吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「天狗争乱」の舞台を歩く(水戸編)

尊皇攘夷」に命をかけた志士たち

 

元治元年(1864)4月13日朝、下野国都賀軍栃木の家並みは霧雨でかすんでいた。肌寒い朝であった。

町の中には、日光例幣使道と呼ばれる幅広い街道が南北に通じていて、中央に清らかな水が流れる用水堀がのびている。

道の両岸にはがっしりした構えの商家が軒を並べているが、それは日光例幣使街道の主要な宿場であるだけなく、町のかたわらを流れる巴波川の舟の発着場でもあるからであった。

 これは、吉村昭歴史小説「天狗争乱」の書き出しの部分です。いかにも、これから大きな事件が起こる前触れのような静けさが印象的です。

 朝廷では、1646年以降、伊勢神宮とともに、毎年、日光東照宮にも勅使を派遣していて、東照宮の春の大祭の初日である4月15日に日光に到着することになっていました。

 その「日光例幣使街道」がある栃木に、逆方向の北の木戸から天狗勢が入ってきたことに、町中が狼狽しました。

 水戸藩の過激な尊皇攘夷論者は、全国の畏怖の的になっていたのです。

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 巴波川の船着場は、栃木のトレードマークです。舟に人影を写していて、粋な雰囲気が伝わってきます。 


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 巴波川沿いにある「横山郷土館」。横山家は、木造の建物で麻問屋を、大谷石で造られた建物で銀行を営んでいた豪商でした。

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 筑波山で挙兵

過激な尊皇攘夷論社である藤田小四郎が、幕府の外国に対する政策に不満をいだき、水戸藩奉行田丸稲之衛門を大将にあおいで、63名の同士とともに筑波山で兵を挙げたのは、半年ほど前の3月27日であった。 

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 関東地方の梅雨明けと同時に筑波山に出かけてきました。筑波山男体山頂標高871メートル、女体山頂標高877メートルあり、頂上からは関東一円が眺望できます。

 

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 筑波山神社の隋神門(旧中禅寺仁王門)です。明治初年の神仏分離廃仏毀釈により、筑波山信仰の中禅寺は、廃絶し筑波山神社になり、倭健命(やまとたけるのみこと)、豊木入日子命(とよきいりひこのみこと)の随神像を祀り、随神門と呼ばれるようになりました。

 

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 筑波山神社は、男体山頂と女体山頂があるように、男女二神を祀る山として、縁結びにご利益があるようです。ということで、天狗党とはあまり関係がなさそうです。

  

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  神社に上がる階段横に藤田小四郎の銅像があります。

水戸藩で確立した尊皇攘夷思想

尊皇攘夷の思想は、藤田小四郎の祖父である藤田幽谷の門弟会沢正志斎があらわした「新論」と、小四郎の父藤田東湖の「弘道館記述義」によって確立した。

その思想は、正志斎と東湖が、水戸藩領の長くておだやかな海岸線に危機感をいだいたことによって生まれたものであった。

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 弘道館の正門です。この門柱には尊攘派(水戸藩)と市川ら門閥派(諸生派)の抗争「弘道館戦争」の際の弾痕が残されています。

 

尊皇攘夷の影響を受けていた朝廷は、幕府に攘夷決行を迫り、諸藩の尊皇攘夷論者もこれに呼応し、その中心は水戸藩尊皇攘夷派であった。その主張は急速に過激なものになっていった。

会沢正志斎の主張は、激派の言動に批判的な尊皇攘夷論を信奉する水戸藩士たちの共感を得て、これらの藩士は、激派と一線を画した。

水戸藩尊攘派は、激派と鎮派に分裂した。

家格の高い藩士たちで構成された門閥派は、尊攘派と鋭く対立していた。

このように、藩内は、門閥派と尊攘派がいがみ合い、しかも尊攘派は激派と鎮派に二分するという複雑な様相を示していた。 

 激動の幕末にあって、水戸藩には、尊攘派門閥派(諸生党)との派閥争いだけでなく、尊攘派の中にも激派と鎮派があり、特に、斉昭公が亡くなった後、水戸藩は内部分裂が激しく、血で血を洗う報復、復讐が続きました。そして、今へとつながっていきます。

 

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 正庁(せいちょう)と呼ばれる建物で弘道館の中心的な建物です。中央に扁額「游於藝」が掲げられています。

 

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 来館者控えの間(正庁諸役会所)には、ドラマによく出てくる「尊攘」の掛け軸がありました。安政3(1856年)に斉昭の命で書かれたものです。

 

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 大政奉還後、水戸に下った慶喜は静岡に移るまでの4ヶ月間を過ごしました。弘道館では企画展「渋沢栄一弘道館」の展示が行われていました。

mitokoumon.com

 田中愿蔵隊による栃木での虐殺と放火

3月27日、一行 63人は、府中の鈴の宮稲荷神社で目的遂行を祈願し、筑波山に出発した。筑波山へ着いた彼らは、大御堂で軍議を開いた。

藤田小四郎は軍議の折に、「我らの挙兵を知った幕府は、当然のことながら追討の兵を向けてくるだろう。日光の東照宮に行って攘夷の先鋒になることを祈願すれば、幕府も東照宮には兵を向けることはないはずだ」と発言した。 

東照宮に向かった藤田らは、多数の藩兵らが要所要所に大砲を据え、銃を手にした猟師らも参詣道の両側を固めているのを眼にして、占拠するのは無理だと判断した。

日光に立てこもることができなかった天狗勢は、仮根拠地を大平山とさだめ、例幣使一行との接触を避けて、14日に栃木町に姿をあらわし、その日のうちに太平山に登ったのである。  

 天狗勢は、当初日光に立てこもる計画でしたが、日光奉行小倉正義の鋭い判断と行動で遮られ、天狗勢は当初の計画を変更し、栃木の太平山に向かうことにしました。そのため日光例幣使たちとすれ違うことになったのです。

  しばらく、太平山に籠っていた天狗勢でしたが、当初の日光での立てこもりが不可能になったことから、再び筑波山に戻ることにしました。この時、事件は起こりました。  

田中隊は筑波山に向かって追わなければならなかったが、栃木で軍用金を集めてからでも間に合うと判断し、栃木に向かった。 

「ザン切り組だ!4日前に栃木を離れるさいに弓矢を放った田中隊が再び現れたことで恐怖を感じた。

田中らは土下座して迎え入れると思っていたが、怯えて横の路地や家屋に入るものがいて、不快感をつのらせた。

前方の道の中央に、下駄を履いた男が一人立っているのが見えた。男は道の端に身を寄せることもなく、放心したような眼をこちらに向けている。田中には、男が行列の進んでいるのを道の中程で立ちはだかっているように見えた。

彼は、傍を歩く隊員に、「行く手を遮る無礼者がいる。あの者を斬れ」と叫んだ。

「隊員は酒蔵の中を探し回り、うずくまっている男を見出した」「立てい」という声に立ち上がった男の左腕に、隊員の刀が振り下ろされた。

腕が土間に鈍い音を立てて落ち、悲鳴をあげて立ちすくむ男の右腕に、さらに刀が叩きつけられた。

 天狗党の田中愿蔵隊が栃木で起こした惨殺のシーンです。この残虐なシーンはショッキングでした。この事件は、民衆に天狗党の畏怖のイメージを植え付ける要因のひとつになったようです。

 

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 創業天明年間の味噌屋「油伝味噌」。建物は明治時代の土蔵他5棟が国の登録有形文化財の指定を受けている栃木を代表する建築物。

 

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 江戸時代から続く老舗人形店「三桝屋本店」

 

田中は、南北に通じる街道を南に北にと馬を走らせながら「焼き尽くせ、焼き尽くせ」と叫ぶことを繰り返した。

隊員たちは家の中にも入って火をつけ、杉皮でふいた屋根にも松明を投げ上げる。たちまち街道の両側に並ぶ家々から炎が吹き出し、物の弾ける凄まじい音が響き、街道に黒煙が充満した。

焼失家屋は四百戸にも達し、ことに田中隊の退路になった下町は一戸残らず全焼していた。

この栃木町の大半を田中愿蔵隊が焼き払った火事は、愿蔵火事と称され、それは関東一帯に広く知れ渡った。

 

f:id:mondo7:20210720150948j:image  「とちぎ蔵の街美術館」は江戸時代後期建築3棟を改修した美術館

幕府の迷走と水戸藩の悲劇

5月28日水戸藩主慶篤は、天狗勢と思想の一致した尊攘派の家老武田耕雲斎、目付山国兵部らを罷免し、それに代わって、尊攘派と激しく対立している市川三左衛門らの門閥派を要職に復帰させたのである。

市川三左衛門は執政に任命され、江戸藩邸での過激な尊攘派も一掃された。

市川らは幕府が天狗勢追討を命じたことに呼応して、水戸藩も出征すべきと主張し、慶篤も遂に同意した。

市川三左衛門を陣将に、門閥派の藩士数百名による追討軍が編成された。幕府軍3775人が江戸を出発した。 

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 小石川後楽園は、水戸徳川家水戸藩江戸上屋敷庭園の一部です版籍奉還により、上屋敷は政府に接収されます。(水道橋駅側の入口)


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 「藤田東湖護母致命の所」藤田東湖安政の大地震の際、老母を助けるため建物の下敷きになり、亡くなります。小石川後楽園の園内に石碑が残されています。


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 小石川後楽園は花菖蒲も人気の場所です。


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 昨年12月に、園内に「唐門」が復元されました。

 

市川三左衛門は城下町に潜む尊攘派25人を捕らえ、弾圧を加え始めたとの情報が入った。

同時に残した家族に危害が加わることを恐れた天狗勢は市川ら門閥派を壊滅させ、水戸城を占領することを決する。その上で兵を出して横浜を攻めることとした。 

幕府は、天狗勢を完全に壊滅させるため、若年寄田沼意尊を追討軍総括に任命した。 

尊攘派藩士は、藩主徳川慶篤の意向を無視するかのように藩政を左右していることに憤り、これら門閥派を一掃するには、慶篤が水戸に戻って藩政を司るしかないと考えた。 

しかし、慶篤は将軍家茂の補佐役で江戸から離れられないため、慶篤は、水戸藩支藩である穴土藩主頼徳を自分の名代として水戸に送り込んだ。

頼徳は、斉昭を心服し、尊皇攘夷思想を信奉していた。 

8月4日、頼徳は数百の尊攘派水戸藩士を付き従い、江戸を出発した。

謹慎させられ、新治郡穴倉村にいた武田耕雲斎尊攘派の一族郎党、土民480人を引き連れ、頼徳一行を追い、合流した。

尊攘派の農民、神官らが頼徳一行に加わり、3千人に膨らんだ。 

頼徳は、戦闘に及ぶことは夢にも思わず、食糧補給も難しいことや、戦闘になれば、尊攘派家族の身にも危害が加えられることも予想できたので、城下を離れ、那珂湊に行くことにした。那珂湊は物資の調達もでき、武器の購入にも便利だった。 

