)のお墓をお詣りしました

 吉村昭氏は平成18年7月31日未明に永眠されました。翌年の8月に生前に定めていた越後湯沢の墓所大野原霊苑」(湯沢町の町営墓地)に納骨されています。納骨を1年後としたのも遺言としていたからです。このことは、ご夫人の津村節子さんが吉村昭との思い出を綴った「遍路みち」(講談社文庫)に」にお書きになっています。一周忌の納骨のため骨壼を開けた瞬間、机に散った骨を無意識に口に入れる場面には胸を打たれます。

 「わたしの普段着」(新潮文庫)には、生前、吉村昭が越後湯沢に墓を建てるきっかけになった思いが綴られています、48ページの「雪国の墓」のところです。幕末にオランダ通詞をしていた堀辰之助を主人公にした歴史小説「黒船」(中央公論社)で、最愛の妻「美也」の墓に情景を重ねている記述があります。

並ぶ墓の頂きには、あたかも冠をつけたように雪がのこっている。東京で生まれ育った私には、見たこともない情景だった。爽やかな感動が胸にひろがった。美也の墓がすがすがしいものに感じられた。冬季には全く雪に埋もれている墓も春の到来とともに、雪がとけ、徐々に全身をあらわしてくる。

その時から自分の墓はぜひ雪国に、と思い、冬に雪におおわれる町の墓地に墓を建てたのだ。・・・

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自然石に自分で書いた「悠遠」という文字を彫らせただけの碑のようなもので、花立も線香立もない。

彼岸になっても雪の下に埋もれている雪国の墓はいやだ、と育子(津村節子さん)は反対したのだが、私の趣味だから、きみたちはどこでも好きな処へ墓を作れば良い、とこれも遺言にあった。(「遍路みち」)

 墓誌には戒名はありません。吉村昭の隣には「吉村節子」と朱で彫られています。

 湯沢町は、「大野原霊苑」(湯沢町の町営墓地)の入口に「作家 吉村昭氏 この大野原霊苑に眠る」という解説板を建てています。生前、吉村昭が町の人に慕われていたことがよく伝わってきます。

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作家の谷口桂子さんオススメの「しんばし」は最高でした

 お墓詣りの後、「吉村昭の人生作法」(中公新書ラクレ)という吉村昭ファンにはこの上なく嬉しい本をお書きになった作家の谷口桂子さんに情報をいただき、越後湯沢の「しんばし」というお蕎麦屋さんに行ってきました。吉村昭ご夫妻が常連だったというお店です。

 作家の谷口桂子さんは、昨年、「食と酒 吉村昭の流儀」(小学館文庫)という著書も出されていて、とても詳しいのです。プログもお書きになっているのでチェックしてみてください。

ameblo.jp

 実は、伺う前は、駅前のよくある古いお蕎麦屋さんのイメージだったのですが、来てみてビックリ。とても素敵な外観でオシャレ!。駅から少し離れていて、すでに午後2時を過ぎていたにもかかわらず、激混みという人気ぶり。

 親子2代で経営されているお店のようですが、従業員の方の応接も良く、何しろ、お蕎麦と天麩羅が最高でした。お目当てのカウンターに席を取ることができましたが、激混みだったので、残念ながら、御主人とお話しすることはできませんでした。

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 吉村昭が生前1ヶ月に1回訪れていた湯沢の町での生活ぶりは「味を追う旅」(河出文庫)の「湯沢の町の準住民」に書かれています。同じく「日本酒は花盛り」に吉村昭が好んでいた新潟県の銘酒も紹介されています。

 谷口桂子さんも著書「食と酒 吉村昭の流儀」でお書きになっているので、引用させていただきます。

同じく米どころの新潟産では、「久保田」「八海山」「白瀧」「雪中梅」「〆張鶴」をあげている。仕事場兼休養場として、越後湯沢に購入したマンションの近くの小料理屋でそれらの酒を口にした。自宅近くの吉祥寺の小料理屋で「越後鶴亀」をすすめられたが、これも新潟産で、「景虎」も愛飲していた。

越後湯沢駅吉村昭が愛飲した新潟産の銘酒をいただきました

 越後湯沢駅のショッピングモール(CoCoLo)はとても充実しています。さすが新幹線発着駅なのでそれもそのはず。特に、地酒の販売戦略はたいしたもの。店先に懐かしい風貌の昭和の某人がマスク(ここは令和)をしながら日本酒を振りかざしているのが目に入ります。

早速中に入ってみる事にしました。

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 こちらは日本酒の利き酒のできる「利酒番所」です。500円で5枚のコインと交換して、お猪口で好きなお酒が試飲できるというシステムです。つまみは「胡瓜」が100円で売られています。

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 目移りしてしまいますが、事前に吉村昭先生がご愛飲されていた銘酒を迷わずゲットすることができました。

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 最後の5枚目のコインで「景虎」をいただきました。気が焦っていたせいもあり、500円でほろ酔い気分になりました。

 果たして、吉村昭はこの場所をご存知だっただろうかと、ふと思いました。あらためて、越後湯沢は、吉村昭にとってこの上ない別荘の敵地だったに違いない。

同じフロアには、越後湯沢駅ナカ温泉「酒風呂 湯の沢」もあります。

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今回は、ここまでです。折角なので、次回は、「戦史の証言者たち」(文春文庫)の中から「山本連合艦隊司令長官の戦死」を取り上げながら、長岡市内を巡る旅をご紹介いたします。

吉村昭「白い遠景」-『私の生まれた家』から

「白い遠景」には吉村昭の作家の原点を浮き彫りにした初期の随筆がまとめられています。

その「白い遠景」の中に『私の生まれた家』というタイトルの随筆があります。

吉村昭の生家は東京の日暮里町(日暮里図書館の近く)にありましたが、空襲が激しくなった頃、その生家から少し離れた、現在の日暮里駅近くに父親が新築の家を建て、中学生だった吉村少年はその家に移り住みます。

その情景に触れた随筆の中から、今回訪ねた場所をいくつかご紹介します。

父は、谷中の墓地に近い場所に隠居所ともいうべき家を新築させていた。すでに子宮癌で病臥していた母のために作った家で、総檜作り数寄屋風の平屋であった。建坪は六十坪ほどで、庭は広く築山も作られていた

下の写真は、当時移り住んだ隠居所があった辺りです。

今は「ホテルラングウッド」になっています。駅から1分の立地で、吉村昭が日暮里を散策する際に、このホテルのレストランでサンドイッチとコーヒーの軽食を召し上がっていたそうです。

