吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

谷口桂子著「食と酒 吉村昭の流儀」の舞台を歩く

今回は、吉村昭さんの故郷、日暮里と谷中を歩きます。歩くコースは谷口桂子さんの著書「食と酒 吉村昭の流儀」の第3章下町の味を参考にしてみました。

スタートは西日暮里駅です。   

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線路沿いの坂を登っていくと、諏方神社があります。

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吉村昭さんのエッセイでたびたび登場する神社ですね。町の鎮守です。この諏訪台地から日暮里の街並みがよく見えます。いまは高層ビルしか見えませんが。

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諏訪台通りを進むと、御殿坂と交差します。この辺りは、日暮里駅にも近く、夕焼けだんだんがあり、谷中商店街が近くにあることから賑やかです。また、老舗も多く、吉村少年の当時からあったお店も建ち並んでいます。

谷中せんべいは一枚単位でガラスの壺から選んで買うことができます。私はゴマせんべいなど10枚セットの袋詰めのものを買いました。

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谷中せんべいの向かいには吉田屋という佃煮のお店があります。ここでも100g単位で購入することができます。私はアサリの佃煮をいただきました。ビールのあてとしてお土産です。
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90歳を超える吉田屋の女将さんに吉村昭さんのお話を聞くことができました。奥様の津村節子さんも買いに立ち寄られるそうですよ。
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しばらく、諏訪台通りを歩きます。

右手に築地塀が見えてきます。

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そこから左手の路地に進むと谷中霊園です。吉村昭の「彰義隊」の舞台ですね。徳川慶喜公の墓地に立ち寄ります。

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谷中霊園にある五重塔跡は、この日、谷中まつりの会場となっていました。

この辺りも、戦時中に空襲に見舞われ、避難する場所としてエッセイでも紹介されています。

ここから芋坂を下って、日暮里の街に入ります。

芋坂を下ったところに羽二重団子のお店があります

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団子屋さんの向かいに善性寺があります。ここも彰義隊の屯所があったところです。
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この近くに吉村昭さんが16歳の時から住んでいた家があったそうです。ちょうど、ホテルがあるところと紹介されているので、コーヒーをいただくことにしました。

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吉村昭さんは故郷の講演会や、亡くなった時もこのホテルでお別れの回をされていました。生前、故郷に来るたびにこのホテルでサンドイッチとコーヒーを召し上がっていたそうです。

近くに吉村昭さんの母校があります。第四日暮里小学校です。今は荒川区ひぐらし小学校という名称になっています。

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ちょうど、2時間半のウォーキングです。

日暮里駅から電車で帰ります。美味しい、どこか懐かしい街並みを楽しんだ旅となりました。

近日、新潮社から谷口桂子さんの新刊「吉村昭津村節子 波瀾万丈おしどり夫婦」が発売となります。ぜひお読みください。

7分弱の動画も作りましたので、ご覧ください。

https://youtu.be/nzZ5d5Y4PL0?si=IEbPw9OoN11Yji3g

 

 

 

 

「三陸海岸大津波」「幕府軍艦『回天』始末」「星への旅」の舞台を巡る

今回、念願の「三陸の海」を旅することになりました。

目的は、吉村昭さんが作家として再復活を遂げるきっかけともなる小説「星への旅」を書くために現地を訪れ、着想した場所である田野畑村に行くことでした。

この「三陸の海」は御夫人の津村節子さんの小説からお借りしたものですが、その小説自身も津村さんが吉村昭さんと一緒に三陸の海を旅されたことや、田野畑村での思い出などを回想されたものなのです。

最初に行ったのは、この浄土ヶ浜です。天候が悪く、綺麗な写真が撮れませんでしたが、震災の半年前に同じ場所に立ちましたが、震災による大津波で跡形もなくなった風景をニュースで見ていただけに、この風景は胸を撫で下ろす思いがします。

この海岸の側には、明治、昭和、平成と来襲した津波の石碑が建てられていました。

この浄土ヶ浜を上がると「宮古湾海戦記念碑」があります。第一駐車場の近くです。これは、明治2年3月に新政府軍の軍艦「甲鉄」をぶん取るため、旧幕府軍の「回天」、「高雄」らが宮古湾に集結していた軍艦に対し、海戦を挑んだ場所なのです。この内容は、「幕府軍艦『回天』始末」にスペクタルな描写で描かれています。