斉昭は10年前の安政元年、1854年に那珂湊に大砲鋳造の反射炉を設けていた。那珂川の川岸には大砲、小銃の訓練所の神勢館があった。

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「山上門」は、水戸藩江戸小石川邸の門で、建物で現存している唯一のものです。この門は、勅使奉迎のために作られたもので、幕末には、佐久間象山西郷隆盛など歴史的にも重要な人物が、この門から小石川邸に出入りしていたようです。昭和11年に移築されました。

 

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 「山上門」を抜けて階段を上がると 、「那珂湊反射炉」があります。

攻撃の第一目標は、強大な大砲が据えられている反射炉で、天狗勢はその方向に突き進んだ。

そこを固めている門閥派の兵の銃撃は凄まじく、白煙が流れ、また、反射炉からの砲撃も始まって、銃砲声が辺りに満ちた。

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 那珂湊反射炉は、安政2年に完成しています。年代的には、佐賀藩薩摩藩、幕府の伊豆韮山に次いで全国で4番目に完成されたものです。元治元年3月に起こった元治甲子の乱の影響は那珂湊にも及び、10月にはここで激戦が展開されました。このため、反射炉も水車場もその戦火のなかで焼失崩壊しました。 

 

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 天狗勢、水戸藩、幕府を巻き込んだ「元治甲子の乱」は、この辺りで激戦を展開しました。奥に見える川は、那珂川で左手に那珂湊があります。

穏健派の頼徳一行は、天狗党が入ることで市川らに絶好の口実を与えることで、追悼の対象になることを恐れていたが、那珂湊の戦いのみという条件をつけた武田耕雲斎の助言で頼徳は天狗党が入ることを許可した。  

市川は、頼徳一行が天狗党と同じ賊徒として、幕府の追討軍とともに討伐の対象にすべきと江戸水戸藩邸に書状を送った。 

天狗勢の拠点としていた磯浜村は陥落し、幕府軍の手中となった。9月25日、幕府追討軍総括の田沼意尊は、水戸に入り、弘道館を本営とした。 

10月5日、幕府は頼徳に切腹を申し渡した。市川は、頼徳に従ったもの、門閥派に批判的な者らも処罰し、ひとり残さず首を刎ねた。それにより、市川らが藩政を完全に掌握した。

 頼徳一行、武田勢、天狗勢に対する市川ら門閥派、幕府軍との闘いは、元治甲子の乱として水戸、那珂湊を中心に関東の各地で激戦が展開されました。

 そして、劣勢となった天狗勢らは、幕府軍らの隙を狙い、大子村に移動し、今後の戦略を練ることになりました。

10月26日、夜、大子村で軍議を開き、武田勢、天狗勢、潮来勢が同志として行動することが申し合わせられた。三木、鮎沢も加わった。

千人に上るこの集団を世に言う天狗勢と呼ばれるようになる。目的は尊皇攘夷ということで一致していた。

幕府や門閥派と戦うより、攘夷としての行動をすべきということで、武田耕雲斎は「一橋慶喜様の元へ参ろう」と発言した。 

こうして、天狗勢は慶喜を頼って、京を目指し、西に向かうのです。

 《この先は、「敦賀編」をご覧ください》

 

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悲しい報復の連鎖

 幕府の手により、敦賀の地で、天狗党353名の斬首が行われます。武田耕雲斎の孫、金次郎18歳は、死罪から減刑され、他の129名とともに遠島刑となり、鯡蔵に収容されます。

 その間、幼な子を含め武田耕雲斎ら家族の処刑が水戸赤沼の牢屋敷で行われました。

慶応4年正月、朝廷の命令で水戸に帰ることになり、武田は同志129人とともに京都に入った。

すでに、前年、朝廷は王政復古を宣言し、その年の正月には鳥羽伏見の戦いが始まっていた。

「水戸殉難志士ノ墓」がある水戸の回天神社に行きました

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 水戸市内にある回天神社は、元治甲子ノ変(天狗党ノ変)において関東各地で分拘され刑死、幽閉・獄死した殉難者の遺骸を収集し、現在の回天神社境内に合葬したのが創始です。

 「回天神社」の「回天」という名前は、大戦中に海軍が開発した人間魚雷を連想させますが、元々の由来は、藤田東湖の「回転史詩」の著名から採り、「衰えた勢いをもり返し、もとの正しさに引き戻す」の意味なのだそうです。

 

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 太平洋戦争終戦後の昭和29年、「水戸殉難志士ノ墓」として水戸市の指定文化財に指定されますが、この時、政教分離政策の影響から「勤皇」の2文字が除かれています。回天神社には371基の墓石を数えますが、敦賀で斬首された天狗勢は含まれていません。

 

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 降伏後、幕府(幕府追討軍総括田沼意尊)に捕らえられた天狗党823名は、足枷のうえ、この「鯡蔵」に幽閉され、斬首などの処罰を受けます。16棟の鯡蔵は昭和35年敦賀市の都市計画事業により解体処理が決定されることになり、水戸市民有志が天狗党にゆかりの深い建物の消亡を惜しみ、1棟を譲り受けたものです。

 

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 建物の老朽化に伴い、平成元年にこの場所に移築補修されました。館内には天狗党ゆかりの資料等が展示されています。

 

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 館内の間柱のうち、約三分の一は敦賀にあった当時の材が用いられています。

 武田らは428日に江戸に入り、521日に水戸に向かった。慶応が明治に改元されたのは、98日であった。

  吉村昭歴史小説「天狗争乱」は、この2行をもって完結します。

 

 しかし、水戸藩にとって、地獄のような様相を迎えるのは、ここからでした。

 天狗党の乱の鎮圧後、市川三左衛門ら諸生党は実権を掌握します。しかし、戊辰戦争の勃発により、形勢は逆転します。朝廷から諸生党討伐の追討令が出されるのです。

 武田金次郎ら天狗党の残党たちは、かつての報復として門閥派(諸生党)の家族をことごとく虐殺し、藩内は極度の混乱に陥ります。

 市川勢ら諸生党は、北越戦争会津戦争などの戊辰戦争に参戦します。会津が降伏すると、諸生党は水戸城奪還を企てますが、防備が固く、入城できない諸生党は、三の丸にある「弘道館」を占拠するのです。

 こうして水戸藩の改革派らと弘道館を戦場にして銃撃戦(弘道館戦争)が展開され、弘道館は正門、正庁、至善堂を残して焼失します。

 その後、水戸藩改革派は新政府軍とともに、敗走する市川ら諸生党を追撃し、下総八日市場(匝瑳市)の戦い(松山戦争)で壊滅します。

 市川三左衛門は敗走して江戸に潜伏していたところを捕らえられ、水戸の長岡原で逆さ磔の極刑に処されます。

 一方、武田金次郎は、その後、藩の権大参事を務めたものの、廃藩置県後は病に伏せ、晩年は栃木県の温泉場の風呂番をしていたと伝えられています。享年48歳。

 こうした激しい藩内抗争により、水戸藩では優秀な人材がことごとく失われ、新しく誕生した明治新政府に一人も高官を輩出することが叶わなかったと言われています。

 

吉村昭「天狗争乱」の舞台を歩く(敦賀編)

明治を待てなかった志士たち

NHK大河ドラマ「青天を衝け」で「天狗党」が登場したこともあって、天狗党が散った敦賀では天狗党ゆかりの地に再びスポットが当てられています。

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天狗党 福井パンフレット

尊皇攘夷」を掲げて決起した水戸藩の改革派「天狗党」は、なぜ厳冬の福井敦賀の地で壮絶な最期を迎えたのか、ゆかりの地には、その志と哀しみが満ちていた!

桜田門外の変から4年-守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上がることを決意。攘夷断行を掲げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だが、慶喜に見放された彼らは越前に至って非業な最期を迎える。水戸学に発した尊皇攘夷思想の末路を活写した雄編。(「天狗争乱」巻末より)

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 天狗党敦賀への道

小説「天狗争乱」は、天狗勢本隊から離れて行動していた田中愿蔵隊による栃木町での痛ましい殺傷や町の大半を焼き払うといった残虐なシーンから始まります。

田中愿蔵が焼き払った火事は「愿蔵火事」と称され、関東一帯に知れ渡ることになります。また、栃木「蔵の街」への由縁にもつながっていきます。

その後、小説「天狗争乱」では、幕末において刻々と変化する時代の波の中で「尊皇攘夷」を掲げる天狗党水戸藩の市川三左衛門ら門閥派(諸政党)や幕府軍と壮絶な闘いを繰り広げます。

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近世史略 武田耕雲斎筑波山之図 (敦賀郷土博物館所蔵)

筑波山で決起した藤田小四郎ら天狗勢とは一線を画していた武田耕雲斎でしたが、幕府軍総崩れになったのを機に、大子村で軍議を開き、目的は尊皇攘夷ということで一致していたことから、幕府や門閥派と戦うより、攘夷としての行動をすべきということで、天狗勢は、武田耕雲斎を総大将に据え、改めて体制と厳しい規律を定め、千余名の天狗党として再出発するのです。

総大将となった武田耕雲斎は、禁裏守衛総督として京都にいた慶喜の力を借りて、朝廷に尊攘の志を訴えようと、京都を目指し、中山道を西に進みます。

 

《小説「天狗争乱」の前半部分は後日「水戸編」で紹介します。》

 

武田耕雲斎らの思いをよそに、天狗党討伐の総指揮を担っていた慶喜は、長良川の岸に大垣、彦根、桑名の軍勢により強力な陣を構え、天狗勢を待ち構えていました。

待ち受ける彦根藩は、前藩主である大老井伊直弼4年前の安政7年(1860)33日に、水戸藩尊攘派の脱藩士らによって暗殺され、藩士たちは耐え難い悲しみと憤りを抱いており、水戸藩尊攘派の天狗勢に強い報復の気持ちを持っていました。

天狗勢は、三藩との衝突を避けることや、琵琶湖付近には彦根藩の軍勢が控えていることから通行できないとし、北に向かい、越前、若狭をへて京に至る道を選ぶことにしたのです。

12月8日、天狗勢は雪の降る中、大本村を発った。深い雪の中を超え、鯖江藩領の村に着いた。

村人は暖かく迎え入れた。木ノ芽峠の山道に差し掛かった。隊員は雪が腰まで没し、進むのは苦しかった。

慶喜は、追悼の任を与えられながら戦闘を回避しようとみられては、幕府の怒りを招き、自分の立場が危うくなると考え、「容赦無く、追悼皆殺し致し候様」という指令を出した。これにより、諸藩の動揺は静まり、天狗党追悼に兵を進めた。

慶喜は幕府から疑いをかけられることを恐れ、加賀藩勢に積極的に攻撃するよう促した。

天狗勢は、新保村に至って、恐るべき大軍に取り囲まれることになった。

雪がちらつく中を陣羽織を身につけた諸将が、提灯を手にして本陣の塚谷家の門をくぐり、広間に集まった。無言でいた武田が口を開いた。

「さまざまな意見、身にしみた。長州に行くというのも一案であるが、それを果たすためには一橋家に弓を引かねばならない。主人にも等しい公に、そのようなことは断じてできぬ。それよりも投降し、すべてを公にお任せするのが我らの道である。」

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現在の敦賀市新保集落 1864(元治元)年12月、木ノ芽峠を越え、新保村(敦賀市新保)に到着した天狗党は、幕府軍に包囲され、政府幕府軍先鋒の加賀藩と対峙することになりました。