故郷で初めて講演をしたのもこの場所でした。また、平成18年に亡くなられた時の「お別れの会」もこの場所で催されています。

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「ホテルラングウッド」の近くに「禅性寺」という日蓮宗のお寺があります。

このお寺は、寛文4年(1664)に六代将軍徳川家宣の生母長昌院がここに葬られて以来、将軍家ゆかりの寺になっています。

家宣の弟松平清武がここに隠棲したため、しばしば将軍も訪れています。

また、上野戦争では彰義隊の屯所となりました。墓地には名横綱双葉山、政治家の石橋湛山の墓があります。

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禅性寺の前に、羽二重団子の老舗があります。

寺の前には、羽二重団子という老舗がノレンを垂らしている。少年時代、私は母に命じられてしばしば醤油焼きとつぶし餡の二種類の団子を買いにやらされた。主人夫婦は健在で、若主人夫婦も店にいる。変転きわまりない時代なのに、団子の味は私が少年時代に味わったものと変わらず、その店で団子を食べていると、生家の記憶が自然とよみがえってくる。姉、祖母、四兄、母、父と相ついで世を去った肉親のことが思い出され、自分が生きていることを不思議にも思ったりする。(「白い遠景」)

この羽二重団子の老舗は、夏目漱石の「我輩は猫である」にも登場してきます。また、近くに正岡子規が住んでいたことから、正岡子規の俳句でも詠まれています。

店内に入って、まず目に入るのは、正面のケースに入れられた刀剣や槍です。それらは、慶応4年の上野戦争の折に、芋坂を駆け下り、店に入り、縁の下に投げ入れたもので、百姓の野良着に変装して、日光奥羽方向に落ち延びて行ったということです。

ここにも上野戦争がありました。

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吉村昭「天狗争乱」の舞台を歩く(水戸編)

尊皇攘夷」に命をかけた志士たち

 

元治元年(1864)4月13日朝、下野国都賀軍栃木の家並みは霧雨でかすんでいた。肌寒い朝であった。

町の中には、日光例幣使道と呼ばれる幅広い街道が南北に通じていて、中央に清らかな水が流れる用水堀がのびている。

道の両岸にはがっしりした構えの商家が軒を並べているが、それは日光例幣使街道の主要な宿場であるだけなく、町のかたわらを流れる巴波川の舟の発着場でもあるからであった。

 これは、吉村昭歴史小説「天狗争乱」の書き出しの部分です。いかにも、これから大きな事件が起こる前触れのような静けさが印象的です。

 朝廷では、1646年以降、伊勢神宮とともに、毎年、日光東照宮にも勅使を派遣していて、東照宮の春の大祭の初日である4月15日に日光に到着することになっていました。

 その「日光例幣使街道」がある栃木に、逆方向の北の木戸から天狗勢が入ってきたことに、町中が狼狽しました。

 水戸藩の過激な尊皇攘夷論者は、全国の畏怖の的になっていたのです。

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 巴波川の船着場は、栃木のトレードマークです。舟に人影を写していて、粋な雰囲気が伝わってきます。 


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 巴波川沿いにある「横山郷土館」。横山家は、木造の建物で麻問屋を、大谷石で造られた建物で銀行を営んでいた豪商でした。

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 筑波山で挙兵

過激な尊皇攘夷論社である藤田小四郎が、幕府の外国に対する政策に不満をいだき、水戸藩奉行田丸稲之衛門を大将にあおいで、63名の同士とともに筑波山で兵を挙げたのは、半年ほど前の3月27日であった。 

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 関東地方の梅雨明けと同時に筑波山に出かけてきました。筑波山男体山頂標高871メートル、女体山頂標高877メートルあり、頂上からは関東一円が眺望できます。

 

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 筑波山神社の隋神門(旧中禅寺仁王門)です。明治初年の神仏分離廃仏毀釈により、筑波山信仰の中禅寺は、廃絶し、筑波山神社になり、倭健命(やまとたけるのみこと)、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を祀り、随神門と呼ばれるようになりました。

 

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 筑波山神社は、男体山頂と女体山頂があるように、男女二神を祀る山として、縁結びにご利益があるようです。ということで、天狗党とはあまり関係がなさそうです。

  

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  神社に上がる階段横に藤田小四郎の銅像があります。

水戸藩で確立した尊皇攘夷思想

尊皇攘夷の思想は、藤田小四郎の祖父である藤田幽谷の門弟会沢正志斎があらわした「新論」と、小四郎の父藤田東湖の「弘道館記述義」によって確立した。

その思想は、正志斎と東湖が、水戸藩領の長くておだやかな海岸線に危機感をいだいたことによって生まれたものであった。

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 弘道館の正門です。この門柱には尊攘派(水戸藩)と市川ら門閥派(諸生派)の抗争「弘道館戦争」の際の弾痕が残されています。

 

尊皇攘夷の影響を受けていた朝廷は、幕府に攘夷決行を迫り、諸藩の尊皇攘夷論者もこれに呼応し、その中心は水戸藩尊皇攘夷派であった。その主張は急速に過激なものになっていった。

会沢正志斎の主張は、激派の言動に批判的な尊皇攘夷論を信奉する水戸藩士たちの共感を得て、これらの藩士は、激派と一線を画した。

水戸藩尊攘派は、激派と鎮派に分裂した。

家格の高い藩士たちで構成された門閥派は、尊攘派と鋭く対立していた。

このように、藩内は、門閥派と尊攘派がいがみ合い、しかも尊攘派は激派と鎮派に二分するという複雑な様相を示していた。 

 激動の幕末にあって、水戸藩には、尊攘派門閥派(諸生党)との派閥争いだけでなく、尊攘派の中にも激派と鎮派があり、特に、斉昭公が亡くなった後、水戸藩は内部分裂が激しく、血で血を洗う報復、復讐が続きました。そして、今へとつながっていきます。

 

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 正庁(せいちょう)と呼ばれる建物で弘道館の中心的な建物です。中央に扁額「游於藝」が掲げられています。

 

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 来館者控えの間(正庁諸役会所)には、ドラマによく出てくる「尊攘」の掛け軸がありました。安政3(1856年)に斉昭の命で書かれたものです。

 

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 大政奉還後、水戸に下った慶喜は静岡に移るまでの4ヶ月間を過ごしました。弘道館では企画展「渋沢栄一弘道館」の展示が行われていました。

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 田中愿蔵隊による栃木での虐殺と放火

3月27日、一行 63人は、府中の鈴の宮稲荷神社で目的遂行を祈願し、筑波山に出発した。筑波山へ着いた彼らは、大御堂で軍議を開いた。

藤田小四郎は軍議の折に、「我らの挙兵を知った幕府は、当然のことながら追討の兵を向けてくるだろう。日光の東照宮に行って攘夷の先鋒になることを祈願すれば、幕府も東照宮には兵を向けることはないはずだ」と発言した。 