この建物は、田老町にある震災遺構の建物「観光ホテル」です。2階は柱を残して、全て流出しています。あのこの出来事が昨日のことのように蘇ってきます。

この写真は、新たに作られたとても大きな防潮堤から見たホテル周辺の状況です。まだまだ復興が進んでいるようには見えません。

海岸側の山を登り切ると、田老の名所「三王岩」を見下ろすことができます。とても素晴らしい景観に感動します。

田野畑村に行く手前に「鵜の巣断崖」があります。三陸リアス式海岸の景色を展望台から楽しむことができます。この場所が小説「星への旅」の舞台となる場所です。青年たちが集団自殺を遂げるシーンは吉村昭さんの独特の詩的な表現が使われていて、忘れられない小説のひとつです。この小説で「太宰治賞」を受賞され、この作品の後、色々な小説を発表することにつながったと言われています。

「星への旅」の石碑です。

三陸鉄道田野畑駅です。駅の構内には、「島越駅」と同様に吉村昭の文庫が置かれています。

駅は海岸線からかなり高いところにありますが、この地点まで津波が襲いました。

吉村昭さんご家族が毎年のように訪れた田野畑村の羅賀にあるホテル羅賀荘です。

このホテル羅賀荘の近くに明治、昭和、平成の大津波の石碑や詩碑が置かれています。「三陸海岸津波」でも「田野畑村津波」の項に詳しく当時の聞き書きが残されています。

ホテルの前には、宮古湾海戦の際、幕府軍艦「高雄」がこの近くの海岸で座礁したことについて書かれた解説版が置かれています。

最終日、好天に恵まれたので、島越から北山崎までの断崖をクルーズに乗ってみることにしました。クルーズでは、景色に合わせて説明がなされ、羅賀近くで座礁した「軍艦高雄」の座礁した海岸に差し掛かるところで「幕府軍艦『回天』始末」の当時の様子が語られます。

今回の旅の様子は動画にもしましたので、よろしければご覧ください。

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吉村昭「破船」がフランスで映画化

吉村昭「破船」が読まれています

 「破船」を最初に読んだのは、今から6年ほど前です。確か「羆嵐」や「漂流」を読んだ後だと思いますが、それまでは史実をもとにした記録小説のイメージを強く持っていたので、吉村昭の新たな世界観に触れたような感想を持ちました。話の中身は本当に怖かった。

 少し内容をご紹介しますと、

 座礁した船から、あらゆる物資を奪い取る。それは、極貧の村で生き抜くための、秘密の風習であり、村人は難破船を「お船様」と呼んだ。

 村に大きな恵みを与える「お船様」の訪れを村人は待ち焦がれていた。そして、ふた冬続いて「お船様」が現れたことで、村人たちから歓声が湧き上がるも、運んできたものが後に村に大きな災いをもたらすことに・・・日本の古い風習をもとに描いた作品。

 執筆の背景は、日本海沿岸に残る江戸初期の古記録などをもとに執筆された虚構作品で、破船させた積荷を奪うという風習と、疱瘡(天然痘)に罹った者を船に乗せて海に流したという記録を眼にして構想を固め、新潟県佐渡ヶ島を背景地に据えて書いたと言われています。

 この新潮文庫の表紙、めちゃくちゃ怖くありませんか。

      

2022本屋大賞「超発掘本!」に輝きました

 そして、この「破船」は、昨年度「本屋大賞・超発掘本!」に選ばれたことは皆さんも記憶に新しいのでは。推薦をされた未来屋書店宇品店の河野寛子さんのコメントも良かったですよね。ご紹介します。

 「衝撃的です。なぜこれまで映画化されてこなかったのか。いわゆるホラーとはまた違う、とてつもないイメージが描かれています。今では考えられない村社会ならではの暮らしぶりや集団の論理を、吉村昭は易しい文体で描いています。お船様が運んできたものとは、福の神か祟り神か・・・。海の向こうからやってきたウイルス禍の中、恐れの意味を理解できる今こそ、強く紹介したい一冊として取り上げました」

 確かに、コロナ禍なので、一層怖さが伝わる作品ですね。私は「読書メーター」に参加していて、いつも吉村昭ファンの感想を楽しみに読んでいるのですが、昨年から急に「破船」の感想が増え、今も続いているのに驚いています。さすが、本屋大賞

 

 新年明けてから、「吉村昭記念文学館(ゆいの森あらかわ内)」からお便りをいただきました。令和4年度企画展「翻訳されたYOSHIMURA文学」の案内です。チラシの裏には、フランス映画「Fires in the dark」のイベント情報があります。