 

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 新保本陣(史跡武田耕雲斎本陣跡)   武田耕雲斎は当時問屋を営んでいた塚谷家の屋敷に本陣を置きました。敦賀市指定文化財


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規模は小さいのですが、書院造で、門、式台、下段の間、上段の間を備えています。天狗党諸将との軍議や加賀藩から派遣された使者(加賀藩軍監 永原甚七郎ら)との交渉の場として利用されました。私はこうした施設が村の努力でとても綺麗に保存されていることに感動しました。

慶喜はひたすら身の安全のみを願い、加賀藩に「英気」を振るって天狗勢を攻めよとほのめかしている。

永原たちは、慶喜の冷酷さに肌寒さを感じ、そのような慶喜に取りすがって嘆願しようと願っている天狗勢を哀れに思った。

加賀藩は総攻撃を実行に移そうとしていたが、「加賀藩に身体をお任せすることにする」という武田の書状が届けられたことで中止を決定した。 

その日、加賀藩勢の本隊から新保村の天狗勢に食糧、酒が大量に送られた。

 諸藩に分散して預けることが内定していたが、加賀藩監軍の永原甚七郎は、降伏した天狗勢を彦根藩に預ければ必ず騒動になると慶喜に進言し、永原の要求通り、天狗勢を加賀藩のみに一任し、敦賀の本勝寺、長遠寺本妙寺の三寺に移すことが認可されたのです。

12月24日、雪であった。歩行が困難となったので、天狗勢を新保村から敦賀まで籠で護送した。

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本勝寺 武田耕雲斎、藤田小四郎らをはじめ、387名が預けられた。境内には、「水戸烈士幽居之寺」と刻まれた石碑が建てられている。敦賀市元町19-21

 

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長遠寺 天狗党一行90名の浪士が身を寄せていた。敦賀市元町18-25

 

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本妙寺  耕雲斎の次男である武田魁介ら天狗党一行346名が収容された。敦賀市元町13-12

 

正月一日は快晴であった。本勝寺の客殿に武田耕雲斎らがいた。加賀藩勢からは三寺に屠蘇として酒樽が持ちこまれ、鏡餅が配られた。総勢823人であった。

四日からは足袋、煙草、ちり紙も配られ、八日からは入浴もできるようになった。隊員は加賀藩の心遣いに感謝した。 

永原は、寛大な処置になるよう働きかけるため、不破を京都に向かわせた。翌日、最も恐れていたことが現実になった。

幕府から永原に、近々、目付黒川、目付滝沢、幕府の追討軍総括の田沼意尊敦賀に行き、天狗勢の取り調べを行うので、警備を厳しくするようにという通達があった。

永原は追悼軍総督の慶喜の指揮で行動しているので、田沼の指図を受け入れることはできないと回答した。 

書面が届いた。そこには、慶喜が田沼と話し合った結果、天狗勢の身柄を田沼に引き渡すことに同意したと記されていた。

田沼からは天下の世評があるので、公平に扱わなければならない、世の人が納得するような処置をとりたいという言葉に慶喜は即座に同意したというのである。

加賀、福井、彦根、小浜の四藩に引き渡しが行われ、連れて行ったところは、船町に建てられた鰊の飼料を入れておく土蔵であった。

一人一人足かせがはめられた。戸も窓も板が打ち付けられているので、蔵の中は暗く、肥料用の鰊の強烈な異臭と、排泄物の臭いも加わって、堪え難いものがあった。布団も与えられないので、身を寄せ合った。

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鯡蔵 加賀藩による寺院への収容の後、幕府が天狗党一行823名を監禁した鯡蔵の一つ。敦賀市内に唯一残る近世期の敦賀港で使われた倉庫。水戸烈士記念館として天狗党の悲劇を現代に伝える。2020年に市指定文化財となった。2021年中に解体調査予定。敦賀市松原町2

 

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松原神社 1875(明治8)年に、武田耕雲斎ら411柱の浪士を祀るために創建された神社。境内に天狗党一行823名を監禁した鯡蔵の一つが移築された。敦賀市松原町2

 

幕府の追討軍総括田沼意は、慶喜、朝廷が助命の動きを起こすことを予想し、その日のうちに処刑を断行することを決定し、処刑は斬首として、来迎寺の境内で行なった。

幕府役人は、福井、彦根、小浜に首切り太刀取りを命じたが、福井藩は断わり、帰ってしまった。

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永覚寺 鯡蔵での過酷な環境で天狗党一行を拘束した後、幕府はこの永覚寺に法廷(仮白洲)を設置し、簡易な取り調べを行なった。353名に斬首が言い渡され、およそ470名が追放などに処された。敦賀市金ケ崎町2-31

 

幕府の追討軍総括田沼意は、短期間のうちに大量の斬首を行なった。

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武田、山国、田丸、藤田の首は桶に入れられ、塩漬けにされ、江戸を経て、水戸に送られた。

道筋は武田らが通過した中山道を逆に辿った。これは、幕府の権威を示すためであった。

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来迎寺  戦国時代には大谷吉継からの帰依を受けた寺院。この来迎寺の西側に位置する「来迎寺野」と呼ばれる場所てで、武田耕雲斎をはじめとする浪士353名が幕府によって処刑された。敦賀市松原町2-5-32

 

352人が斬首となった。このような大量斬首は全く前例がないものであった。

全員死罪との噂がでた頃、永厳寺の住職龍道は幼いものの命を救おうと15歳以下の子供を徒弟とするため引き取らせて欲しいと町奉行所に嘆願し、10人が引き取られた。 

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永厳寺(ようごんじ) 1413(応永20)年に創建。天狗党には少年たちが同行しており、この少年らの行く末を不憫に思った住職が奉行所に申し入れ、十数名を仏弟子として引き取った。敦賀市金ケ崎町15-21

 

敦賀での352人という例を見ない大量の斬首は大きな波紋となって広がった。

この斬首刑が行われたのは、一橋慶喜が天狗勢を田沼意尊にその身柄を引き渡したことによるもので、慶喜に対する非難が一斉に起こり、その側近すらも慶喜が人情にかけている、と顔をしかめていた。

天狗勢は、慶喜ならば自分たちの意思を必ず理解してくれると信じ、京をめざして長い苦難の旅を続けたが、結果的に慶喜はすげなくそれを振り払った。

慶喜は、幕府の心証を好ましいものにするため、自分に取りすがってきた天狗勢を冷たく突き放したのだ。

※処刑者等の人数は、小説と現地資料等で誤差がありますが、原文に沿って記述しています。

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武田耕雲斎等墓 松原神社の近くにある墳墓。1934(昭和9)年には、国の史跡に指定された。墳墓のすぐそばには、1978(昭和53)年につくられた武田耕雲斎銅像が立つ。墳墓の近くに、音声ガイドが置かれていて、水戸天狗党の悲劇を知ることができる。ナレーションは敦賀市出身の俳優大和田伸也。人気テレビドラマ「水戸黄門」の格さんを演じていたことも何かの縁かもしれない。敦賀市松原町2-9

 

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武田耕雲斎をはじめとした幹部24名をはじめ、幕府が下した斬首刑により敦賀で命を落とした353名の名前が墓石に刻まれている。さらに行軍中に討ち死にした21名、病死した31名の天狗党一行の名前も残っている。

 

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墳墓の周りには、水戸烈士にちなんで、水戸偕楽園から梅が献木されている。敦賀市水戸市姉妹都市にもなっている。

 

尊皇攘夷の思想を信奉する者も反対する者も、思想から離れて、釈明の機会を一切与えずに大量処刑した幕府の残虐さに、その政治体制が明らかに末期にあるのを強く感じたのである。

幕府は薩摩藩に船を敦賀に回して五島列島に護送するよう命じたが、天狗勢の大量処刑に憤りを感じていた薩摩藩は拒否を決定し、西郷隆盛が幕府に対し、「道理において、出来兼ねますので断乎お断り申す」と伝えた。

このようなこともあって、幕府は武田金次郎ら遠島刑の者の罪を免じたのである。すでに幕府の権威は失われていた。

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武田耕雲斎等墓の入口に水戸烈士追悼碑がある。松原神社と来迎寺の中間に位置し、広い駐車場もある。

 

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敦賀市立博物館 旧大和田銀行の建物を活用して設置された博物館。昭和初期の銀行建築を鑑賞でき、国際港敦賀を象徴する建造物として国の重要文化財に指定されている。天狗党に関する資料も展示されている。この博物館で「平成30年度特別展 水戸天狗党敦賀に散る」(1,000円)の図録を入手しました。とても良い資料です。

 

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敦賀市は古代から天然の良港として北陸と畿内、東海、そして大陸を結ぶ海陸交通の要所として発展してきた。江戸時代には北前船の交易拠点だった。2代目大和田荘七によって建てられたもので、その子孫には俳優大和田伸也がいる。

 

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博物館の入口には、当時の銀行のカウンターがそのままの形で保存されている。見学した日は特集展示「天狗党武田耕雲斎からの手紙〜」が行われていたので、天狗党に関する実際の資料を見ることができた。特に、NHk大河ドラマ「青天を衝く」で天狗党が描かれていることもあって、渋沢成一郎に関する資料も展示されていた。

 

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この通りは「博物館通り」と呼ばれている場所で、当時の面影を感じさせている。

 

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敦賀の酒蔵

 

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敦賀赤レンガ倉庫 赤レンガ倉庫は、 外国人技師の設計により1905年に建てられた。当時は石油貯蔵庫として使われていた。内部は広大な空間を設けられるように柱が一本もない小屋組構造なのが特徴。2015年から港と鉄道のジオラマとレストランを備えた商業施設に生まれ変わっている。

 

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 敦賀港 敦賀港は1920年代にシベリアから救出されたポーランド孤児や、1940年代にナチスドイツ等の迫害を免れ、杉浦千畝領事代理が発給した「命のビザ」を携え上陸したユダヤ難民を迎え入れた「人道の港」でもあった。近くには史実や敦賀市民との交流のエピソードを紹介する資料館が建ち並んでいる。

 

慶応4年正月、朝廷の命令で水戸に帰ることになり、武田金次郎は同志129人とともに京都に入った。

すでに、前年、朝廷は王政復古を宣言し、その年の正月には鳥羽伏見の戦いが始まっていた。

 

武田らは428日に江戸に入り、521日に水戸に向かった。

慶応が明治に改元されたのは、98日であった。

 

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吉村昭「日本医家伝」の舞台を歩く

 「日本医家伝」は、医学関係の季刊雑誌「クレアタ」に3年間連載されたものをまとめた短編集で、いずれも江戸時代中期から明治初期にかけて活躍した12人の医家の生涯が綴られています。

 取り上げられている医家は、吉村昭の長編小説にも主人公として登場している方が半数で、残りの医家は私自身初めて名前を聞くという方でした。吉村昭が選んだ12人の医家とはどんな人物か、あとがきにはこう記されています。

顕著な医学業績を残した人たちであることはもちろんだが、それ以上に人間的に強い興味をいだいた医家たちである。それらの医家たちの生き方に、現代の様々な医家との激しい類似も見出すのである。