東照宮に向かった藤田らは、多数の藩兵らが要所要所に大砲を据え、銃を手にした猟師らも参詣道の両側を固めているのを眼にして、占拠するのは無理だと判断した。

日光に立てこもることができなかった天狗勢は、仮根拠地を大平山とさだめ、例幣使一行との接触を避けて、14日に栃木町に姿をあらわし、その日のうちに太平山に登ったのである。  

 天狗勢は、当初日光に立てこもる計画でしたが、日光奉行小倉正義の鋭い判断と行動で遮られ、天狗勢は当初の計画を変更し、栃木の太平山に向かうことにしました。そのため日光例幣使たちとすれ違うことになったのです。

  しばらく、太平山に籠っていた天狗勢でしたが、当初の日光での立てこもりが不可能になったことから、再び筑波山に戻ることにしました。この時、事件は起こりました。  

田中隊は筑波山に向かって追わなければならなかったが、栃木で軍用金を集めてからでも間に合うと判断し、栃木に向かった。 

「ザン切り組だ!4日前に栃木を離れるさいに弓矢を放った田中隊が再び現れたことで恐怖を感じた。

田中らは土下座して迎え入れると思っていたが、怯えて横の路地や家屋に入るものがいて、不快感をつのらせた。

前方の道の中央に、下駄を履いた男が一人立っているのが見えた。男は道の端に身を寄せることもなく、放心したような眼をこちらに向けている。田中には、男が行列の進んでいるのを道の中程で立ちはだかっているように見えた。

彼は、傍を歩く隊員に、「行く手を遮る無礼者がいる。あの者を斬れ」と叫んだ。

「隊員は酒蔵の中を探し回り、うずくまっている男を見出した」「立てい」という声に立ち上がった男の左腕に、隊員の刀が振り下ろされた。

腕が土間に鈍い音を立てて落ち、悲鳴をあげて立ちすくむ男の右腕に、さらに刀が叩きつけられた。

 天狗党の田中愿蔵隊が栃木で起こした惨殺のシーンです。この残虐なシーンはショッキングでした。この事件は、民衆に天狗党の畏怖のイメージを植え付ける要因のひとつになったようです。

 

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 創業天明年間の味噌屋「油伝味噌」。建物は明治時代の土蔵他5棟が国の登録有形文化財の指定を受けている栃木を代表する建築物。

 

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 江戸時代から続く老舗人形店「三桝屋本店」

 

田中は、南北に通じる街道を南に北にと馬を走らせながら「焼き尽くせ、焼き尽くせ」と叫ぶことを繰り返した。

隊員たちは家の中にも入って火をつけ、杉皮でふいた屋根にも松明を投げ上げる。たちまち街道の両側に並ぶ家々から炎が吹き出し、物の弾ける凄まじい音が響き、街道に黒煙が充満した。

焼失家屋は四百戸にも達し、ことに田中隊の退路になった下町は一戸残らず全焼していた。

この栃木町の大半を田中愿蔵隊が焼き払った火事は、愿蔵火事と称され、それは関東一帯に広く知れ渡った。

 

f:id:mondo7:20210720150948j:image  「とちぎ蔵の街美術館」は江戸時代後期建築3棟を改修した美術館

幕府の迷走と水戸藩の悲劇

5月28日水戸藩主慶篤は、天狗勢と思想の一致した尊攘派の家老武田耕雲斎、目付山国兵部らを罷免し、それに代わって、尊攘派と激しく対立している市川三左衛門らの門閥派を要職に復帰させたのである。

市川三左衛門は執政に任命され、江戸藩邸での過激な尊攘派も一掃された。

市川らは幕府が天狗勢追討を命じたことに呼応して、水戸藩も出征すべきと主張し、慶篤も遂に同意した。

市川三左衛門を陣将に、門閥派の藩士数百名による追討軍が編成された。幕府軍3775人が江戸を出発した。 

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 小石川後楽園は、水戸徳川家水戸藩江戸上屋敷庭園の一部です版籍奉還により、上屋敷は政府に接収されます。(水道橋駅側の入口)


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 「藤田東湖護母致命の所」藤田東湖安政の大地震の際、老母を助けるため建物の下敷きになり、亡くなります。小石川後楽園の園内に石碑が残されています。


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 小石川後楽園は花菖蒲も人気の場所です。


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 昨年12月に、園内に「唐門」が復元されました。

 

市川三左衛門は城下町に潜む尊攘派25人を捕らえ、弾圧を加え始めたとの情報が入った。

同時に残した家族に危害が加わることを恐れた天狗勢は市川ら門閥派を壊滅させ、水戸城を占領することを決する。その上で兵を出して横浜を攻めることとした。 

幕府は、天狗勢を完全に壊滅させるため、若年寄田沼意尊を追討軍総括に任命した。 

尊攘派藩士は、藩主徳川慶篤の意向を無視するかのように藩政を左右していることに憤り、これら門閥派を一掃するには、慶篤が水戸に戻って藩政を司るしかないと考えた。 

しかし、慶篤は将軍家茂の補佐役で江戸から離れられないため、慶篤は、水戸藩支藩である穴土藩主頼徳を自分の名代として水戸に送り込んだ。

頼徳は、斉昭を心服し、尊皇攘夷思想を信奉していた。 

8月4日、頼徳は数百の尊攘派水戸藩士を付き従い、江戸を出発した。

謹慎させられ、新治郡穴倉村にいた武田耕雲斎尊攘派の一族郎党、土民480人を引き連れ、頼徳一行を追い、合流した。

尊攘派の農民、神官らが頼徳一行に加わり、3千人に膨らんだ。 

頼徳は、戦闘に及ぶことは夢にも思わず、食糧補給も難しいことや、戦闘になれば、尊攘派家族の身にも危害が加えられることも予想できたので、城下を離れ、那珂湊に行くことにした。那珂湊は物資の調達もでき、武器の購入にも便利だった。 

斉昭は10年前の安政元年、1854年に那珂湊に大砲鋳造の反射炉を設けていた。那珂川の川岸には大砲、小銃の訓練所の神勢館があった。

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「山上門」は、水戸藩江戸小石川邸の門で、建物で現存している唯一のものです。この門は、勅使奉迎のために作られたもので、幕末には、佐久間象山西郷隆盛など歴史的にも重要な人物が、この門から小石川邸に出入りしていたようです。昭和11年に移築されました。

 