 よく見ると吉村昭「破船」を元にしたフランス映画でした。

 漸く「破船」が映画化されたのです、それも日本ではなく、フランスで。フランスのタイトルは「DES FEUX DANS LA NUIT」。

 早速、応募したところ、運良く当選し、先日(2月26日)観ることができました。

吉村昭記念文学館」を知りたい方は、上のQRコードからどうぞ。

「破船」がフランスで映画化

 上映会の様子ですが、超満員でした。多分抽選で漏れた方も多かったのではないでしょうか。120人以上の方が参加されていたと思います。

 本編の上映の前に、監督のドミニク・リエナールからビデオメッセージがありました。

 「『破船』の翻訳本を読んで、これまで映画化されてこなかったことに驚いた。先に映画されないように、本屋に置いてあった『破船』の翻訳本を買い占めましたよ」この言葉に会場は笑いに包まれました。

 他にもフランスでは「星への旅」「水の葬列」を読んでいるそうです。

 

  

 さて、映画の舞台は、17世紀のフランス。切り立った山に囲まれた小さな海辺に一艘の小舟を操る少年が映し出されます。少年は、「破船」の主人公「伊作」に扮する「アラン」です。

 原作の「破船」にも漂う幻想的な空気は、この映画にも投影されているようでした。逆に、アランと幼なじみの女子との恋物語のシーンは、原作にはあまり描かれていなかったところです。このことは監督自身がビデオメッセージでも触れていました。

 この映画は世界45映画祭でノミネートされ、監督賞や脚本賞など45のタイトルを受賞しています。国内では4月4日に福岡市のKBCシネマ1-2で上映が予定されているようです。お近くの方はチェックしてみてください。

翻訳されたYOSHIMURA文学

 せっかく、吉村昭記念文学館に来たのだから、今回の企画展「翻訳されたYOSHIMURA文学」を見学しない訳にはいきません。

 1990年代から2000年代初頭にかけて、吉村昭の作品は海外で相次いで翻訳、出版されます。そのきっかけとなったのが、1996年にアメリカで出版された英語版「破船」でした。

 刊行後、注目を集め話題となり、多言語への出版が相次ぐことになります。現在までに10ヶ国語で刊行されています。特に、フランスでは現在までに20冊を超える吉村作品が出版されています。主に「星への旅」「水の葬列」など初期の短編だそうです。

 今回の「破船」の映画化は、2022本屋大賞「超発掘本!」のタイミングと同様に、コロナ禍というパンデミックによるところが大きいかもしれません。

 このことは、2011年3月11日に起きた東日本大震災以後、同様に「三陸海岸津波」が増版されたことと同じ傾向です。

 吉村昭の作品には国内外を問わず、災害、伝染病、そして戦争といった人類の危機に対する警鐘とも言える作品が多くあります。そうした意味でも、多くの方に吉村昭の小説をご紹介していきたいと思います。

今回の企画展は3月15日(水)までです。どうぞご覧ください。

吉村昭「陸奥爆沈」を追う旅・横須賀

 昭和44年4月、吉村昭は岩国市の紹介紀行文を書くために、編集者山泉進氏と柱島に行くことにしました。

 その理由の一つに小説「戦艦武蔵」を書いていて、戦艦武蔵の訓練基地であり、最後に攻撃命令を受けて、出撃した場所も「柱島泊地」だったことから、「訪れないことに後ろめたさが潜んでいたから」と記しています。

 この柱島は、瀬戸内海の周防大島の沖にある島で、戦艦陸奥の他に戦艦大和もこの場所から出撃していて、戦艦、巡洋艦駆逐艦航空母艦など100隻以上の艦艇が勢ぞろいしていた時もあったというほど海軍にとって重要な泊地でした。

 この場所で、昭和18年6月8日正午頃、旗艦ブイに係留中の戦艦「陸奥」は、大爆発を起こして船体を分断し、瞬く間に沈没したのです。小説「陸奥爆沈」では、あらゆる角度から過去の調査を分析し、その謎に迫っています。

 吉村昭が「あとがき」で「一般の小説形式とは異なって、私自身が陸奥爆沈という対象にむかって模索する過程を描いているが・・・」と書いているように、いつの間にか、私も沈没の謎について吉村昭と一緒に追求していくような気分で読み進めていました。

                             

 今回、「陸奥爆沈」に関係する場所として、横須賀港に行ってきました。

 横須賀港は、かつて横須賀海軍工廠として戦艦陸奥を建造したところで、現在も海上自衛隊アメリカ海軍基地がある軍港として引き継がれています。

また、その対岸に横須賀港を一望できる「ヴェルニー公園」があって市民の憩いの場になっています。

「戦艦陸奥」主砲の里帰り 

 ヴェルニー公園に現在「戦艦陸奥」の主砲身が展示されています。

 戦艦陸奥は大正10年に就役し、戦艦長門とともに日本の海軍を牽引する象徴として世界にその名を轟かしていましたが、第二次世界大戦ではほとんど出番がないまま、昭和18年6月18日に柱島沖(周防大島伊保田沖)で原因不明の爆発事故を起こし沈没してしまうのです。