  ここでは、12人の中から特に印象が残った前野良沢、伊東玄朴、土生玄碩について、その作品の舞台を紹介したいと思います。

 また、「日本医家伝」の「文庫本あとがき」に、吉村昭自身がそれぞれの作品に対して、作家の立場から述べているところがあったので、併せてご紹介します。

         日本医家伝 新装版(講談社文庫)

前野良沢

 最初の医家は、プログでも前回ご紹介している「冬の鷹」の主人公前野良沢です。吉村昭は、この「日本医家伝」の執筆の後、「冬の鷹」を書くことになります。

 良沢は、中津藩の藩医で、藩主奥平昌鹿の江戸中屋敷に居を構えていました。小浜藩医の杉田玄白からの誘いを受け、千住小塚原で刑死者の遺体の腑分け(解剖)に立ち会うことに。

 それがきっかけとなり、オランダ語訳の解剖書「ターヘル・アナトミア」の翻訳に乗り出します。

 実際に翻訳にあたっていたのは、オランダ語の素養を持った前野良沢で、杉田玄白らは、その環境を整えることに努めていたのでした。

 下の写真は、南千住駅近くにある「回向院」です。前野良沢杉田玄白らが、刑死者の遺体の腑分け(解剖)に立ち会った場所です。

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  回向院に入ると、右側の壁面に小説「冬の鷹」の表紙にもなったレリーフと「蘭学を生んだ解体の記念に」と題された解説があります。

 日本医史学界、日本医学会、日本医師会が、杉田玄白前野良沢中川淳庵等が安永3(1774)年に解体新書5巻を作り上げた偉業を讃えたものです。

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 オランダ語訳の解剖書「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」として 発刊した中に訳業の指導者であった前野良沢の名前はありませんでした。

しかし、前野良沢杉田玄白と翻訳事業が終了したと同時に仲たがいしたというわけでもなかった。良沢は、「解体新書」はまだ不完全な訳書であるとし、刊行はさらに年月をかけて完全なものにした後に行うべきだと考えていたのだ。

そうした良沢の気持ちに反して、玄白は刊行を急いだ。学究肌の良沢は、それについてゆく気になれず学者としての良心から自分の名を公にすることを辞退した。

玄白は、それを素直に聞き入れ、「解体新書」の訳者は、杉田玄白ただ一人となったのである。

杉田玄白の医家としての名はとみに上がり、蘭学創始者としての尊敬を一身に集めた。・・・玄白は、85歳の長寿を全うし、開業医として経済的にも豊かな後半生を送った。

杉田玄白とは対照的に、前野良沢は「解体新書」刊行後もオランダ語研究に没頭し、病と称して門を閉じ交際も極力避けた。・・・生活も貧しく、弟子をとることも避けていた。

良沢は、享和3年10月17日81歳で病没したが、玄白はその葬儀にもおもむかず、その日記にただひとこと、

良沢死ー と書き記しただけであった。良沢の遺体は、江戸下谷の慶安寺に葬られ、現在は杉並の高円寺に小さな墓碑が置かれている。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

前野良沢は「解体新書」の翻訳を進めた中津藩の藩医である。「解体新書」の訳者は杉田玄白とされているが、実際の訳者は良沢であることを知って、私は驚いた。歴史の真の姿を伝えるための義務を感じるとともに、良沢と玄白の対照的な生き方に興味をいだき、筆をとった。 

前野良沢については、下の「冬の鷹」で紹介しています。

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伊東玄朴

伊東玄朴は、寛政12年12月28日肥前国神埼郡仁比村に生まれた。生家は貧農で、名は勘造と言った。・・・恵まれた頭脳をもって生まれた勘造は、農耕以外に立身の道をもとめようとし医家を志したのである。・・・勘造は、郷里を去って、長崎へ出た。かれは、新しい医学であるオランダ医学を身につけて一家を成そうと決意した。

その頃、長崎はシーボルトを中心に洋楽の研究がさかんで、シーボルトの開いていた鳴滝の私塾には多くの日本人学徒が集まってきていた。勘造はシーボルトの講義を末席に坐って聴講した。

 文政9年2月、シーボルトはオランダ商館長に随行して将軍の拝謁を受けるため江戸に向った。それを追うように通詞猪俣源三郎も江戸に向かい、勘造も共し、浅草の天文台役宅に入った。

翌年、勘造は故郷に帰ることになった。その折、源三郎から高橋作左衛門に依頼された日本地図をシーボルトへ渡すよう命じられたのである。

翌文政11年10月10日、浅草の天文台下に住む高橋作左衛門の捕縛によって、シーボルト事件は公けなものになった。

 勘造は、シーボルト事件の連累者として幕府の役人が探していることを知り、愕然とする。幼児から立身を夢見て飢えに堪えながらオランダ語を学び、医学を修業してきた自分の努力を無にしたくなかった。

 なんとかしてこの災いを避けたかった。勘造は、肥前藩留守居役に「私はただの使いであったということにします」ときっぱりと言った。

勘造は、江戸本所番場町に医業を開いた。かれは、勘造という名では医家らしくないので、シーボルト事件の折に使用した伊東玄朴という名を借りて使用することにした。勘造の医学に対する熱意も藩主鍋島直正の知るところとなり、一代限りではあるが、正式に藩士伊東仁兵衛弟として伊東玄朴を名乗ることを許されたのである。

玄朴は、時勢の流れを鋭く観察していた。西洋文明は果てしなく流入し、医学はいつしかオランダ医学が主流を占めるに違いないと判断していた。

かれは禁令の発せられた年に輸入された種痘術に注目した。この天然痘予防術は効果が著しく、オランダ医学の優秀性を立証するのに最適だと思った。・・・

安政4年5月、大槻俊斎蘭医9名とはかって江戸に種痘所を設けることを計画した。翌年に許可が下りたので、玄朴は江戸在住の蘭医82名を糾合、その寄付を得て5月7日神田お玉ケ池に私設種痘所をひらいた。

 千代田区岩本町2丁目にお玉ケ池種痘所の標柱があります。

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  この場所は、元勘定奉行川路聖謨の屋敷でした。

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  近くには、「お玉ケ池跡」に祠があります。

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 その裏手に「お玉ケ池跡」と書かれた柱が建てられていました。かつてあった池は不忍池のような大きさだったと書かれていましたが、埋められたようです。

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  この周囲には、他にも儒学者蘭学者の塾や剣術家などの道場がありました。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

伊東玄朴は貧農の子として生まれたが、優れた頭脳とたゆまざる努力によって江戸屈指のオランダ医家となり、さらに奥医師最高の地位である法院の座にもついた。種痘を江戸に広め、種痘所を開くなど医家としての業績は著しい。が、金銭に対する執着が強く、その証跡が各種の資料に散見している。私は、そこに玄朴の人間らしさを感じとった。

土生玄碩 

玄碩の家は、代々眼科医の業をつぎ、先祖には徳川将軍家の侍医となり法眼の地位にのぼった医家もいる吉田の町の名家であった。・・・

善太という顔見知りの馬医者がしゃがんでいた。「善太、この馬のどこが悪いのだ」「眼でございます」「この馬の眼に膿が溜まっておりまして」「それをお前が治療するというのかい」「へぇ」善太は顔を赤らめると首筋をかいた」眼科を専門とする玄碩に、かれは気恥ずかしさを感じたのだ。

善太は、馬挽きに命じて頭部を抑えさせた。そして、その片方の眼の瞼をおさえて、鍼をその角膜に突き立てた。・・・善太は、鍼の先端で角膜に小さな孔をつくり、病んだ部分の膿をはじき出した。・・・「これで馬の眼は治るのか?」かれは呆れたようにたずねた。

かれは、その後、善太をたずねると鍼の扱い方を教わり、その治療の実際を見学して、その方法を使って、眼に膿のたまった人の眼の治療を行い、好結果を得た。当時西洋で開発され実施されていた手術法と同一のものであった。

玄碩は特異な性格の持主で、日頃から自分には天与の才があると高言してはばからなかった。・・・

かれは無卿を持て余して酒や女に耽溺し、毎日重都という盲人の音曲師のもとに通って三味線を教わっていた。・・・

自分は名医を自任し、遊蕩にふけってきた。狭い郷里で大言壮語を吐き遊興にふけっていた自分が井の中の蛙のように見えた。 

玄碩は故郷の吉田に帰り、家業を継いで眼科治療法について研究を続けた。その間、広島の蘭方医と交流を保ち、オランダ医学の研究につとめていた。享和3年、42歳の秋には、広島藩に召し出されて藩医となった。眼科医としての玄碩の知識と技倆が高く買われたのである。・・・

玄碩ははるばる江戸にくだって赤坂にあった芸州侯の中屋敷に赴き、教姫の治療にあたったところ、たちまち効果があって快癒した。この話は江戸中に広まった。・・・

江戸に出た翌年には、徳川将軍家斉の謁見を受け、奥医師を拝命した。

 文政9年、玄碩は65歳を迎えていた。長崎のオランダ商館の医官であったシーボルトが商館長の随行として将軍謁見のため江戸にきていました。

 江戸の蘭方医達は、その旅宿である長崎屋に競うようにシーボルトから西洋医学の話を熱心に聞いていました。

 玄碩はその席でシーボルトに瞳孔を開く薬の成分を聞いたが、教えてくれません。

 シーボルトは、交換条件を出します。「貴方の持つ葵の紋服が欲しい」その紋服は将軍家拝領のもので、無論外人に渡すことは固く禁じられていた。が、玄碩は治療に役立つものを得たい一心で紋服を贈り、その薬の作製法を入手するのです。

しかし、三年後、シーボルト事件が起こり、その荷のなかに青いの紋服が発見されて、玄碩は捕らえられた。

息子の玄昌も爺の職を奪われ、拝領地、住居地、私有地など家財のことごとくを没収された。玄碩とその家族は、たちまち無一文となり、深川の木場で淋しい蟄居生活を送った。

ようやくかれが家族との交流を許されたのは82歳の時であったが、掟にしたがつて医業に携わることは厳禁されていた。

土生玄碩が死亡したのは嘉永元年8月17日、行年87歳で、「自分生涯は、悔いなきものであった」という述懐が、最後の言葉であった。 

 最後の居宅となった深川に近い築地本願寺に土生玄碩の墓はあります。

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 境内の道路側の芝生に芝生に、他に比べ一際大きな暮石が立っているのですぐわかります。

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「文庫本あとがき(吉村昭)から」

土生玄碩は、新しい手術を積極的に推し進めた眼科医で、奥医師になり多額の財を得たが、シーボルト事件に連坐し不運な死を迎えた。 

 12人の医家にはそれぞれの生き方があったが、共通して言えることは力の限界ギリギリの真剣な生き方をしていることである。時代の厳しい制約の中で、自己に忠実に生きようとした姿が、私には美しいものとして感じられる。 昭和48年冬

 休館されていた吉村昭記念文学館が5月19日から再開されました。令和2年度企画展「吉村昭 医学小説」も期間延長して開催されています。

 「雪の花」「北天の星」「破船」「花渡る海」などコロナ禍においても注目を集めた天然痘に関する作品が取り上げられています。

 今回の「日本医家伝」に収められている主人公の貴重な資料も展示されていますので、ぜひご覧ください。

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吉村昭記念文学館HPから



www.yoshimurabungakukan.city.arakawa.tokyo.jp

 