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 「山上門」を抜けて階段を上がると 、「那珂湊反射炉」があります。

攻撃の第一目標は、強大な大砲が据えられている反射炉で、天狗勢はその方向に突き進んだ。

そこを固めている門閥派の兵の銃撃は凄まじく、白煙が流れ、また、反射炉からの砲撃も始まって、銃砲声が辺りに満ちた。

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 那珂湊反射炉は、安政2年に完成しています。年代的には、佐賀藩薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国で4番目に完成されたものです。元治元年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開されました。このため、反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊しました。 

 

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 天狗勢、水戸藩、幕府を巻き込んだ「元治甲子の乱」は、この辺りで激戦を展開しました。奥に見える川は、那珂川で左手に那珂湊があります。

穏健派の頼徳一行は、天狗党が入ることで市川らに絶好の口実を与えることで、追悼の対象になることを恐れていたが、那珂湊の戦いのみという条件をつけた武田耕雲斎の助言で頼徳は天狗党が入ることを許可した。  

市川は、頼徳一行が天狗党と同じ賊徒として、幕府の追討軍とともに討伐の対象にすべきと江戸水戸藩邸に書状を送った。 

天狗勢の拠点としていた磯浜村は陥落し、幕府軍の手中となった。9月25日、幕府追討軍総括の田沼意尊は、水戸に入り、弘道館を本営とした。 

10月5日、幕府は頼徳に切腹を申し渡した。市川は、頼徳に従ったもの、門閥派に批判的な者らも処罰し、ひとり残さず首を刎ねた。それにより、市川らが藩政を完全に掌握した。

 頼徳一行、武田勢、天狗勢に対する市川ら門閥派、幕府軍との闘いは、元治甲子の乱として水戸、那珂湊を中心に関東の各地で激戦が展開されました。

 そして、劣勢となった天狗勢らは、幕府軍らの隙を狙い、大子村に移動し、今後の戦略を練ることになりました。

10月26日、夜、大子村で軍議を開き、武田勢、天狗勢、潮来勢が同志として行動することが申し合わせられた。三木、鮎沢も加わった。

千人に上るこの集団を世に言う天狗勢と呼ばれるようになる。目的は尊皇攘夷ということで一致していた。

幕府や門閥派と戦うより、攘夷としての行動をすべきということで、武田耕雲斎は「一橋慶喜様の元へ参ろう」と発言した。 

こうして、天狗勢は慶喜を頼って、京を目指し、西に向かうのです。

 《この先は、「敦賀編」をご覧ください》

 

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悲しい報復の連鎖

 幕府の手により、敦賀の地で、天狗党353名の斬首が行われます。武田耕雲斎の孫、金次郎18歳は、死罪から減刑され、他の129名とともに遠島刑となり、鯡蔵に収容されます。

 その間、幼な子を含め武田耕雲斎ら家族の処刑が水戸赤沼の牢屋敷で行われました。

慶応4年正月、朝廷の命令で水戸に帰ることになり、武田は同志129人とともに京都に入った。

すでに、前年、朝廷は王政復古を宣言し、その年の正月には鳥羽伏見の戦いが始まっていた。

「水戸殉難志士ノ墓」がある水戸の回天神社に行きました

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 水戸市内にある回天神社は、元治甲子ノ変(天狗党ノ変)において関東各地で分拘され刑死、幽閉・獄死した殉難者の遺骸を収集し、現在の回天神社境内に合葬したのが創始です。

 「回天神社」の「回天」という名前は、大戦中に海軍が開発した人間魚雷を連想させますが、元々の由来は、藤田東湖の「回転史詩」の著名から採り、「衰えた勢いをもり返し、もとの正しさに引き戻す」の意味なのだそうです。

 

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 太平洋戦争終戦後の昭和29年、「水戸殉難志士ノ墓」として水戸市の指定文化財に指定されますが、この時、政教分離政策の影響から「勤皇」の2文字が除かれています。回天神社には371基の墓石を数えますが、敦賀で斬首された天狗勢は含まれていません。

 

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 降伏後、幕府(幕府追討軍総括田沼意尊)に捕らえられた天狗党823名は、足枷のうえ、この「鯡蔵」に幽閉され、斬首などの処罰を受けます。16棟の鯡蔵は昭和35年敦賀市の都市計画事業により解体処理が決定されることになり、水戸市民有志が天狗党にゆかりの深い建物の消亡を惜しみ、1棟を譲り受けたものです。

 

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 建物の老朽化に伴い、平成元年にこの場所に移築補修されました。館内には天狗党ゆかりの資料等が展示されています。

 

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 館内の間柱のうち、約三分の一は敦賀にあった当時の材が用いられています。

 武田らは428日に江戸に入り、521日に水戸に向かった。慶応が明治に改元されたのは、98日であった。

  吉村昭歴史小説「天狗争乱」は、この2行をもって完結します。

 

 しかし、水戸藩にとって、地獄のような様相を迎えるのは、ここからでした。

 天狗党の乱の鎮圧後、市川三左衛門ら諸生党は実権を掌握します。しかし、戊辰戦争の勃発により、形勢は逆転します。朝廷から諸生党討伐の追討令が出されるのです。

 武田金次郎ら天狗党の残党たちは、かつての報復として門閥派(諸生党)の家族をことごとく虐殺し、藩内は極度の混乱に陥ります。

 市川勢ら諸生党は、北越戦争会津戦争などの戊辰戦争に参戦します。会津が降伏すると、諸生党は水戸城奪還を企てますが、防備が固く、入城できない諸生党は、三の丸にある「弘道館」を占拠するのです。

 こうして水戸藩の改革派らと弘道館を戦場にして銃撃戦(弘道館戦争)が展開され、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失します。

 その後、水戸藩改革派は新政府軍とともに、敗走する市川ら諸生党を追撃し、下総八日市場(匝瑳市)の戦い(松山戦争)で壊滅します。

 市川三左衛門は敗走して江戸に潜伏していたところを捕らえられ、水戸の長岡原で逆さ磔の極刑に処されます。

 一方、武田金次郎は、その後、藩の権大参事を務めたものの、廃藩置県後は病に伏せ、晩年は栃木県の温泉場の風呂番をしていたと伝えられています。享年48歳。

 こうした激しい藩内抗争により、水戸藩では優秀な人材がことごとく失われ、新しく誕生した明治新政府に一人も高官を輩出することが叶わなかったと言われています。

 

吉村昭「天狗争乱」の舞台を歩く(敦賀編)

明治を待てなかった志士たち

NHK大河ドラマ「青天を衝け」で「天狗党」が登場したこともあって、天狗党が散った敦賀では天狗党ゆかりの地に再びスポットが当てられています。

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天狗党 福井パンフレット

尊皇攘夷」を掲げて決起した水戸藩の改革派「天狗党」は、なぜ厳冬の福井敦賀の地で壮絶な最期を迎えたのか、ゆかりの地には、その志と哀しみが満ちていた!