 総員1471名のうち死者1121名、生存者わずか350名という大惨事でした。しかし、世間に公表されることはありませんでした。遺族に知らされたのも事故から2年後のことだったようです。しかも、生存者のほとんどが最も厳しい最前線に送られてしまうのです。いかに、爆沈した事実を秘匿しておきたかったかが分かります。

 小説「陸奥爆沈」では、戦艦陸奥の爆沈の原因は何だったのか、その謎を追った記録が克明に記されています。

 戦艦陸奥は戦後、瀬戸内海の42メートルの海底から引きあげが行われ、昭和45年には艦体の一部や菊の御紋章、主砲塔、主砲身などが回収され、日本各地で展示された後、この主砲身は「船の科学館」に展示されていました。

 その後、2020東京オリンピックに伴う再開発のため移転をすることになり、平成29年3月に「戦艦陸奥」の故郷である横須賀港に里帰りしてきたのです。

 主砲は41インチ砲で、長さが約18.8メートル、重さは約102トン、主砲8門のうち4番砲塔の一門で、昭和11年に横須賀海軍工廠で行われた大改修の際に搭載されたものです。

    主砲展示の横に「ヴェルニー記念館」があります。

 ヴェルニーとは幕末に日本国内で初めて造られた近代式造船所「横須賀製鉄所」を建設したフランス人技師で、記念館はその功績を紹介するためにつくられた博物館です。

 ヴェルニー記念館に入ると、戦艦陸奥の100分の1の精巧な模型が展示されています。解説ボランティアの方がいて、丁寧に説明もしてくださいます。

    このパネルは、明治22年当時の横須賀製鉄所(造船所)を紹介したものです。

 元横須賀製鉄所の向かいにヴェルニー記念館が位置しているので、下にある位置図と照らして当時の様子を想像することができます。

 これは、横須賀製鉄所に当時据え付けられていたスチームハンマーの実物展示で、当時オランダから輸入されたものです。

蒸気の圧力で大型の鉄の加工を可能にするもので、これにより国内で艦船が造れるようになりました。

 ヴェルニー公園から海上自衛隊の艦船を見ることができます。時代は変わりましたが、横須賀港が担っている軍港としての役割は今も継承されているのがわかります。

 下の艦船は、「いかづち」という護衛艦です。

 こちらは海上自衛隊の潜水艦で「たいげい」だと思います。横須賀港にはこうした海上自衛隊の軍艦などのほか、アメリカ海軍のイージス艦や大型潜水艦なども停泊しています。

 横須賀港にはクルーズ船「 YOKOSUKA軍港めぐり」が就航していて、港湾施設内にある海上自衛隊アメリカ海軍の軍艦や潜水艦を間近で見ることができます。

 ヴェルニー公園の中央には、ヴェルニーさんの胸像があります。

 ヴェルニーさんの隣には「小栗上野介忠順」の胸像があります。

 小栗上野介忠順は、日本初の遣米使節を務め、外国奉行勘定奉行など徳川幕府末期の要職を歴任し、フランスの支援のもと、横須賀製鉄所(造船所)の建設を進めた方です。

 大政奉還後も、徹底抗戦を主張していたため役職を解かれ、領地の上野国田村(群馬県倉渕村)に移りますが、何の取調べもないまま、官軍により斬首されてしまいます。

私は前に童門冬二さんの小説「小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男」(集英社文庫)を読んだことがありました。

爆沈していた「戦艦三笠」

 さて、タイトルにあった「陸奥爆沈の謎」についてはまだ触れてませんでしたが、実は今も「不明」とされているのです。

 吉村昭の記録小説「陸奥爆沈」では、詳細に「査問委員会」の内容や経過、関係者による調書なども詳らかに書かれています。

 査問委員会では当初「自然発火説」を有力視していましたが、諸条件を考え合わせ実験を重ねた結果、装薬の自然発火は決してあり得ないことが確認されたということです。

ただし、常識では考えられないこととして、装薬缶の蓋が全て開けられていた時には装薬の発火により、誘爆を起こし、大爆発となることも判明したのです。

 実は、「戦艦陸奥」の爆沈以前にも、同様に停泊中に爆沈している軍艦がいくつかありました。そのうちの一つが、この「戦艦三笠」です。

 

 戦艦三笠は、日本海連合艦隊の旗艦として東郷平八郎の指揮のもと、ロシアのバルチック艦隊を殲滅し、日本側に勝利をもたらしたことは教科書で習いましたが船舶中に爆沈したことは知りませんでした。