吉村昭「冬の鷹」の舞台を歩く

 わずかな手掛かりをもとに、ほとんど独力で訳出した「解体新書」だが、訳者前野良沢の名は記されなかった。

 出版に尽力した実務肌の相棒杉田玄白が世間の名声を博するのとは対照的に、彼は終始地道な訳業に専心、孤高の晩年を貫いて巷に窮死する。

 我が国近代医学の礎を築いた画期的偉業、「解体新書」成立の過程を克明に再現し、両者の劇的相剋を浮彫りにする感動の歴史長編。    

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江戸の町々に、春の強い風が吹き付けていた。

日本橋に通じる広い道を、中津藩医前野良沢は総髪を風になびかせながら歩いていた。

 吉村昭歴史小説「冬の鷹」 の書き出しです。

 前野良沢は、藩医として豊前中津藩中屋敷に住んでいました。現在の東京都中央区明石にある聖路加国際病院のところです。

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 当時、この場所は、築地鉄砲洲という地名で、下の絵図にある「奥平大膳大夫奥平昌服 豊前中津藩(大分)十万石」と書かれている場所にありました。

 前野良沢が仕えていた頃は、藩主奥平昌鹿侯の中屋敷でした。この地は、元々埋め立てられたところで、周りは鉄砲洲川と築地川に囲まれ、南側は隅田川に面していて、多くの船宿が軒を連ねていました。

 現在、両側の川は埋め立てられ、都会の小さなオアシス、公園になっています。

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 聖路加国際病院の先にある聖路加ガーデンは、明治初めの頃、築地居留地内の一部でアメリカ公使館があったところです。

 現在、聖路加ガーデンの前には「アメリカ公使館跡」の解説板があり、また隅田川の岸辺の歩道には当時の史跡が残されています。

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 聖路加ガーデンからは、隅田川を挟んで、向う岸の佃島や月島に建ち並ぶタワーマンションが見えます。


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 前野良沢が総髪を風になびかせながら歩いていた先は、日本橋本石町の長崎屋源右衛門の経営する宿「長崎屋」でした。

 当時、桜の蕾が膨らみ始める頃、長崎のオランダ商館長一行は、年に一回一ヶ月ほど、将軍に拝謁するため江戸に訪れていました。その期間、滞在している定宿がこの長崎屋でした。

日本橋が遠くに見えはじめた頃、良沢は足をとめた。急に気分が重くなった。面識のない西善三郎(商館長一行に随行したオランダ大通詞)を訪れることに気おくれがしてきたのだ。

かれは、幼少の頃から人と会うのが嫌いであった。・・・

ふとかれは、だれかを誘ってみようかと思った。かれは一人の人物を思い起こした。それは、以前に顔を合わせたことのある小浜藩医の杉田玄白であった。

幸い玄白は、長崎屋に近い日本橋堀留町に住んでいて医家を開業している。

 長崎屋は、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷から直線距離で約3キロほどのところにあります。前野良沢は、日本橋の「木屋」「越後屋」を通り過ぎ、路地を曲がり、杉田玄白を誘って、現在の日本橋室町3丁目の交差点付近に建つ長崎屋に向かっていたのでしょう。

 長崎屋の一本奥の通りに火の見櫓のような「時の鐘」(下の絵図の赤い鐘の目印)が建っていました。今でも、その通りを「時の鐘通り」と名付けられています。後ほど、現存する「時の鐘」も紹介します。

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 交差点の角に「長崎屋」はありました。


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 角のビル一階部分に新日本橋駅(JR東日本総武線の駅)の出入口があります。その脇に「長崎屋跡」の解説板があります。

 江戸参府の際には、商館長の他に通訳や医師なども連れ立って訪れていました。後の時代にはシーボルトも一行として滞在していました。

 オランダ商館長が江戸参府している時期に併せて、蘭学に興味を持つ蘭学者や医師たちが訪問し、先進的な外国の知識を吸収する場所になっていました。前野良沢もそのうちの一人でした。


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 絵図にあった「時の鐘」は、寛永3(1626)年に本石町3丁目に建てられて以来、日本橋周辺に時を知らせてきました。

 明治5年に本石町から日本橋小伝馬町の「十思公園」に移され保存展示されています。現在の鐘は、宝永8(1711)年に鋳造されたものです。

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 前野良沢に誘われて、ともに長崎屋に向かった杉田玄白は、親交を結んでいた平賀源内と、以前、長崎屋に訪れたことがありました。

 当時、平賀源内は和漢洋の多くの物産を一堂に集めた物産会の会主として活躍していて、西洋の知識を得ることに熱心で長崎屋に度々訪れていました。

 下の写真「平賀源内電気実験の地」は、平賀源内がエレキテルを修理して、日本人で初めて電気の実験をしたことを記念する石碑です。石碑は江東区深川にあります。

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 玄白とともに長崎屋に向かった良沢は、商館長一行に加わっていたオランダ大通詞西善三郎に面会し、オランダ語を修得する方法を尋ねることにしたのです。

 かれは、蘭書を自由に読む力をつけたいと西に言った。それは至難のわざであるに違いないが、同じ人間であるオランダ人の書きしるしたものが読めぬはずがない。かれは蘭語の研究に身を入れたいのだが、その方法を教えて欲しいと言った。

西は、良沢に眼を向けた。その顔には依然として柔和な表情がうかんでいたが、口から漏れた言葉は、「それは御無理だからおやめなさるがよい」という素気ないものであった。

 長崎屋に同行した杉田玄白は別れ際に、「オランダ語の修得は断念する」ということを口にしましたが、良沢は西の忠告を排してオランダ語の勉学の手掛かりを得たいと思い、江戸のオランダ語研究者の青木昆陽のもとに弟子入りすることにします。

 初歩的なものでしたが、青木昆陽は700語以上の単語を分類した「和蘭文字略考」という著書を著していました。しかし、1年も満たず、老齢の昆陽は病臥の身となり、オランダ語の初歩を学ぶ貴重な機会を失われてしまいます。

 その後、良沢は藩主奥平昌鹿に長崎遊学を願い出ます。藩主は、医術修行でなく、オランダ語を極めたいという良沢の思いを理解し、多額の金子を出して、長崎に送り出してくれたのです。

 100日ばかりの長崎遊学ではほとんど得るものはなかったのですが、藩主から頂いた金子で「仏蘭辞書」とオランダの腑分け書「ターヘル・アナトミア」を手に入れることが叶い、江戸に戻って来たのです。

妻の珉子は、三人の子を生んだ。二人の娘は、妻に似て目鼻立ちがととのい肌も白く、息子の逹は、良沢に似て背丈の高い若者に成長している。・・・

幼くして父をうしない、母に去られ、孤児となった良沢にとって、妻と三人の子にかこまれた生活は得がたいものに思われた。

 玄白とは5年前に長崎屋で会って以来、顔を合わせていませんでしたが、この頃、玄白は、かねてから腑分けに立ち入って人体の内部を直接見たいという願望を持ち、町奉行にもその機会を与えてほしい旨の願いを出していました。

杉田玄白様から頼まれましたと、辻駕籠の者が持って参りました」珉子は言った。良沢は、すぐに書簡を開き行燈の灯の下で文字を追った。・・・

それによると、明日千住骨ケ原で刑死人の遺体を腑分けするが、もしもお望みなら骨ケ原刑場へお越しなさるがよいという。・・・

良沢は、ターヘル・アナトミアを紫の布につつんで中屋敷を出た。 

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刑場は広く、処刑者の遺体が至るところに埋めせれているらしく土の表面が遠くまで波打っている。その地表に雑草がまばらに生え、その中に石像坐身の地蔵と南無阿弥陀仏ときざまれた石碑の立っているのが、その地を一層寒々としたものにみせていた。

 上の写真は、JR南千住駅近くにある延命寺首切り地蔵です。江戸時代に小塚原刑場で刑死した人たちの菩提を弔うために寛保元(1741)年に建立されたものです。その隣には小塚原の刑場跡に建つ回向院があります。

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 回向院に入ると、右側の壁面に小説「冬の鷹」の表紙にもなったレリーフと「蘭学を生んだ解体の記念に」と題された解説があります。

 日本医史学会、日本医学会、日本医師会が、杉田玄白前野良沢中川淳庵等が安永3(1774)年に解体新書5巻を作り上げた偉業をたたえたものです。

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 この小塚原の刑場では、火罪、磔、獄門などの刑罰が行われるだけでなく、刑死者等の死者の埋葬も行われていました。時に、刑死者の遺体を用いて行われた刀の試し切りや腑分け(解剖)も行われてきました。

 明治前期にはその機能も廃止され、回向院は顕彰、記念の地となっていき、橋本左内吉田松陰といった幕末の志士の墓は顕彰の対象となっていきました。


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 玄白も良沢も、競い合うようにターヘル・アナトミアのページを操って解剖図をさぐった。

「ございました。確かにこれでござる。位置も形も全く同一でございます」玄白が、甲高い声をあげた。・・・

「いかがでござろうか。このターヘル・アナトミアをわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか」玄白の顔には、激しい熱意の色が見られた。・・・

良沢は、彼らとともに翻訳事業に取組むことを固く心に決めた。

 翌日から、小浜藩杉田玄白中川淳庵は、築地鉄砲洲の中津藩大名屋敷に通い、オランダ語の初歩的な知識を持つ良沢を師と仰ぎ、翻訳作業を始めることになります。

 

 築地鉄砲洲の中津藩大名屋敷の跡地である聖路加国際病院の構内には、前野良沢らがオランダ解剖書を初めて読んだことを記念した碑が建てられています。

翻訳作業を始めて2年余りが過ぎました。

玄白は、出版を予定している「解体新書」の草稿の整理に勤めていた。・・・

かれは、出版についてその形態をどのようにすべきか思案していた。ターヘル・アナトミアの翻訳は、前野良沢の語学力なしには到底果たし得ないものだった。と言うよりは、良沢の翻訳環境を玄白らが整えたに過ぎないといった方が適切だった。・・・

 玄白は良沢を訪ね、翻訳の盟主である良沢に序文をしたためてほしいと伝えると、良沢は、「それはご辞退したい」と即座に答えます。

そして、「私の氏名は、翻訳書には一字たりとも記載していただきたくないのでござる」ときっぱりとした口調で言ったのです。

かれは、ターヘル・アナトミアの翻訳書ー「解体新書」の刊行には不賛成だった。少なくとも時期尚早と信じていた。さらに長い年月を費やして訳を練り、完訳を果たして後に初めて刊行すべきものと思っていた。しかし、玄白は、ひたすら出版することのみに心を傾けていた。

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本文の巻之一から四の冒頭には、「解体新書」訳業の関係者の氏名が左のように記されていた。

若狭 杉田玄白翼  訳

同藩 中川淳庵鱗  校

東都 石川玄常世通 参

官医東都 桂川甫周世民 閲

・・・

「解体新書」が出版されてから、4年目の春をむかえた。杉田玄白蘭方医家としての名声は華々しく多くの学徒が入門を乞い、天真楼塾の名はひろく知られるようになった。・・・