桜田門外の変から4年-守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上がることを決意。攘夷断行を掲げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だが、慶喜に見放された彼らは越前に至って非業な最期を迎える。水戸学に発した尊皇攘夷思想の末路を活写した雄編。(「天狗争乱」巻末より)

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 天狗党敦賀への道

小説「天狗争乱」は、天狗勢本隊から離れて行動していた田中愿蔵隊による栃木町での痛ましい殺傷や町の大半を焼き払うといった残虐なシーンから始まります。

田中愿蔵が焼き払った火事は「愿蔵火事」と称され、関東一帯に知れ渡ることになります。また、栃木「蔵の街」への由縁にもつながっていきます。

その後、小説「天狗争乱」では、幕末において刻々と変化する時代の波の中で「尊皇攘夷」を掲げる天狗党水戸藩の市川三左衛門ら門閥派(諸政党)や幕府軍と壮絶な闘いを繰り広げます。

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近世史略 武田耕雲斎筑波山之図 (敦賀郷土博物館所蔵)

筑波山で決起した藤田小四郎ら天狗勢とは一線を画していた武田耕雲斎でしたが、幕府軍総崩れになったのを機に、大子村で軍議を開き、目的は尊皇攘夷ということで一致していたことから、幕府や門閥派と戦うより、攘夷としての行動をすべきということで、天狗勢は、武田耕雲斎を総大将に据え、改めて体制と厳しい規律を定め、千余名の天狗党として再出発するのです。

総大将となった武田耕雲斎は、禁裏守衛総督として京都にいた慶喜の力を借りて、朝廷に尊攘の志を訴えようと、京都を目指し、中山道を西に進みます。

 

《小説「天狗争乱」の前半部分は後日「水戸編」で紹介します。》

 

武田耕雲斎らの思いをよそに、天狗党討伐の総指揮を担っていた慶喜は、長良川の岸に大垣、彦根、桑名の軍勢により強力な陣を構え、天狗勢を待ち構えていました。

待ち受ける彦根藩は、前藩主である大老井伊直弼4年前の安政7年(1860)33日に、水戸藩尊攘派の脱藩士らによって暗殺され、藩士たちは耐え難い悲しみと憤りを抱いており、水戸藩尊攘派の天狗勢に強い報復の気持ちを持っていました。

天狗勢は、三藩との衝突を避けることや、琵琶湖付近には彦根藩の軍勢が控えていることから通行できないとし、北に向かい、越前、若狭をへて京に至る道を選ぶことにしたのです。

12月8日、天狗勢は雪の降る中、大本村を発った。深い雪の中を超え、鯖江藩領の村に着いた。

村人は暖かく迎え入れた。木ノ芽峠の山道に差し掛かった。隊員は雪が腰まで没し、進むのは苦しかった。

慶喜は、追悼の任を与えられながら戦闘を回避しようとみられては、幕府の怒りを招き、自分の立場が危うくなると考え、「容赦無く、追悼皆殺し致し候様」という指令を出した。これにより、諸藩の動揺は静まり、天狗党追悼に兵を進めた。

慶喜は幕府から疑いをかけられることを恐れ、加賀藩勢に積極的に攻撃するよう促した。

天狗勢は、新保村に至って、恐るべき大軍に取り囲まれることになった。

雪がちらつく中を陣羽織を身につけた諸将が、提灯を手にして本陣の塚谷家の門をくぐり、広間に集まった。無言でいた武田が口を開いた。

「さまざまな意見、身にしみた。長州に行くというのも一案であるが、それを果たすためには一橋家に弓を引かねばならない。主人にも等しい公に、そのようなことは断じてできぬ。それよりも投降し、すべてを公にお任せするのが我らの道である。」

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現在の敦賀市新保集落 1864(元治元)年12月、木ノ芽峠を越え、新保村(敦賀市新保)に到着した天狗党は、幕府軍に包囲され、政府幕府軍先鋒の加賀藩と対峙することになりました。

 

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 新保本陣(史跡武田耕雲斎本陣跡)   武田耕雲斎は当時問屋を営んでいた塚谷家の屋敷に本陣を置きました。敦賀市指定文化財


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規模は小さいのですが、書院造で、門、式台、下段の間、上段の間を備えています。天狗党諸将との軍議や加賀藩から派遣された使者(加賀藩軍監 永原甚七郎ら)との交渉の場として利用されました。私はこうした施設が村の努力でとても綺麗に保存されていることに感動しました。

慶喜はひたすら身の安全のみを願い、加賀藩に「英気」を振るって天狗勢を攻めよとほのめかしている。

永原たちは、慶喜の冷酷さに肌寒さを感じ、そのような慶喜に取りすがって嘆願しようと願っている天狗勢を哀れに思った。

加賀藩は総攻撃を実行に移そうとしていたが、「加賀藩に身体をお任せすることにする」という武田の書状が届けられたことで中止を決定した。 

その日、加賀藩勢の本隊から新保村の天狗勢に食糧、酒が大量に送られた。

 諸藩に分散して預けることが内定していたが、加賀藩監軍の永原甚七郎は、降伏した天狗勢を彦根藩に預ければ必ず騒動になると慶喜に進言し、永原の要求通り、天狗勢を加賀藩のみに一任し、敦賀の本勝寺、長遠寺本妙寺の三寺に移すことが認可されたのです。

12月24日、雪であった。歩行が困難となったので、天狗勢を新保村から敦賀まで籠で護送した。

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本勝寺 武田耕雲斎、藤田小四郎らをはじめ、387名が預けられた。境内には、「水戸烈士幽居之寺」と刻まれた石碑が建てられている。敦賀市元町19-21

 

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長遠寺 天狗党一行90名の浪士が身を寄せていた。敦賀市元町18-25

 

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本妙寺  耕雲斎の次男である武田魁介ら天狗党一行346名が収容された。敦賀市元町13-12

 