 戦艦三笠の爆沈は、日本開戦から3ヶ月後の明治38年9月11日のことです。佐世保港に寄港していた時に爆発炎上し、その場で沈没してしまいます。やはり、この時も多数の死傷者を出しました。

 その後、査問委員会が開かれましたが、やはり解明には至りませんでした。

 原因については諸説ありますが、記録小説「陸奥爆沈」の中で、旧海軍技術少佐の福井静夫氏が「日本海戦に勝利をおさめ、浮き浮きした空気にあふれ、解放的な気分で祝酒も出されていた、その中の数人が深夜、火薬庫に酒を持ち込み宴をひらき、その時にローソクが倒れ、火薬に引火し、火薬庫が大爆発を起こした」と証言しています。

 「戦艦三笠」の爆沈についても最終的には、原因不明の事故として処理されているのです。

 

 戦艦三笠は、爆沈後、停泊していた海底が浅かったことから、引きあげて改修され、現役として第一次世界大戦にも参加します。

その後、ワシントン軍縮会議で廃艦が決まりますが、何とか解体を免れ、現在の横須賀新港にコンクリートで固定展示されることになったのです。

記念艦三笠」は横須賀新港の三笠公園に展示されています。

陸奥爆沈の謎

 話は「戦艦陸奥」に戻ります。戦艦三笠を含め乗組員の行為により、火薬庫爆発の事故を起こしているものが3件(「三笠」「磐手」「日進」)あります。他にも原因不明として2件(「松島」「河内」)あります。

 日本海軍は「戦艦陸奥」についても乗組員の行為ではないかと疑いを抱きます。そして、査問委員会は或る一人の人物を特定します。吉村昭の取材により当時技術少尉だった鈴木氏から名前が明かされます。

 特定されたQ二等兵曹は艦内で盗みをはたらいていたことから、軍法会議にかけられ処罰されることを恐れ、絶望的になり、罪状隠滅のため火薬庫に入り、火を放ったというのです。

しかし、Q二等兵曹の行方は分からず、死体も確認できないことから今も謎とされています。

下の写真は、戦艦三笠の主砲です。

戦艦陸奥爆沈に秘められた衝撃的な事実

 小説「陸奥爆沈」の「あとがき」に、ミステリーを思わせるような衝撃的な事実が語られていました。

この作品が単行本として出版された頃、瀬戸内海に沈む戦艦「陸奥」の引揚げ準備が進められていたが、間もなく実施に移された。

昭和四十五年七月二十三日、まず砲塔が二十七年ぶりに海面から姿を現わした。

その内部からは一体の遺骨と印鑑二個が発見されたが、印鑑の一個にはQ氏の姓、他の一個には姓と名が刻まれていた。

これをどのように解釈すべきか、私の判断の範囲外にある。

 戦艦陸奥の資料については、横須賀の他に「陸奥記念館」(周防大島)等にもあることがわかりましたので、日本海軍の重要拠点であった瀬戸内海の柱島泊地にも訪れてみたいと思いました。

 横須賀新港に固定展示された「記念艦三笠」から、無人島の「猿島」がよく見えます。この「猿島」は幕末から要塞の島でした。日本で初めて築かれた台場も「猿島」です。島内には今も当時の要塞の足跡が残されています。桟橋から10分ほどで上陸することができます。

 

河井継之助と山本五十六を生んだ新潟県長岡のまちを訪ねて

吉村昭「戦史の証言者たち」- 山本連合艦隊司令長官の戦死-から

 吉村昭のお墓のある越後湯沢で一泊し、翌日、河井継之助山本五十六を生んだ長岡の町を探訪しました。

 吉村昭の著書で「山本五十六」を扱ったものとしては、「海軍乙事件」(文春文庫)、「戦史の証言者たち」(文春文庫)などがあります。

 「海軍乙事件」には、山本長官の護衛に当たっていた零式戦闘機操縦者 柳谷謙治氏の取材をもとに「海軍甲事件」の全容が記されています。その内容から「イ号作戦」の労をねぎらうために向かった視察計画があまりにも無防備だったことが分かります。また、山本五十六の最期の様子や長い間死亡が秘匿されていた事実も知ることができます。

 取材そのものを記録した「戦史の証言者たち」は、証言者の取材を通して、戦争に加担した「ヒト」をフォーカスすることで、戦争の実相を私たちに伝えているように思います。

 「山本五十六記念館」は、長岡駅から数分のところにあります。記念館の中央には墜落によりちぎれ破損した「長官搭乗機の左翼」が展示されています。これは、アメリカ軍のP38ライトニング16機により撃墜された山本長官ら11名が搭乗していた海軍一式陸上攻撃機の残骸で、1989年にパプアニューギニア政府の厚意により里帰りしたものです。(展示は撮影禁止のため写真はありません)