かれ(前野良沢)の唯一の楽しみは、酒であった。かれは、訳読を終えると、妻の手料理に箸を動かしながら酒をふくみ、食事をする息子の逹と娘の峰子の姿を眺める。それは、かれに一日の仕事を終えた安息をあたえていた。・・・

収入は、藩医として授けられる定まったものだけで、生活は貧しかった。・・・

「解体新書」の出版から20年近く経った。

杉田玄白は六十歳の誕生日を迎えていた。・・・

養子の伯元は、養父玄白の還暦を祝う催しを企画し、たまたま前野良沢が七十歳の古希を迎えていたので祝宴に招待することになった。

誘いを受けた良沢の感情は、複雑だった。玄白とターヘル・アナトミアの翻訳を志してからすでに21年が経過している。

その訳業は「解体新書」として出版されたが、同書に名をとどめることをきらった良沢と代表訳者として出版を進めた玄白との境遇は、それを分岐点として大きな差を生んでいた。・・・

玄白は江戸随一の蘭方の流行医として名声を得、それに比べて良沢は、オランダ語研究に没頭し次々と蘭書の翻訳を続けていた。それらを出版することを拒んでいたので、名声と富には縁がなかった。  

かれは金銭の貯えもなかったので家を買い求めることができず、御隠殿坂の近くにある小さな借家を見つけて、そこに移り住んだ。

 現在の御隠殿坂は、谷中霊園からJR山手線等の跨線橋を越え、根岸3丁目につながる通路ですが、この御隠殿とは東叡山寛永寺住職輪王寺宮法親王の別邸のことで、江戸時代、寛永寺から輪王寺宮が別邸へ行くために造られた坂でした。この坂の周辺に借家を借りて良沢は住んでいたようです。

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 ターヘル・アナトミアの翻訳を志してから、すでに27年という長い歳月が経過した。そして、「解体新書」の出版とともに良沢との交際は断たれた。かれは、江戸のみならず全国に名を知られた大蘭方医と称されるようになったが、良沢は、一般人には無名の一老人にすぎず、侘しい暮らしをしている。その差は、余りにも大きい。

玄白は、良沢に対してひそかにひけ目を感じていた。ターヘル・アナトミアの翻訳は良沢の力によるものであったが、訳者は玄白になった。それによってかれは輝かしい栄光につつまれたが、良沢は貧窮の道をたどっている。

享和三年が、明けた。

良沢の老いは、さらに深まった。歩行も困難になって、ほとんど坐ったままであった。・・・

十月十七日朝、良沢は昏睡状態におちいった。そして、その日の午後、かれの呼吸は停止した。

かれの遺体は棺におさめられ、菩提寺の慶安寺に葬られた。通夜にも葬儀にも焼香客はほとんどなかった。戒名は、楽山堂蘭化天風居士で、妻珉子、息子逹と長女の戒名の並べられた小さな墓碑に、かれの戒名もきざまれた。

かれの死は、その日のうちに杉田玄白にもつたえられた。が、玄白は近所の患家と駿河台の患家に往診におもむき、良沢の息をひきとった小島春庵の家へは足を向けなかった。・・・

玄白は、良沢の死んだ当日の日記に「十七日雨曇近所・駿河台病用」という文字の下に、「前野良沢死」という五文字を記したのみであった。

執筆を終えた翌日、私は、良沢の墓のある慶安寺に赴いた。良沢の歿した頃、同寺は下谷池ノ端七軒町にあったが、大正三年に現在の東京都杉並区梅里一の四の二十四に移され、墓もその境内に立っている。(あとがき)

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碑面には、三つの戒名が並んで刻まれていた。右側に良沢の子の逹の葆光堂蘭渓天秀居士、中央に妻の珉子の静寿院蘭室妙桂大姉、左側に良沢の楽山堂蘭化天風居士という戒名がそれぞれ見える。

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さらに暮石の側面に、良沢がターヘル・アナトミア翻訳中に病死した長女の報春院現成妙身信女という戒名もある。つまり、他家に嫁した次女峰子を除く家族すべてがその暮石の下に埋葬されているのだ。

孤児同然の淋しい生い立ちであったが良沢が死後も家族と共にあることに、私は安らぎを感じた。(あとがき)

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 かれの栄華は、つづいた。・・・

かれの琴線に対する関心は強く、寛政七年末には、「・・・富は智多きに似て貧は魯に似る。人間万事銭神に因る」という詩を作ったが、金銭の力を信じていた合理主義的な人物でもあった。・・・

文化十四年、玄白は八十五歳の老齢に達した。病弱で結婚まで逡巡したかれにとっては、夢想もできぬ長寿であった。

四月十七日は、美しく晴れた日であった。その日、かれは不帰の客となった。・・・

戒名は九幸院仁誉義貞玄白居士で、棺は長い葬列とともに芝の栄閑院に運ばれた。

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 読後、 再び、聖路加国際病院構内にあるモニュメントの前に立ってみました。

 この場所で、前野良沢杉田玄白らが意気投合し、ターヘル・アナトミアの翻訳に夢中になっていた頃のことを思い浮かべながら。

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 参考までに「冬の鷹」の舞台となった場所をマップにしました。 

                                           (完)

島抜け-「梅の刺青」の舞台を歩く

 吉村昭歴史小説「島抜け」(新潮文庫)には、「島抜け」、「欠けた椀」、「梅の刺青」の三篇が収録されています。

 今回は、その中の「梅の刺青」を取り上げ、その舞台を歩きます。

 「梅の刺青」は、明治2年に日本最初の献体をした元遊女をはじめ初期解剖の歴史を主題とした小説です。

 吉村昭は、元遊女の解剖に立会った医学者石黒忠悳氏のご子孫のもとに伺い、日記を見せてもらい、解剖の記述の中に遊女の腕に梅の小枝の刺青が彫られていることに衝撃を受けたとあとがきで書いています。

 さらに、以前から吉村昭が関心を寄せていたという元米沢藩雲井龍雄が、同じように解剖に付されていた事実を突き止め、「梅の刺青」の創作意欲を抱いて筆をとったと後述しています。

 

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元遊女みきのこと

 東京都文京区白山にある「念速寺」に「梅の刺青」の主人公の元遊女みきの墓石があります。

 本堂の前には、文京区指定史跡「美幾女墓」(特志解剖一号)と書かれた解説板が建てられています。
解説板の文字を起こしてみますと、
 美幾女(みき)は、江戸時代末期の人。駒込追分の彦四郎の娘といわれる。美幾女は、病重く死を予測して、死後の屍体解剖の勧めに応じ、明治2年(1869)8月12日、34歳で没した。
 死後、直ちに解剖が行われ、美幾女の志は達せられた。当時の社会通念、道徳観などから、自ら屍体を提供することの難しい時代にあって、美幾女の志は、特志解剖一号として、わが国の医学 研究の進展に大きな貢献をした。
 墓石の裏面には、"わが国病屍解剖の始めその志を憙賞する"と、美幾女の解剖に当たった当時の医学校教官の銘が刻まれている。
                          文京区教育委員会

 
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 墓地は、本堂の裏手で、美幾女の墓は千川通りの塀ぎわにあります。しっかりとしたアクリル板で覆われていて、「美幾女の墓」と記されているのですぐ見つけることができます。墓石は思っていたよりも、小さな作りでした。


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 解剖と言うと、明和8年(1771)3月4日に杉田玄白前野良沢中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」を刊行したことが有名ですね。
江戸時代後期になると、西洋医学を学ぶ者によって、解剖が続けられましたが、幕府が公認しているのは中国医学だったことから、漢方医たちの西洋医学への反発があり、江戸で行われることは稀でした。
 
 明治維新以来、一例もないことから苛立っていた医師たちは、医学校に付属していた黴毒院に視線を注ぐようになっていました。その医療所は、広く蔓延する梅毒に侵された重傷患者を収容していましたが、治療法もなく死を迎える者がほとんどでした。
 
 黴毒院は、徳川吉宗が創設した小石川養生所の性格をそのまま受け継いだところで、極貧の梅毒患者に無料で薬を与え治療を施す施療院でした。

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 黴毒院に入院している患者の中に、みきと言う34歳の女がいました。長年遊女をしていた女で、みきの病勢は進み、体は痩せこけ、寝たきりの状態で舌もただれて出血し、激痛に悶えていました。みきも死を自覚していました。
 
 医学校の医師は、医学の進歩のため死後の解剖を受け容れるように溶きます。みきの心を動かしたのは、解剖後、厚く弔うという言葉でした。遊女は死ぬと投込寺の穴に遺棄されるのが習いだったことから、戒名をつけて、然るべき寺の墓地に埋葬し、墓も建ててやるという説得を受け容れたのです。
 下の写真は、小石川植物園内にある旧養生所の井戸です。
 
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 旧藤堂家の江戸屋敷に建てられた医学校では、直ちに解剖の準備に手を付けました。

 体の所々にはただれの跡が残り、身体は痩せこけ骨が浮き出ている。乳房はしぼんでいるが、隠毛の豊かさと艶をおびた黒さが際立っていた。

 遺体を見つめる医師たちは、みきの片腕に思いがけぬものがあるのに視線を据えた。

 それは、刺青で、梅の花が数輪ついた枝に短冊が少しひるがえるようにむすばれている。短冊には男の名の下に「・・・さま命」と記されている。

 小石川植物園でも、梅が少しづつ咲き始めていました。(スマホで撮影)

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 親族の意向により、小石川戸崎町の念速寺に埋葬することが決められました。
 白提灯灯をかかげた長い葬列に、沿道の人々は身分の高い死者の葬送と思ったらしく、道の端に身を寄せ、合掌し頭を垂れる者もいたそうです。
  四人の僧の読経のもと葬儀が行われ、みきには「釈妙倖信女」という戒名がおくられました。

 

米沢藩雲井龍雄のこと

 吉村昭歴史小説「梅の刺青」は、解剖される側の人間を描きながら、日本の死体解剖の歴史を掘り起こしています。
 日本で初めて解剖が行われたのは、宝暦4(1754)年でした。
 京都の古医方の大家山脇東洋が、それまで誰も疑うことのなかった中国医学五臓六腑説が果たして正しいのかを確認したいという願望から始まっています。
 宝暦4年2月7日、京都六角の獄舎で罪人5人が斬首刑に処され、嘉兵衛という38歳の罪人の解剖が行われました。
 その後、腑分けが続きますが、明和8(1771)年3月4日に杉田玄白前野良沢中川淳庵らが小塚原の刑場で女囚の腑分けに立会い、「解体新書」の刊行に繋がっています。
 
 南千住駅の近くにある小塚原回向院に入ると、「解体新書の扉絵」と「蘭学を生んだ解体の記念に」が刻まれた記念碑が掲げられています。
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 明治政府が発足してからは、解剖は東京のみで行われていました。明治2年8月の美幾女(みき)の解剖を最初に、黴毒院患者の生前志願によるものでした。

 

 その後、社会情勢が不安定なことから犯罪がしきりに発生し、処刑される罪人の身許不明者が多いことから、大学東校(東京医学校前身)のある旧藤堂家屋敷の敷地内で処刑された罪人の解剖が行われるようになりました。