正月一日は快晴であった。本勝寺の客殿に武田耕雲斎らがいた。加賀藩勢からは三寺に屠蘇として酒樽が持ちこまれ、鏡餅が配られた。総勢823人であった。

四日からは足袋、煙草、ちり紙も配られ、八日からは入浴もできるようになった。隊員は加賀藩の心遣いに感謝した。 

永原は、寛大な処置になるよう働きかけるため、不破を京都に向かわせた。翌日、最も恐れていたことが現実になった。

幕府から永原に、近々、目付黒川、目付滝沢、幕府の追討軍総括の田沼意尊敦賀に行き、天狗勢の取り調べを行うので、警備を厳しくするようにという通達があった。

永原は追悼軍総督の慶喜の指揮で行動しているので、田沼の指図を受け入れることはできないと回答した。 

書面が届いた。そこには、慶喜が田沼と話し合った結果、天狗勢の身柄を田沼に引き渡すことに同意したと記されていた。

田沼からは天下の世評があるので、公平に扱わなければならない、世の人が納得するような処置をとりたいという言葉に慶喜は即座に同意したというのである。

加賀、福井、彦根、小浜の四藩に引き渡しが行われ、連れて行ったところは、船町に建てられた鰊の飼料を入れておく土蔵であった。

一人一人足かせがはめられた。戸も窓も板が打ち付けられているので、蔵の中は暗く、肥料用の鰊の強烈な異臭と、排泄物の臭いも加わって、堪え難いものがあった。布団も与えられないので、身を寄せ合った。

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鯡蔵 加賀藩による寺院への収容の後、幕府が天狗党一行823名を監禁した鯡蔵の一つ。敦賀市内に唯一残る近世期の敦賀港で使われた倉庫。水戸烈士記念館として天狗党の悲劇を現代に伝える。2020年に市指定文化財となった。2021年中に解体調査予定。敦賀市松原町2

 

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松原神社 1875(明治8)年に、武田耕雲斎ら411柱の浪士を祀るために創建された神社。境内に天狗党一行823名を監禁した鯡蔵の一つが移築された。敦賀市松原町2

 

幕府の追討軍総括田沼意は、慶喜、朝廷が助命の動きを起こすことを予想し、その日のうちに処刑を断行することを決定し、処刑は斬首として、来迎寺の境内で行なった。

幕府役人は、福井、彦根、小浜に首切り太刀取りを命じたが、福井藩は断わり、帰ってしまった。

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永覚寺 鯡蔵での過酷な環境で天狗党一行を拘束した後、幕府はこの永覚寺に法廷(仮白洲)を設置し、簡易な取り調べを行なった。353名に斬首が言い渡され、およそ470名が追放などに処された。敦賀市金ケ崎町2-31

 

幕府の追討軍総括田沼意は、短期間のうちに大量の斬首を行なった。

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武田、山国、田丸、藤田の首は桶に入れられ、塩漬けにされ、江戸を経て、水戸に送られた。

道筋は武田らが通過した中山道を逆に辿った。これは、幕府の権威を示すためであった。

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来迎寺  戦国時代には大谷吉継からの帰依を受けた寺院。この来迎寺の西側に位置する「来迎寺野」と呼ばれる場所てで、武田耕雲斎をはじめとする浪士353名が幕府によって処刑された。敦賀市松原町2-5-32

 

352人が斬首となった。このような大量斬首は全く前例がないものであった。

全員死罪との噂がでた頃、永厳寺の住職龍道は幼いものの命を救おうと15歳以下の子供を徒弟とするため引き取らせて欲しいと町奉行所に嘆願し、10人が引き取られた。 

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永厳寺(ようごんじ) 1413(応永20)年に創建。天狗党には少年たちが同行しており、この少年らの行く末を不憫に思った住職が奉行所に申し入れ、十数名を仏弟子として引き取った。敦賀市金ケ崎町15-21

 

敦賀での352人という例を見ない大量の斬首は大きな波紋となって広がった。

この斬首刑が行われたのは、一橋慶喜が天狗勢を田沼意尊にその身柄を引き渡したことによるもので、慶喜に対する非難が一斉に起こり、その側近すらも慶喜が人情にかけている、と顔をしかめていた。

天狗勢は、慶喜ならば自分たちの意思を必ず理解してくれると信じ、京をめざして長い苦難の旅を続けたが、結果的に慶喜はすげなくそれを振り払った。

慶喜は、幕府の心証を好ましいものにするため、自分に取りすがってきた天狗勢を冷たく突き放したのだ。

※処刑者等の人数は、小説と現地資料等で誤差がありますが、原文に沿って記述しています。

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武田耕雲斎等墓 松原神社の近くにある墳墓。1934(昭和9)年には、国の史跡に指定された。墳墓のすぐそばには、1978(昭和53)年につくられた武田耕雲斎銅像が立つ。墳墓の近くに、音声ガイドが置かれていて、水戸天狗党の悲劇を知ることができる。ナレーションは敦賀市出身の俳優大和田伸也。人気テレビドラマ「水戸黄門」の格さんを演じていたことも何かの縁かもしれない。敦賀市松原町2-9

 

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武田耕雲斎をはじめとした幹部24名をはじめ、幕府が下した斬首刑により敦賀で命を落とした353名の名前が墓石に刻まれている。さらに行軍中に討ち死にした21名、病死した31名の天狗党一行の名前も残っている。

 

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墳墓の周りには、水戸烈士にちなんで、水戸偕楽園から梅が献木されている。敦賀市水戸市姉妹都市にもなっている。

 

尊皇攘夷の思想を信奉する者も反対する者も、思想から離れて、釈明の機会を一切与えずに大量処刑した幕府の残虐さに、その政治体制が明らかに末期にあるのを強く感じたのである。

幕府は薩摩藩に船を敦賀に回して五島列島に護送するよう命じたが、天狗勢の大量処刑に憤りを感じていた薩摩藩は拒否を決定し、西郷隆盛が幕府に対し、「道理において、出来兼ねますので断乎お断り申す」と伝えた。

このようなこともあって、幕府は武田金次郎ら遠島刑の者の罪を免じたのである。すでに幕府の権威は失われていた。

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武田耕雲斎等墓の入口に水戸烈士追悼碑がある。松原神社と来迎寺の中間に位置し、広い駐車場もある。

 

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敦賀市立博物館 旧大和田銀行の建物を活用して設置された博物館。昭和初期の銀行建築を鑑賞でき、国際港敦賀を象徴する建造物として国の重要文化財に指定されている。天狗党に関する資料も展示されている。この博物館で「平成30年度特別展 水戸天狗党敦賀に散る」(1,000円)の図録を入手しました。とても良い資料です。

 

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敦賀市は古代から天然の良港として北陸と畿内、東海、そして大陸を結ぶ海陸交通の要所として発展してきた。江戸時代には北前船の交易拠点だった。2代目大和田荘七によって建てられたもので、その子孫には俳優大和田伸也がいる。

 