 このアメリカ軍のP38ライトニング16機の攻撃に際し、護衛していた一人が柳谷謙治氏でした。護衛していたのは僅か6機で、柳谷氏以外はその後戦死されています。

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 「山本五十六記念館」に隣接している「山本記念公園」には、山本(旧姓「高野家」跡)五十六の生家や銅像があります。

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 長岡市は、昭和20年8月1日に凄まじい大空襲を受け、市街地の8割が焼失しているので、この生家も復元されたものですが、当時の生活の雰囲気を感じることができます。

 天井の低い2階に上がると、五十六が海軍兵学校に入るために猛勉強した二畳間があります。

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長岡藩軍事総督「河井継之助」と長岡

 また、「山本五十六記念館」の近くには「河井継之助記念館」があります。何年か前に、司馬遼太郎の「峠」を読んでいたことと、役所広司松たか子さんが主演をされている映画「最後のサムライ峠」が先月公開され、観ていることもあって、興味深く見学しました。

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 長岡市が生んだ河井継之助山本五十六の共通点は、最後まで戦争に反対しながらも、戦争の旗頭に立たざるを得なかったこと、もう一つは、河井継之助を描いた映画「最後のサムライ峠」と山本五十六を描いた映画「聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-」(原作:半藤一利)の両方の映画で主人公を役所広司さんが演じていること(笑)。

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 小千谷市にある「慈眼寺」です。慶応4年(1868年)5月2日、長岡藩軍事総督河井継之助が戦争回避のため、土佐藩出身24歳の新政府軍軍監岩村精一郎との「小千谷談判」に臨んだ場所です。「会見の間」が今でも大切に保存されています。

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 小千谷談判で決裂し、止むを得ず戦いを決意した継之助が本陣を置いた「光福寺」です。摂田屋にあります。ここには最新鋭のガトリング砲と洋式武装した藩兵が配備されていました。

 長岡はこうして奥羽25藩と越後6藩で結成された「奥羽越列藩同盟」の先陣を切って、北越戊辰戦争の激戦へと運命を辿っていきます。

 圧倒的な新政府軍の兵力は越後平野を覆い尽くし、町は火の海と化し、激戦を強いられる中、河井継之助は新政府軍の銃撃により左足に重傷を負います。僅かな残兵は苦難の「八十里越」を経て会津に向かうことになります。峠を越え、逗留した只見(塩沢)では幕府侍医の松本良順から治療を受けますが、尽力も虚しく河井継之助はここで息を引き取ります。

 河井継之助の墓は、長岡駅から徒歩10分ほどの「栄涼寺」にあります。栄涼寺は長岡藩主牧野氏の菩提寺でもあり、歴代藩主の墓のほか、戊辰戦争で亡くなった藩士や太平洋戦争で命を落とした町民の慰霊碑があります。

 河井継之助の墓は、見ての通り傷だらけです。墓石に刻まれた文字も読むことができません。河井継之助記念館の職員に伺ったところ、「河井継之助の判断で新政府軍との戦争に巻き込まれ、戦禍を受けた町民にとって、河井継之助に対する思いは複雑だったのです。今回の映画を観て多くの方が記念館に足を運んでいただけて嬉しい」と胸のうちを聞かせてくれました。

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 小千谷市の船岡公園に新政府軍199人が埋葬されている西軍墓地があります。

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 小高い山の頂にある船岡公園からは小千谷市内が一望できます。この地で北越戊辰戦争の火ぶたが切られました。遠くに見える川は信濃川です。

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歴史と文化が残る摂田屋の街並み

 ここからは長岡市の観光です。越後の銘酒などが並ぶ醸造のまち「摂田屋」です。下の写真は、銘酒「吉野川」の酒ミュージアム醸造」です。

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 館内に入ると醸造の解説や試飲コーナーなどがあり、楽しめます。

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 銘酒「吉野川」の酒ミュージアム醸造」の隣には、1926(大正15)年に建築された旧機那サフラン酒本舗の「鏝(こて)絵蔵」があります。この摂田屋界隈は、北越戊辰戦争、太平洋戦争の長岡空襲でも戦禍を逃れ、貴重な歴史と景観が残されています。

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 「鏝絵蔵」には十二支などをモチーフにした圧巻の鏝絵が施されていて、技術の高さに驚かされます。この「鏝絵蔵」は、以前、太田和彦さんが新居酒屋百選という番組でも紹介していたので楽しみにしていました。