 
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 小塚原回向院の墓地には、安政の大獄等で斬刑(梟首刑)に処された橋本左内吉田松陰らの墓石が並んでいます。

 

 その中の一つに「雲井龍雄」の墓碑があります。墓碑には「雲井龍雄遺墳」と刻まれています。

 

 いずれも伝馬町牢屋敷で斬首された後、梟首刑の者は野捨てにされる定めとなっていて、斬首された頭部は小塚原刑場にさらされました。

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 5年ほど前に吉村昭歴史小説「島抜け」を読んでいた際、亡き友人が眠る「円真寺」が、著書のなかで重要な場所として登場していることに気付き、米沢藩雲井龍雄について知る機会となりました。

 雲井龍雄のことについては、藤沢周平歴史小説「曇奔る-小説・雲井龍雄-」に詳しく書かれています。
 
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 円真寺は、東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ日蓮宗の寺院です。
 米沢藩雲井龍雄と円真寺について、吉村昭の「島抜け(梅の刺青)」から紹介します。
 雲井は、慶応元年正月、二十二歳で江戸警衛に派遣された。任期後も江戸にとどまって、考証学の大家安井息軒の門に入って、多くの俊才と交わり、憂国の情熱を燃やすようになった。米沢にもどった雲井は、情勢に即した藩論を定めるべきと強く説き、藩命を受け探索方として京都に潜行した。
 明治元年薩摩藩長州藩とともに倒幕の兵を起こし、強硬な薩摩藩の動きに反撥した雲井は、各藩の代表者に接近して倒薩論を強く唱えた。倒幕軍が江戸を占拠して東北への進撃を開始すると、雲井は関東に潜入し、さらに東北諸藩によって成立した奥羽列藩同盟を支持して激しい動きをしめした。
 薩摩に反撥する諸藩の連合のもとに、江戸を奪回する檄を発したりした。雲井のもとには、薩摩藩が主導権を握る政府に反感をいだく旧幕臣や脱藩浪士たちが集まり、雲井は芝二本榎の上行寺と円真寺を借りてそれらの者を寝泊まりさせ、「帰順部曲点検所」という標札をかかげた。
 帰順とは、雲井らが服従して政府の兵力になるというものであったが、それが容れられた折には政府の武器を手に反乱を起こそうと企てていたのである。
 政府は雲井に手を焼き、彼を隔離すべきだと考え、藩に命じて米沢に禁錮させた。東京に残された者たちは、挙兵の準備に取り組んで動き、これを政府の密偵が的確につかんで、次々に逮捕した。
 彼らの中には拷問に堪えきれず、雲井が政府転覆を企てて不満分子を積極的に集めていたことを告白する者もいて、罪状は明白になった。
 雲井は、三十名の兵の護衛の元に東京に押送され、八月十八日に小伝馬町の獄舎に投じられた。

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 雲井の遺体は、会津藩士原直鐡をはじめ九体の遺体とともに甕に入れられて大学東校に運ばれた。
 初めに甕から出されたのは、雲井の遺体であった。解剖台にのせられた雲井の体はきわめて小柄であることに、見学者たちの顔には一様に驚きの表情が浮かんだ。
 政府転覆を企てた一党の首魁である雲井は体躯も大きいと予想していたが、体は華奢で肌は白く、あたかも女体のようであった。解剖後、雲井の遺体は、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられた。
 他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれ僧の読経のもとに無縁墓地に埋葬された。
 小塚原回向院に埋葬された雲井の遺体は、その後米沢に移葬されますが、その際に建てた自然石「竜雄雲井君之墓表」が谷中天王寺(現谷中霊園)にあります。
  撰文は人見寧によるもので、雲井の事績が刻まれています。
 人見寧は旧幕府遊撃軍の幹部で戊辰戦争では雲井と刎頚の交わりを結び、新政府軍に抗した人物です。


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 雲井の遺体は解剖後、梟首刑の定めによってただちに小塚原刑場に運ばれ、捨てられましたが、他の九体の遺体は、つぎつぎに解剖にふした後、谷中天王寺に運ばれました。

谷中天王寺

 谷中天王寺は、戊辰戦争上野戦争)の際、幕府側・彰義隊の営所となったため官軍との戦闘に巻き込まれ、本堂(毘沙門堂)などを焼失しています。


 さらに明治初年の廃仏毀釈神仏分離寛永寺の広大な境内地が上野公園になるなどの荒波を受け、天王寺も境内の多くを失っています。


 都立谷中霊園も江戸時代には天王寺の墓地(徳川将軍家の墓地は寛永寺墓地)。中央の園路は天王寺の参道だったそうです。


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 元禄13年(1700年)には感応寺(現・天王寺)に対して富突(富くじ)の興行が許され、湯島天神目黒不動瀧泉寺)とともに「江戸の三富」に数えられていました。


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 境内にある「元禄大仏」(露座、銅製)は、元禄3年(1690年)鋳造の釈迦牟尼如来坐像。神田鍋町に住む太田久右衛門が鋳造し、像高296センチです。
 江戸時代後期の天保年間(1831年〜1845年)刊行の『江戸名所図会』にも記される大仏なので、当時からかなり有名だったことがわかります。

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 谷中の墓地(都立谷中霊園)にある五重塔の跡は、寛政3年(1791年)再建の天王寺五重塔の跡です。

 

 戊辰戦争の戦火を逃れた五重塔ですが、昭和32年に放火(谷中五重塔放火心中事件)で焼失してしまいます。幸田露伴の小説『五重塔』は、その顛末を題材にしています。


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 雲井龍雄らの解剖のあと、刑死者の遺体解剖は頻繁に行われるようになりました。

 

 明治5年8月に旧藤堂家屋敷にあった大学東校は、第一大学区医学校と改称され、明治7年5月に東京医学校となります。

 その後、東京医学校は、明治9年11月に本郷の加賀藩屋敷跡に校舎を新築し、翌年4月に東京大学医学部と改称されます。

 小石川植物園にあった旧東京医学校本館は、その時に建てられたものです。

 

千人塚と東京大学医学部納骨堂

 明治14年に入って、解剖遺体が千体に及んだので、霊を慰めるために千人塚を建立する計画が起こり、谷中霊園にその年の12月に碑が建立された。

 その後、千人塚はさらに2基建てられ、年に一度、東京大学医学部の主催で多くの医学部関係者が集まり、しめやかに慰霊祭が行われている。

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  千人塚の隣にある東京大学医学部納骨堂
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 吉村昭は、随筆「わたしの普段着」の中でも「雲井龍雄と解剖のこと」について触れています。

 私はこれらの解剖を記録をもとに小説を書いたが、その記録を繰ってゆくうちに思いがけぬ記述を眼にした。

 解剖された刑死者の中に雲井龍雄という名を見出したのである。

 解剖記録によると、雲井と原をはじめ十体の斬首された遺体は大学東校(医学校改め)に運ばれ、解剖に付されている。

 それを見学した者の記録に、雲井の体が華奢で肌は白く、「女体ノ如シ」と記されている。

米沢に行って雲井のことを調べたが、その死は梟首とあるのみで、遺体が解剖されたとはされていない。

 吉村昭歴史小説「島抜け」を読んだことで、元遊女みきが眠る、東京都文京区白山にある「念速寺」を巡り、そして、米沢藩雲井龍雄が活動の拠点とした東京都港区高輪、二本榎(にほんえのき)通りに建つ円真寺を巡る機会となりました。円真寺は、同僚が眠る寺院ということもあり、関心を持ちました。

 この「梅の刺青」は、二人の生き様を通し、日本の解剖の歴史を、医学の発達を私たちに教えてくれています。

万年筆の旅

「万年筆の旅」は、吉村昭記念文学館の広報誌の名称で、吉村昭の夫人で作家の津村節子氏による題字です。この広報誌「万年筆の旅」は吉村昭記念文学館の準備室が開設された2013年3月から発行されていて、最新刊は第15号となっています。

2006年1月、荒川区から吉村氏に、氏の功績を顕彰する文学館の構想を伝えたところ、「区の財政負担にならないこと、図書館のような施設と併設すること」を条件に設置を承認されたそうです。その半年後に吉村昭は亡くなりますが、夫人で作家の津村節子氏の協力で蔵書、原稿、愛用品などが寄託され、2017年3月に図書館「荒川区立ゆいの森あらかわ」に併設する形で吉村昭記念文学館はオープンしました。

吉村昭記念文学館ができるまでは、日暮里図書館内2階に「吉村昭コーナー」がありました。吉村昭の蔵書や直筆の原稿などがある小さなコーナーでしたが、吉村昭の小説に対する思いが伝わる素晴らしい場所でした。この小さな「吉村昭コーナー」には、2013年6月に明仁天皇陛下(現上皇陛下)も訪れていて、「万年筆の旅」第2号にも紹介されています。

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この写真は、最新刊の吉村昭記念文学館news Vol.15の巻頭を飾ったもので、吉村昭の仕事場(書斎)の写真かと思います。
吉村昭記念文学館は吉村昭ファンの聖地ともいえる場所で、私も何度か見学に行きました。
私が初めて読んだ吉村昭の小説は、「漂流」でした、次に読んだのが「羆嵐」です。2冊とも吉村文学を代表する作品です。これでハマりました。 

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私が「吉村昭記念文学館友の会」に入会したのは、準備室ができた2013年でした。下の写真の上段の紫色のものがその会員証で、2017年に開館するまでの期限付きでした。当時300人ほどいたそうです。下段の赤色のものが、2017年に開館して以降に発行された会員証です。
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友の会に入会すると、「万年筆の旅」が毎回送られてきますから、吉村昭記念文学館のイベント情報を知ることができます。また、文学館に展示されている常設展示図録(144ページ)が送られてきます。そこからは、吉村昭の人間像を知ることができ、展示されている資料に解説が添えられているので、作品を深読みすることができます。
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「メガネ拭きクロス」も同封されています。メガネをかけていた吉村昭には必需品のひとつだったのかも知れませんね。描かれている絵は、吉村昭の書斎から見える愛犬クッキーです。
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あと、スタンド式のカレンダーも入っていました。
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最新の吉村昭記念文学館news Vol.15と一緒に送られてきたのは、下の写真にある「戦後75年戦史の証言者たち(令和2年度企画展)」の図録(64ページ)です。

今回の企画展は、新型コロナウィルス感染拡大防止の折、館内展示を控え、ウェブサイトで開催されました。

ページをめくると、吉村司氏(吉村昭の長男)が寄稿した「父と戦艦武蔵」が掲載されています。

私も父の作品で何を勧めるか? と問われたら「戦艦武蔵」を筆頭に上げる。しかし、この小説が発表されてベストセラーになった時、父の純文学が好きだった小学生の私には事実だけを書いているように思えたこの作品を、これでも小説なのか? と言ってしまったことがある。しかし、そんな私が今、愛好し読み返す父の作品と言えば、圧倒的に記録小説だ。父という小説家が歴史に対峙すると、それまで本質が埋もれていた史実も生き生きと蘇ってくる。それは、多くの読者も同感されるのではないだろうか。私は親孝行ができなかったといって悔やむ息子ではないが、小説「戦艦武蔵」は最高だと、存命中の父に言えなかったことが、唯一私の悔いとなっている。