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博物館の入口には、当時の銀行のカウンターがそのままの形で保存されている。見学した日は特集展示「天狗党武田耕雲斎からの手紙〜」が行われていたので、天狗党に関する実際の資料を見ることができた。特に、NHk大河ドラマ「青天を衝く」で天狗党が描かれていることもあって、渋沢成一郎に関する資料も展示されていた。

 

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この通りは「博物館通り」と呼ばれている場所で、当時の面影を感じさせている。

 

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敦賀の酒蔵

 

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敦賀赤レンガ倉庫 赤レンガ倉庫は、 外国人技師の設計により1905年に建てられた。当時は石油貯蔵庫として使われていた。内部は広大な空間を設けられるように柱が一本もない小屋組構造なのが特徴。2015年から港と鉄道のジオラマとレストランを備えた商業施設に生まれ変わっている。

 

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 敦賀港 敦賀港は1920年代にシベリアから救出されたポーランド孤児や、1940年代にナチスドイツ等の迫害を免れ、杉浦千畝領事代理が発給した「命のビザ」を携え上陸したユダヤ難民を迎え入れた「人道の港」でもあった。近くには史実や敦賀市民との交流のエピソードを紹介する資料館が建ち並んでいる。

 

慶応4年正月、朝廷の命令で水戸に帰ることになり、武田金次郎は同志129人とともに京都に入った。

すでに、前年、朝廷は王政復古を宣言し、その年の正月には鳥羽伏見の戦いが始まっていた。

 

武田らは428日に江戸に入り、521日に水戸に向かった。

慶応が明治に改元されたのは、98日であった。

 

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吉村昭「日本医家伝」の舞台を歩く

 「日本医家伝」は、医学関係の季刊雑誌「クレアタ」に3年間連載されたものをまとめた短編集で、いずれも江戸時代中期から明治初期にかけて活躍した12人の医家の生涯が綴られています。

 取り上げられている医家は、吉村昭の長編小説にも主人公として登場している方が半数で、残りの医家は私自身初めて名前を聞くという方でした。吉村昭が選んだ12人の医家とはどんな人物か、あとがきにはこう記されています。

顕著な医学業績を残した人たちであることはもちろんだが、それ以上に人間的に強い興味をいだいた医家たちである。それらの医家たちの生き方に、現代の様々な医家との激しい類似も見出すのである。

  ここでは、12人の中から特に印象が残った前野良沢、伊東玄朴、土生玄碩について、その作品の舞台を紹介したいと思います。

 また、「日本医家伝」の「文庫本あとがき」に、吉村昭自身がそれぞれの作品に対して、作家の立場から述べているところがあったので、併せてご紹介します。

         日本医家伝 新装版(講談社文庫)

前野良沢

 最初の医家は、プログでも前回ご紹介している「冬の鷹」の主人公前野良沢です。吉村昭は、この「日本医家伝」の執筆の後、「冬の鷹」を書くことになります。

 良沢は、中津藩の藩医で、藩主奥平昌鹿の江戸中屋敷に居を構えていました。小浜藩医の杉田玄白からの誘いを受け、千住小塚原で刑死者の遺体の腑分け(解剖)に立ち会うことに。

 それがきっかけとなり、オランダ語訳の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に乗り出します。

 実際に翻訳にあたっていたのは、オランダ語の素養を持った前野良沢で、杉田玄白らは、その環境を整えることに努めていたのでした。

 下の写真は、南千住駅近くにある「回向院」です。前野良沢杉田玄白らが、刑死者の遺体の腑分け(解剖)に立ち会った場所です。

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  回向院に入ると、右側の壁面に小説「冬の鷹」の表紙にもなったレリーフと「蘭学を生んだ解体の記念に」と題された解説があります。

 日本医史学界、日本医学会、日本医師会が、杉田玄白前野良沢中川淳庵等が安永3(1774)年に解体新書5巻を作り上げた偉業を讃えたものです。

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 オランダ語訳の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として 発刊した中に訳業の指導者であった前野良沢の名前はありませんでした。

しかし、前野良沢杉田玄白と翻訳事業が終了したと同時に仲たがいしたというわけでもなかった。良沢は、「解体新書」はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけて完全なものにした後に行うべきだと考えていたのだ。

そうした良沢の気持ちに反して、玄白は刊行を急いだ。学究肌の良沢は、それについてゆく気になれず学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。

玄白は、それを素直に聞き入れ、「解体新書」の訳者は、杉田玄白ただ一人となったのである。

杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。・・・玄白は、85歳の長寿を全うし、開業医として経済的にも豊かな後半生を送った。

杉田玄白とは対照的に、前野良沢は「解体新書」刊行後もオランダ語研究に没頭し、病と称して門を閉じ交際も極力避けた。・・・生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。

良沢は、享和3年10月17日81歳で病没したが、玄白はその葬儀にもおもむかず、その日記にただひとこと、

良沢死ー と書き記しただけであった。良沢の遺体は、江戸下谷の慶安寺に葬られ、現在は杉並の高円寺に小さな墓碑が置かれている。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

前野良沢は「解体新書」の翻訳を進めた中津藩の藩医である。「解体新書」の訳者は杉田玄白とされているが、実際の訳者は良沢であることを知って、私は驚いた。歴史の真の姿を伝えるための義務を感じるとともに、良沢と玄白の対照的な生き方に興味をいだき、筆をとった。 

前野良沢については、下の「冬の鷹」で紹介しています。

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伊東玄朴

伊東玄朴は、寛政12年12月28日肥前国神埼郡仁比村に生まれた。生家は貧農で、名は勘造と言った。・・・恵まれた頭脳をもって生まれた勘造は、農耕以外に立身の道をもとめようとし医家を志したのである。・・・勘造は、郷里を去って、長崎へ出た。かれは、新しい医学であるオランダ医学を身につけて一家を成そうと決意した。

その頃、長崎はシーボルトを中心に洋楽の研究がさかんで、シーボルトの開いていた鳴滝の私塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。勘造はシーボルトの講義を末席に坐って聴講した。

 文政9年2月、シーボルトはオランダ商館長に随行して将軍の拝謁を受けるため江戸に向った。それを追うように通詞猪俣源三郎も江戸に向かい、勘造も共し、浅草の天文台役宅に入った。

翌年、勘造は故郷に帰ることになった。その折、源三郎から高橋作左衛門に依頼された日本地図をシーボルトへ渡すよう命じられたのである。

翌文政11年10月10日、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって、シーボルト事件は公けなものになった。

 勘造は、シーボルト事件の連累者として幕府の役人が探していることを知り、愕然とする。幼児から立身を夢見て飢えに堪えながらオランダ語を学び、医学を修業してきた自分の努力を無にしたくなかった。