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 ここも「摂田屋」の一角。江戸時代に始まった醤油造りの「越のむらさき」の景観は、とても素晴らしいです。明治10年竣工の社屋は登録有形文化財で、長岡市の第一回都市景観賞も受けているそうです。正面に見えるお稲荷様は「竹駒稲荷」。

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 「越のむらさき」と「竹駒稲荷」の間を抜けると、モダンな空間が広がっていました。

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 全景はこんな感じです。長岡市街は共通して路面が茶色です。これは冬季に融雪のために地下水(鉄分を含んでいる)を利用して路面に流しているからという説明書きがありました。正しいでしょうか。

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 2日目は長岡市内のビジネスホテルに宿泊しました。やはり、路面が茶色いですね。翌日は寺泊、三条市見附市を観光します。

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 終わり。

吉村昭 「わたしの普段着」・「味を追う旅」の舞台を歩く

吉村昭先生(命日7月31日)のお墓をお詣りしました

 吉村昭氏は平成18年7月31日未明に永眠されました。翌年の8月に生前に定めていた越後湯沢の墓所大野原霊苑」(湯沢町の町営墓地)に納骨されています。納骨を1年後としたのも遺言としていたからです。このことは、ご夫人の津村節子さんが吉村昭との思い出を綴った「遍路みち」(講談社文庫)に」にお書きになっています。一周忌の納骨のため骨壼を開けた瞬間、机に散った骨を無意識に口に入れる場面には胸を打たれます。

 「わたしの普段着」(新潮文庫)には、生前、吉村昭が越後湯沢に墓を建てるきっかけになった思いが綴られています、48ページの「雪国の墓」のところです。幕末にオランダ通詞をしていた堀辰之助を主人公にした歴史小説「黒船」(中央公論社)で、最愛の妻「美也」の墓に情景を重ねている記述があります。

並ぶ墓の頂きには、あたかも冠をつけたように雪がのこっている。東京で生まれ育った私には、見たこともない情景だった。爽やかな感動が胸にひろがった。美也の墓がすがすがしいものに感じられた。冬季には全く雪に埋もれている墓も春の到来とともに、雪がとけ、徐々に全身をあらわしてくる。

その時から自分の墓はぜひ雪国に、と思い、冬に雪におおわれる町の墓地に墓を建てたのだ。・・・

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自然石に自分で書いた「悠遠」という文字を彫らせただけの碑のようなもので、花立も線香立もない。

彼岸になっても雪の下に埋もれている雪国の墓はいやだ、と育子(津村節子さん)は反対したのだが、私の趣味だから、きみたちはどこでも好きな処へ墓を作れば良い、とこれも遺言にあった。(「遍路みち」)

 墓誌には戒名はありません。吉村昭の隣には「吉村節子」と朱で彫られています。

 湯沢町は、「大野原霊苑」(湯沢町の町営墓地)の入口に「作家 吉村昭氏 この大野原霊苑に眠る」という解説板を建てています。生前、吉村昭が町の人に慕われていたことがよく伝わってきます。

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作家の谷口桂子さんオススメの「しんばし」は最高でした

 お墓詣りの後、「吉村昭の人生作法」(中公新書ラクレ)という吉村昭ファンにはこの上なく嬉しい本をお書きになった作家の谷口桂子さんに情報をいただき、越後湯沢の「しんばし」というお蕎麦屋さんに行ってきました。吉村昭ご夫妻が常連だったというお店です。

 作家の谷口桂子さんは、昨年、「食と酒 吉村昭の流儀」(小学館文庫)という著書も出されていて、とても詳しいのです。プログもお書きになっているのでチェックしてみてください。

ameblo.jp

 実は、伺う前は、駅前のよくある古いお蕎麦屋さんのイメージだったのですが、来てみてビックリ。とても素敵な外観でオシャレ!。駅から少し離れていて、すでに午後2時を過ぎていたにもかかわらず、激混みという人気ぶり。

 親子2代で経営されているお店のようですが、従業員の方の応接も良く、何しろ、お蕎麦と天麩羅が最高でした。お目当てのカウンターに席を取ることができましたが、激混みだったので、残念ながら、御主人とお話しすることはできませんでした。

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 吉村昭が生前1ヶ月に1回訪れていた湯沢の町での生活ぶりは「味を追う旅」(河出文庫)の「湯沢の町の準住民」に書かれています。同じく「日本酒は花盛り」に吉村昭が好んでいた新潟県の銘酒も紹介されています。

 谷口桂子さんも著書「食と酒 吉村昭の流儀」でお書きになっているので、引用させていただきます。

同じく米どころの新潟産では、「久保田」「八海山」「白瀧」「雪中梅」「〆張鶴」をあげている。仕事場兼休養場として、越後湯沢に購入したマンションの近くの小料理屋でそれらの酒を口にした。自宅近くの吉祥寺の小料理屋で「越後鶴亀」をすすめられたが、これも新潟産で、「景虎」も愛飲していた。

越後湯沢駅吉村昭が愛飲した新潟産の銘酒をいただきました

 越後湯沢駅のショッピングモール(CoCoLo)はとても充実しています。さすが新幹線発着駅なのでそれもそのはず。特に、地酒の販売戦略はたいしたもの。店先に懐かしい風貌の昭和の某人がマスク(ここは令和)をしながら日本酒を振りかざしているのが目に入ります。

早速中に入ってみる事にしました。

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 こちらは日本酒の利き酒のできる「利酒番所」です。500円で5枚のコインと交換して、お猪口で好きなお酒が試飲できるというシステムです。つまみは「胡瓜」が100円で売られています。

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 目移りしてしまいますが、事前に吉村昭先生がご愛飲されていた銘酒を迷わずゲットすることができました。

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 最後の5枚目のコインで「景虎」をいただきました。気が焦っていたせいもあり、500円でほろ酔い気分になりました。

 果たして、吉村昭はこの場所をご存知だっただろうかと、ふと思いました。あらためて、越後湯沢は、吉村昭にとってこの上ない別荘の敵地だったに違いない。

同じフロアには、越後湯沢駅ナカ温泉「酒風呂 湯の沢」もあります。

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今回は、ここまでです。折角なので、次回は、「戦史の証言者たち」(文春文庫)の中から「山本連合艦隊司令長官の戦死」を取り上げながら、長岡市内を巡る旅をご紹介いたします。

吉村昭「白い遠景」-『私の生まれた家』から

「白い遠景」には吉村昭の作家の原点を浮き彫りにした初期の随筆がまとめられています。

その「白い遠景」の中に『私の生まれた家』というタイトルの随筆があります。

吉村昭の生家は東京の日暮里町(日暮里図書館の近く)にありましたが、空襲が激しくなった頃、その生家から少し離れた、現在の日暮里駅近くに父親が新築の家を建て、中学生だった吉村少年はその家に移り住みます。

その情景に触れた随筆の中から、今回訪ねた場所をいくつかご紹介します。

父は、谷中の墓地に近い場所に隠居所ともいうべき家を新築させていた。すでに子宮癌で病臥していた母のために作った家で、総檜作り数寄屋風の平屋であった。建坪は六十坪ほどで、庭は広く築山も作られていた

下の写真は、当時移り住んだ隠居所があった辺りです。

今は「ホテルラングウッド」になっています。駅から1分の立地で、吉村昭が日暮里を散策する際に、このホテルのレストランでサンドイッチとコーヒーの軽食を召し上がっていたそうです。

故郷で初めて講演をしたのもこの場所でした。また、平成18年に亡くなられた時の「お別れの会」もこの場所で催されています。

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「ホテルラングウッド」の近くに「禅性寺」という日蓮宗のお寺があります。

このお寺は、寛文4年(1664)に六代将軍徳川家宣の生母長昌院がここに葬られて以来、将軍家ゆかりの寺になっています。

家宣の弟松平清武がここに隠棲したため、しばしば将軍も訪れています。

また、上野戦争では彰義隊の屯所となりました。墓地には名横綱双葉山、政治家の石橋湛山の墓があります。

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禅性寺の前に、羽二重団子の老舗があります。

寺の前には、羽二重団子という老舗がノレンを垂らしている。少年時代、私は母に命じられてしばしば醤油焼きとつぶし餡の二種類の団子を買いにやらされた。主人夫婦は健在で、若主人夫婦も店にいる。変転きわまりない時代なのに、団子の味は私が少年時代に味わったものと変わらず、その店で団子を食べていると、生家の記憶が自然とよみがえってくる。姉、祖母、四兄、母、父と相ついで世を去った肉親のことが思い出され、自分が生きていることを不思議にも思ったりする。(「白い遠景」)

この羽二重団子の老舗は、夏目漱石の「我輩は猫である」にも登場してきます。また、近くに正岡子規が住んでいたことから、正岡子規の俳句でも詠まれています。

店内に入って、まず目に入るのは、正面のケースに入れられた刀剣や槍です。それらは、慶応4年の上野戦争の折に、芋坂を駆け下り、店に入り、縁の下に投げ入れたもので、百姓の野良着に変装して、日光奥羽方向に落ち延びて行ったということです。

ここにも上野戦争がありました。

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