吉村昭記録文学の原点は「戦艦武蔵」と「戦艦武蔵ノート」に書かれてあると思う。この企画展を機に改めてこの2作品を読み返そうと思っている。(出典「戦後75年戦史の証言者たち(令和2年度企画展)」)

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友の会入会と同時に送られてくる「吉村昭記念文学館常設展示図録」には、「吉村作品の舞台と取材地」(A2サイズ)が挟み込まれています。以前からこうした情報が欲しいと願っていたので、これを見た瞬間、これだけでも友の会に入会した価値があると思ったほどです。

一昨年は、小説「長英逃亡」の舞台である東北地方を巡り、昨年は小説「夜明けの雷鳴」の舞台、北海道函館を歩きました。さて、今年はどこに行こうかと思いを膨らませています。これだけ作品の舞台があるとなかなか制覇するのは容易ではありませんね。
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小説「黒船」の舞台を訪ねて

ペリー艦隊来航時、主席通詞としての重責を果たしながら、思いもかけぬ罪に問われ入牢すること四年余。その後、日本初の本格的な英和辞書を編纂した堀達之助の一生を克明に描き尽くした雄編(「黒船」から)

    小説 「黒船」では、 通詞堀達之助の数奇な運命を辿りながら、幕末維新のターニングポイントを描いています。ここでは、堀達之助とともに、黒船の出現により、運命を変えた元浦賀奉行所与力の中島三郎助に焦点を当てながら、黒船に関わる現地を訪ねます。                   

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今回は、吉村昭の「黒船」をもとに、黒船来航の地、浦賀を訪ね、旧幕臣として、榎本武揚土方歳三らと共に箱館戦争で闘い、壮絶な死を遂げた元浦賀奉行所与力の「中島三郎助」にスポットを当てながら紹介していきます。

この写真は、久里浜にあるペリー公園に建てられたペリー上陸記念碑です。
ペリー提督は、4隻の黒船を率いて浦賀沖に姿を現しました。そして、この久里浜に上陸し、大統領の開国と通商を求める親書を幕府に渡します。嘉永6(1853)年6月のことです。

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 最初に黒船が来航した際、浦賀奉行所与力の中島三郎助に異国船検分の命が下ります。異国船への乗船を試みますが、ペリー提督から無視されます。ペリー提督は、身分の最も高い者との交渉を望んでいたからなのです。
 その時に通詞として随行していた堀辰之助が機転を働かせ、ペリー提督に対し、与力の中島三郎助を浦賀奉行所副奉行として紹介し、漸く黒船に乗船することができ、来航の目的など検分することができました。
  この中島三郎助と数奇の縁を持つ通詞堀辰之助は、後に幕府の命で、箱館に行くこととなります。しかし、その後の幕府瓦解により、新政府の官吏となり、箱館戦争を迎えるのです。
 今回の「黒船」探訪は、京急浦賀駅からのスタートです。駅前の交差点を渡り、浦賀港の西側(西浦賀コース)を進みます。

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浦賀警察署の手前に「大衆帰本塚の碑」があります。この石碑に刻まれている文章は中島三郎助によるものです。
 
江戸時代、この辺りは湊の繁栄と共にコレラなどの疫病により多くの人が行き倒れになったため、無縁仏の墓地があった場所で、市外に墓地を移転させるために建てたものです。

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 西浦賀の湾口に向け進むと東浦賀への渡船場が見えてきます。

渡船からの見た景色です。奥に見えるのが浦賀ドッグです。

 安政6年(1859年)に日本で初めてドライドッグとして造られました。ここで鳳凰丸を造船し、また、サンフランシスコへの就航に向け咸臨丸の整備をしました。 

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乗って5分、東浦賀船場に到着します。 

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乗って5分、東浦賀船場に到着です。

浦賀の船着場の横に「徳田屋跡」の解説板があります。
徳田屋とは東浦賀の旅籠で、浦賀江戸湾防衛の最前線となると、多くの武士や文化人が訪れたといわれています。その中には、吉田松陰佐久間象山がいました。

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船着場にはお洒落なカフェがあります。カフェの建物の柱には、中島三郎助が活躍した箱館戦争の解説板がありました。
中島三郎助の聖地であることが伝わってきます。

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東林寺には、浦賀奉行所与力だった中島三郎助親子の墓があります。

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中島三郎助の墓は、右手前の墓石です。ここで、中島三郎助の人物像に少し触れたいと思います。

 中島三郎助は、黒船来航の折に浦賀奉行所副奉行と称し、旗艦サスケハナ号の船上でペリー提督と交渉に当たります。その功績は大きく、中島は幕府から金一封を貰い受けます。

黒船来航を機に、全国に海防のお触れが出され、品川には台場が造られ、砲台が全国各所に整備されるきっかけとなりました。
幕府にとって最初の西洋式大型軍艦となる鳳凰丸の建造は、中島三郎助らが担当することになります。
 その後、幕府の命により勝海舟らと共に長崎海軍伝習所の第一期生として、軍事と航海術を修得し、築地海軍操練所に教授として迎えられます。
 しかし、勝海舟と反りが合わず、浦賀で咸臨丸の修理に携わりながらも、遣米使節団には選ばれませんでした。
 再び浦賀奉行所に戻りますが、ちょうどその頃、幕府が瓦解し、浦賀奉行所も新政府軍の手に落ちます。

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中島三郎助が眠る東林寺からは、浦賀港が見渡せます。対岸は西浦賀です。

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次に叶神社に向かいました。東浦賀の鎮守様です。裏山は明神山といいます。
祭神は「厳島姫命」(いつくしまひめのみこと)で、海難その他の難事の際に身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。

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本殿の横にある石段を上り切ると(マップでは神社を巻いていますが)、曲輪のような場所に出ます。そこには「勝海舟断食之跡」という石柱が建てられていました。
 ここで遣米使節団として咸臨丸でサンフランシスコに向う前に、祈願したといわれています。

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この場所は、かつて浦賀城でした。

戦国時代に小田原北条氏が三浦半島を支配した時に房総里見氏からの攻撃に備えて北条氏康が三崎城の出城として築いたといわれています。
この場所からは、正面に房総半島を見ることができます。また、この下辺りが黒船が停泊した場所とされています。

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先ほどは、叶神社のある明神山の頂きまで登りましたが、今度は、西浦賀の最高峰、愛宕山の登頂を目指します。

 愛宕山には、中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航碑、与謝野鉄幹・晶子の歌碑があります。浦賀港沿いの路地に入ったところに「浦賀園」と読むのでしょうか、愛宕山公園の入口があります。

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息を荒くして登った先に「咸臨丸出航の碑」がありました。

この碑は、昭和35年日米修好通商条約の締結100年を記念して建てられました。

碑の裏には、勝海舟をはじめ、福沢諭吉中浜万次郎(ジョン万次郎)など乗組員全員の名前が刻まれています。

主要な浦賀奉行所与力が選ばれるなか、功績も高く、咸臨丸の修理も担当していた中島三郎助や通詞として活躍した堀辰之助が遣米使節団の一員になれなかったことに複雑な思いがします。

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その先に中島三郎助の招魂碑と功績を記した解説板がありました。
 江戸時代末期に横須賀造船所ができてから、浦賀は幕府の軍港としての役割はなくなりますが、中島三郎助の23回忌に建てた招魂碑の除幕式に、箱館五稜郭で共に戦った榎本武揚らが中島三郎助の功績を称えて、再び浦賀に造船所建設を呼びかけ、煉瓦造りのドライドッグが造られることになったのです。
 それにより、浦賀は造船所の街として再び賑わいを取り戻すことになりました。多くの軍艦や、青函連絡船などがこの港で造られています。 

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浦賀湾から少し奥に入ったところに「浦賀奉行所跡」があります。

2年ほど前に来た時は、まだ団地がありましたが、現在は埋蔵文化財の調査も終え、更地になっています。

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享保5年(1720年)に奉行所が下田から浦賀に移されました。

奉行所では、船改めのほか、海難救助や地方役所としての業務を行っていました。

 また、1830年代にたびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸を防御する海防の最前線として、さらに重要な役割を担うようになりました。

奉行所跡を取り囲む堀の石垣は当時のものです。 

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浦賀奉行所跡から1キロほど歩いた先に「燈明堂跡」があります。
 慶安元年(1642年)に幕府の命により建てられた燈明堂は灯台の役割をはたしていて、その灯は、房総半島まで届いたといいます。
燈明堂の建物は明治5年に消滅しますが、台座の石垣のみ横須賀市の史跡に指定されています。

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1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、米国フィルモア大統領の日本開国を求める国書をもって、提督ペリーは久里浜海岸に上陸しました。
この歴史的事実をきっかけに、翌年には日米和親条約が結ばれ、日本は200年以上に渡ってつづけてきた鎖国を解き、開国しました。
ペリー公園は、日本の近代の幕開けを象徴する史実を記念した公園です。
1901年(明治34年)7月14日、ペリー上陸と同じ日にペリー上陸記念碑の除幕式がおこなわれました。 
碑文の「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣 伊藤博文の筆によるものです。
太平洋戦争以降、日米が敵対関係となり、1945年(昭和20年)2月に碑は引き倒されました。
しかし、終戦後、粉砕されず残っていた碑は同年11月に復元されました。

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ペリーは、翌年の嘉永7(1854)年1月16日、7隻の艦隊を率いて再び来航し、和親条約の締結を迫ります。

結局、幕府は嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に横浜村で日米和親条約(神奈川条約)を締結しました。横浜開港記念資料館の園地に「日米和親条約締結の地」碑が立っています。
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横浜開港資料館は、開港百年を記念して編さんされた『横浜市史』の収集資料を基礎に、1981(昭和56)年に開館しました。

資料館が建っている場所は、1854(安政元)年に日本の開国を約した日米和親条約が締結された場所で、当館の中庭にある「たまくすの木」は条約締結の時からあったと伝えられています。
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中庭にある「たまくすの木」
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横浜港を見下ろす掃部山公園には、幕末の大老で「日米修好通商条約」を締結し横浜開港を導いた井伊直弼銅像が建っています。日米修好通商条約」を締結は、横浜で「日米和親条約」が締結されてから2年半後のことでした。

像が建立されたのは横浜開港50年を迎えた明治42(1909)年。建立には旧彦根藩士で横浜正金銀行頭取を務めた相馬永胤が深く関与し、像の台座は横浜正金銀行本店本館を設計した妻木頼黄が手がけました。
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安政3(1853)年7月21日、下田に駐在するため初代アメリカ総領事として来日したハリスは、日本との貿易ができるよう「通商条約」の締結を幕府に求めました。

孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政(1853)年6月19日、大老井伊直弼は「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結しました。条約の調印は神奈川沖に泊まっているポーハタン号の上で行いました。
また幕府は、アメリカに続いて、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結びました。

条約の調印場所となったポーハタン号は、日米修好通商条約の批准書を交換するため、安政7(1857)年1月、アメリカに向けて横浜を出発しました。勝海舟らが乗る咸臨丸も、浦賀港から共にアメリカに向かいました。