 なんとかしてこの災いを避けたかった。勘造は、肥前藩留守居役に「私はただの使いであったということにします」ときっぱりと言った。

勘造は、江戸本所番場町に医業を開いた。かれは、勘造という名では医家らしくないので、シーボルト事件の折に使用した伊東玄朴という名を借りて使用することにした。勘造の医学に対する熱意も藩主鍋島直正の知るところとなり、一代限りではあるが、正式に藩士伊東仁兵衛弟として伊東玄朴を名乗ることを許されたのである。

玄朴は、時勢の流れを鋭く観察していた。西洋文明は果てしなく流入し、医学はいつしかオランダ医学が主流を占めるに違いないと判断していた。

かれは禁令の発せられた年に輸入された種痘術に注目した。この天然痘予防術は効果が著しく、オランダ医学の優秀性を立証するのに最適だと思った。・・・

安政4年5月、大槻俊斎蘭医9名とはかって江戸に種痘所を設けることを計画した。翌年に許可が下りたので、玄朴は江戸在住の蘭医82名を糾合、その寄付を得て5月7日神田お玉ケ池に私設種痘所をひらいた。

 千代田区岩本町2丁目にお玉ケ池種痘所の標柱があります。

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  この場所は、元勘定奉行川路聖謨の屋敷でした。

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  近くには、「お玉ケ池跡」に祠があります。

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 その裏手に「お玉ケ池跡」と書かれた柱が建てられていました。かつてあった池は不忍池のような大きさだったと書かれていましたが、埋められたようです。

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  この周囲には、他にも儒学者蘭学者の塾や剣術家などの道場がありました。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

伊東玄朴は貧農の子として生まれたが、優れた頭脳とたゆまざる努力によって江戸屈指のオランダ医家となり、さらに奥医師最高の地位である法院の座にもついた。種痘を江戸に広め、種痘所を開くなど医家としての業績は著しい。が、金銭に対する執着が強く、その証跡が各種の資料に散見している。私は、そこに玄朴の人間らしさを感じとった。

土生玄碩 

玄碩の家は、代々眼科医の業をつぎ、先祖には徳川将軍家の侍医となり法眼の地位にのぼった医家もいる吉田の町の名家であった。・・・

善太という顔見知りの馬医者がしゃがんでいた。「善太、この馬のどこが悪いのだ」「眼でございます」「この馬の眼に膿が溜まっておりまして」「それをお前が治療するというのかい」「へぇ」善太は顔を赤らめると首筋をかいた」眼科を専門とする玄碩に、かれは気恥ずかしさを感じたのだ。

善太は、馬挽きに命じて頭部を抑えさせた。そして、その片方の眼の瞼をおさえて、鍼をその角膜に突き立てた。・・・善太は、鍼の先端で角膜に小さな孔をつくり、病んだ部分の膿をはじき出した。・・・「これで馬の眼は治るのか?」かれは呆れたようにたずねた。

かれは、その後、善太をたずねると鍼の扱い方を教わり、その治療の実際を見学して、その方法を使って、眼に膿のたまった人の眼の治療を行い、好結果を得た。当時西洋で開発され実施されていた手術法と同一のものであった。

玄碩は特異な性格の持主で、日頃から自分には天与の才があると高言してはばからなかった。・・・

かれは無卿を持て余して酒や女に耽溺し、毎日重都という盲人の音曲師のもとに通って三味線を教わっていた。・・・

自分は名医を自任し、遊蕩にふけってきた。狭い郷里で大言壮語を吐き遊興にふけっていた自分が井の中の蛙のように見えた。 

玄碩は故郷の吉田に帰り、家業を継いで眼科治療法について研究を続けた。その間、広島の蘭方医と交流を保ち、オランダ医学の研究につとめていた。享和3年、42歳の秋には、広島藩に召し出されて藩医となった。眼科医としての玄碩の知識と技倆が高く買われたのである。・・・

玄碩ははるばる江戸にくだって赤坂にあった芸州侯の中屋敷に赴き、教姫の治療にあたったところ、たちまち効果があって快癒した。この話は江戸中に広まった。・・・

江戸に出た翌年には、徳川将軍家斉の謁見を受け、奥医師を拝命した。

 文政9年、玄碩は65歳を迎えていた。長崎のオランダ商館の医官であったシーボルトが商館長の随行として将軍謁見のため江戸にきていました。

 江戸の蘭方医達は、その旅宿である長崎屋に競うようにシーボルトから西洋医学の話を熱心に聞いていました。

 玄碩はその席でシーボルトに瞳孔を開く薬の成分を聞いたが、教えてくれません。

 シーボルトは、交換条件を出します。「貴方の持つ葵の紋服が欲しい」その紋服は将軍家拝領のもので、無論外人に渡すことは固く禁じられていた。が、玄碩は治療に役立つものを得たい一心で紋服を贈り、その薬の作製法を入手するのです。

しかし、三年後、シーボルト事件が起こり、その荷のなかに青いの紋服が発見されて、玄碩は捕らえられた。

息子の玄昌も爺の職を奪われ、拝領地、住居地、私有地など家財のことごとくを没収された。玄碩とその家族は、たちまち無一文となり、深川の木場で淋しい蟄居生活を送った。

ようやくかれが家族との交流を許されたのは82歳の時であったが、掟にしたがつて医業に携わることは厳禁されていた。

土生玄碩が死亡したのは嘉永元年8月17日、行年87歳で、「自分生涯は、悔いなきものであった」という述懐が、最後の言葉であった。 

 最後の居宅となった深川に近い築地本願寺に土生玄碩の墓はあります。

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 境内の道路側の芝生に芝生に、他に比べ一際大きな暮石が立っているのですぐわかります。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

土生玄碩は、新しい手術を積極的に推し進めた眼科医で、奥医師になり多額の財を得たが、シーボルト事件に連坐し不運な死を迎えた。 

 12人の医家にはそれぞれの生き方があったが、共通して言えることは力の限界ギリギリの真剣な生き方をしていることである。時代の厳しい制約の中で、自己に忠実に生きようとした姿が、私には美しいものとして感じられる。 昭和48年冬

 休館されていた吉村昭記念文学館が5月19日から再開されました。令和2年度企画展「吉村昭 医学小説」も期間延長して開催されています。

 「雪の花」「北天の星」「破船」「花渡る海」などコロナ禍においても注目を集めた天然痘に関する作品が取り上げられています。

 今回の「日本医家伝」に収められている主人公の貴重な資料も展示されていますので、ぜひご覧ください。

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吉村昭記念文学館HPから



www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp