玉泉寺は、日本で最初に米国総領事館が置かれたところで、ハリスが領事館で暮らしていた当時の資料が残されています。日米和親条約が締結されたことを聞き、その半年後に再度、プチャーチンは下田に訪れます。その交渉が行われたのもこの玉泉寺でした。写真は玉泉寺の山門の前です。露艦ディアナ号水平墓所と書かれています。
玉泉寺の本堂です。
玉泉寺は、日本で最初に米国総領事館が置かれたところで、ハリスが領事館で暮らしていた当時の資料が残されています。日米和親条約が締結されたことを聞き、その半年後に再度、プチャーチンは下田に訪れます。その交渉が行われたのもこの玉泉寺でした。写真は玉泉寺の山門の前です。露艦ディアナ号水平墓所と書かれています。
玉泉寺の本堂です。
吉村昭は、生まれ故郷である日暮里や上野界隈を舞台とした上野戦争を小説にすることを望んでいたものの、躊躇していたと創作ノートで触れています。
それは、一日で朝廷軍に敗れる彰義隊を描くことの難しさ故です。
しかし、ある時、上野寛永寺山主・輪王寺宮能久親王を主人公にすることを思いつくわけです。それまで、輪王寺宮は、寛永寺を本営とする彰義隊に守護されていましたが、彰義隊が朝廷軍に敗れたあと、どのように落ちのびていったのか定かでなかったのです。
皇族でありながら、戊辰戦争で朝敵となった輪王寺宮は、思いかけず朝敵となり、さらには会津、米沢、仙台と諸国を落ちのびていくのです。
吉村昭の最後の歴史小説「彰義隊」は、輪王寺宮の数奇な人生を通して江戸の終焉を描いた感動の作品です。
ここでは、現存する上野戦争にまつわる史跡や輪王寺宮の江戸での足跡を追ってみることにします。
まずは、吉村昭の生まれ故郷である日暮里駅から歩き始めます。遠方には東京スカイツリーが見えています。
吉村昭の最後の随筆集『ひとり旅』の中に「濁水の中を歩く輪王寺宮」の章があります。
私の生れ育ったのは、山手線沿線の日暮里町である。幕末の江戸切絵図には、「根岸、谷中、日暮里」としておさめられ、大半が田地とされている。高台から眺めると「日の暮るるを忘る」ほど景色が良く、江戸名勝地の一つとされていたことから「日暮しの里」日暮里となったのである。
日暮里駅南改札から石階段で高台に上がります。高台は、一面広大な谷中霊園です。道路に面した所に「経王寺」があります。
「経王寺」は、日蓮宗の寺院で山号を大黒山と称しています。慶応4年(1868)の上野戦争の時、敗走した彰義隊をかくまったため、朝廷軍の攻撃を受けることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っています。
境内に面した道を真っ直ぐ進むと、谷中銀座です。手前に「夕やけだんだん」があります。平日のしかも昼前ですが、結構賑やかです。最近では外国人観光客の姿が多いことに気がつきます。
ここから、谷中霊園、上野公園に目指して小径を歩きます。この辺りは、昔ながらの風情が残っていて歩くのも苦になりません。
この写真は、「初音小路」という小さな飲み屋街です。昭和レトロの佇まいが何とも言えません。
こちらは大正の頃の建物でしょうか。今も上手く建物を活かしているようです。
脇道に入ると築地塀(観音寺)も見ることができます。どこか遠くに来たような気がしてきます。この築地塀には、今も上野戦争の弾痕が残っていると言われています。国の登録有形文化財です。
この道沿いには、朝倉彫塑館や幸田露伴旧宅跡、北原白秋旧宅などがあります。また、おしゃれな小物を置いているお店もあって見所満載です。
谷中霊園は、街のなかにごく自然に溶け込んでいるような印象を与えています。
訪れるのは、徳川慶喜のお墓です。矢印で案内表示されているので、そのとおりに歩いていくと辿り着くことができます。
吉村昭の『彰義隊』は、第15代将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れ、江戸に逃げ帰るところから始まります。江戸に戻った慶喜は、賊徒、朝敵として厳罰を恐れ、自ら寛永寺に謹慎します。その後、和宮や勝海舟などの働きかけがあって、江戸は無血開城され、慶喜は水戸家で謹慎することになります。その間、上野寛永寺山主の輪王寺宮は慶喜の恭順の意を朝廷に伝えるために奔走していました。
その後、慶喜は、水戸から駿府(静岡)に移り謹慎します。謹慎が解かれた後も静岡に住み続け、明治30年になって、東京に転居します。そして大正2年、77歳で亡くなります。慶喜は、徳川家の菩提寺ではなく、谷中霊園内に墓地を設けます。お墓は写真のように神式によるものです。
一方、皇族の身にも拘らず、朝敵となった上野寛永寺山主の輪王寺宮は、上野戦争で彰義隊が敗北したことにより、身の危険を感じ、身寄りを訪ね一時身を隠します。しかし、朝廷軍の追っ手から逃れることが厳しいと思った輪王寺宮は、幕府艦船で奥州へと逃走の旅を始めるのです。果たしてその先で輪王寺宮に待ち受けているものは・・・。
谷中霊園の中に御隠殿坂(ごいんでんざか)という坂があります。これは、寛永寺から輪王寺宮の別邸に行くために設けられたもので、「鉄道線路を経て」と記されているとおり、現在も鉄道線路の高架橋に繋がっています。
寛永寺に向かう途中、行列ができているケーキ屋さんを発見。このケーキ屋さんは、「パティシエ イナムラショウゾウ」のお店でした。意外にも、並んでいるのは、高校生を含め、男性ばかりなのに驚きました。
谷中霊園に向き合うように寛永寺根本中堂(当時の根本中堂は上野公園の噴水広場の辺り)が建っています。日暮里駅からのんびり歩いて1時間ほどで到着します。
東叡山寛永寺は、天海大僧正が寛永2年(1625)に上野の山に造営したもので、比叡山が京都御所の鬼門であるように、江戸城の鬼門の守りを意図して造ったものです。輪王寺宮が山主を勤めてきたお寺です。鳥羽伏見の戦いに敗れ、逃げ帰った徳川慶喜はこのお寺の一室で謹慎をしていました。
東京国立博物館の隣に寛永寺内輪王寺宮墓地があります。輪王寺宮の墓地を見ることはできませんが、当時の寛永寺旧本坊表門を直に触れることができます。
上野戦争の際に撃たれた弾痕がいくつも残されています。
他にも、幕末の戦乱や寛永寺の面影を残す史跡が上野公園にあります。
上野公園噴水広場の横にあるプレートは、初代歌川広重による寛永寺全景を描いた浮世絵です。プレートの横には、寛永寺根本中堂跡の解説板があり、当時この場所に寛永寺根本中堂をはじめ、伽藍が建てられていたことがわかります。慶応4年の上野戦争で焼き払われています。
現在の噴水広場の様子です。突き当たりに見える建物は東京国立博物館です。上野戦争で焼き払われるまで、ここに東叡山寛永寺の伽藍がありました。
現在、その場所にはたくさんのカラーコーンが置かれていますが、一体何だと思いますか。上野動物園のパンダの赤ちゃん「香香(シャンシャン)」の入場整理券を待つ人用に急遽設けられたもののようです。今だに何千人もの人が並ぶそうですよ。
こちらは、1651年(慶安4年)に三代将軍徳川家光が造営した上野東照宮です。上野戦争で寛永寺の伽藍が焼失してしまいましたが、この上野東照宮には火の手が及びませんでした。
何年か前に化粧替えしたので美しい姿が蘇っています。
その先に寛永8年(1631年)に建立された上野大仏様があります。この大仏様は、安政大地震や関東大地震の際に頭部が落下し、第二次大戦では胴体部分が軍需のため金属供出されてしまいます。今では、「これ以上落ちない」ということから受験の神様として崇められています。隠れたパワースポットですね。
上野大仏前の植え込みに新潟県の草花「雪割草」が可憐に咲いていました。
京都の清水寺になぞらえて建立した清水観音堂。上野戦争や関東大震災からも免れました。
正面に立つ「月の松」は、平成24年に再建されたもの。歌川広重の浮世絵「名所江戸百景」にも描かれています。
清水観音堂に上がり、「月の松」から先を望むと不忍池の弁財天が見えます。
不忍池の弁財堂は、琵琶湖に浮かぶ小さな島「竹生島」のお堂を見立てて造営したものです。6月下旬から8月上旬には蓮の花が湖面いっぱいに咲き誇ります。
慶應4年(1868)5月15日朝、大村益次郎指揮による朝廷軍は上野を総攻撃します。いわゆる上野戦争です。朝廷軍が備えた最新の銃器の効果は大きく、彰義隊は夕刻にはほぼ全滅し、一部の者たちが根岸方面に敗走していきます。あらかじめ、大村増次郎が被害を大きくしないようにわざと敗走できるようにと根岸方面の一角に軍隊を配置しないでいたためです。
彰義隊士の遺体は上野山内に放置されていましたが、南千住の円通寺の住職らによってこの場所で荼毘に付されました。彰義隊は明治政府にとって賊軍であったため、政府を憚って、墓標には「彰義隊」の文字はありません。旧幕臣山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字が墓標に刻まれています。一部の遺骨は南千住の円通寺に埋葬されています。
彰義隊の墓の近くに、有名な西郷隆盛像があります。明治31年(1898)に建設されています。高村光雲の作です。設置場所については、議論が重ねられたようですが、西郷隆盛ゆかりの地ということで、上野に落ち着いたようです。
上野公園の玄関口では桜が満開です。この桜の木が上野公園が最も早く咲く大寒桜です。ここから上野広小路を抜けて、湯島天神(神社)に向かいます。
路地の先に湯島天神が見えます。路地を抜け、女坂の階段を上がります。この辺り一帯は江戸の頃は茶屋街があって随分と賑わいがあったそうです。写真の建物にも風情を感じます。
受験シーズンも終わり、学生の姿は見えませんが、ぎっしりと飾られた絵馬やおみくじに受験の神様の人気ぶりが現れています。この湯島天神に朝廷軍が駐屯していました。
上野から都営浅草線に乗り、田原町駅で下車します。しばらく歩くと、彰義隊が結成された浅草東本願寺があります。残念ながら当時を偲ぶものはありません。
浅草東本願寺から合羽橋道具街方面に10分ほど歩いた所に「東光院」があります。このお寺は、上野の戦渦から抜け出た輪王寺宮がお付きの者と土砂降りの雨の中を必死で上野から逃れ、最初に身を寄せた場所です。この後、市ヶ谷の自証院に匿ってもらいます。
南千住駅から徒歩10分程の円通寺があります。
円通寺は、彰義隊をはじめ旧幕臣の墓石などがあります。また、上野戦争の象徴とも言える凄まじい戦闘による弾痕跡が残る黒門を見ることができます。
上野戦争の発端は、江戸は無血開城となったものの、これを認めずに、気勢をあげる彰義隊は日に日に、勢力を拡大していきました。そしてついには上野戦争が勃発し、その圧倒的な戦力差に彰義隊は、わずか一日で敗れます。
斃れた隊士の遺体は、朝敵ということで、野ざらしとされ上野の山は、地獄の様相となったと言われています。
この様子に、さすがに見かねた「円通寺」の住職である仏麿和尚らが協力し、彼らの遺体の一部である266体の遺体を「円通寺」に埋葬したのです。このような縁から現在、荒川区南千住の「円通寺」には、彰義隊をはじめ、新政府軍に戦いを挑んでいった旧幕臣らの墓や碑が数多く建立されています。
上野戦争の激戦地、黒門口に建てられていた「黒門」。無数の銃弾痕が、生々しく激戦の様子を伝えています。
墓石は、榎本武揚によって建てられました。墓碑銘も榎本の筆によるものです。
吉川英治の小説「松のや露八」の主人公として知られる松廼家露八こと土肥庄次郎の碑。碑の題字は榎本武揚によるもの。残念ながら、碑の上部が折れてしまっています。
江戸を脱し、木更津で戦死した旧幕臣、中田正廣の碑。正面の題字は榎本武揚の筆、碑文は山岡鉄舟の長男山岡直記によるものです。
朝廷軍の追っ手が忍び寄る中、輪王寺宮は江戸から離れる決意をし、会津、米沢、仙台と諸国を落ちのび、数奇な人生を送ることになります。
「安政七年(1860)三月三日、雪にけむる江戸城桜田門外に轟いた一発の銃声と激しい斬りあいが、幕末の日本に大きな転機をもたらした。安政の大獄、無勅許の開国等で独断専行する井伊大老を暗殺したこの事件を機に、水戸藩におこって幕政改革をめざした尊王攘夷思想は、倒幕運動へと変わっていく。襲撃現場の指揮者・関鉄之助を主人公に、桜田事変の全貌を描ききった歴史小説の大作」(著作案内から)
「鉄之介は、稲葉屋の男に案内されて最後の打合わせ場所である相模屋に行った。土蔵相模と称されているように土蔵づくりの大きな妓楼で、かれは玄関に入った。」
すでに当時の建物はなく、相模屋の跡にはお洒落なマンションが建っていました。稲毛屋もその並びにあったようです。
鉄之介は、最後に岡部三十郎と部屋を出た。・・・激しい降雪だった。・・・高輪南町の海ぞいの道を選んだ。」
下の写真は、江戸の南玄関、高輪大木戸の跡。
「・・・二人は塀ぞいの道を右へ進み、綱坂をのぼった。雪がすべり、何度か手をついた」
「登り坂がつづき、中の橋を渡った。」
「山上には愛宕権現の社があって、かたわらに茶屋があり、縁台に腰かけている多くの男の姿が見えた。」
皆さん、息を切らしながらお参りされています。
「雪につつまれた行列が近づき、藩主の華やかな駕籠が目の前をすぎた。短い橋を渡って桜田門の中に吸いこまれるように入ってゆく。その時、短銃の発射音が一発とどろき、それまで濠端と松平大隈守の屋敷の塀ぎわに立っていた同志たちが、一斉に抜刀して切り込んだ。」「指揮官の関鉄之助は膝を震わせながら見守っていた。」「かれらは、三々五々、濠沿いの道を、或る者は血刀をさげ、或る者は傷口に手をあてて歩き、日比谷門を左折した。・・・濠ぞいに北へとむかい、馬場先門前を過ぎた。」
・・・当時の住職が助けて事情をきくと、もしも藩邸にもどれば、なぜ死ぬまで藩主を守って闘わなかったのか、となじられ、必ず切腹を命じられる。それが怖しく、ここまで逃げてきた、と言った。
実際に広福寺に訪れてみました。
先週末に読み終えた吉村昭さんの「闇を裂く道」が頭から離れず、渋滞を覚悟で、小説の舞台となった丹那トンネルと丹那盆地を巡ることにしました。
この小説は、東海道の熱海と三島の間を貫く丹那トンネルを開通させるまでの自然と人間の闘いをテーマにしたもので、この一帯が富士火山帯の謎の地層の地底を貫くという悪条件が重なる世界でも例を見ない難工事となった物語です。
まず、小説「闇を裂く道」から、吉村昭さんの「あとがき」を紹介します。
「両親は、静岡県出身で、父の菩提寺も静岡県富士市にある。静岡新聞から連載小説の依頼をうけた私は、・・・寺での帰途、普通電車で熱海に向かう途中、右手の沿線に立つ碑が視線をかすめ過ぎた。大正7年に起工し、16年を費やし完工した旧丹那トンネルの殉難者の慰霊碑で、私は、ほとんど瞬間的に、このトンネル工事の経過とそれに附随した事柄を書くことをきめた。」
この写真は、来宮駅から10分ほど歩いた所にある現役の東海道本線の丹那トンネルの入口です。上部にある銅板の数字「2578」は、丹那トンネル工事着工の西暦1918年を日本の皇紀で表したものです。右手には、「2594」(西暦1934年)の銅板があるのですが、蔦が絡み付いていて見えません。歴史が感じられます。
「明治維新が成って、明治5年5月7日、東京の品川、横浜間に敷設されたレールに初めて汽車が走った。」「明治中期までは、熱海へゆく湯治や避寒者は、小田原から歩く者が多かったが、人力車や駕籠に乗ってゆく者もいた。
・・・横浜から鉄道は、西にのびて国府津に達したが、そこから沼津までの工事は難航した。箱根越えの路線(御殿場線)で、急勾配が連続し、トンネルも7ヶ所うがたねばならなかった。明治22年2月1日、ようやくその工事を終え、新橋、静岡間が開通した。
・・・鉄道院内では、この急勾配の箱根線を通らぬ新しい路線を建設し、東海道線の輸送力を増強させるべきだ、という意見がたかまった。
・・・しかし、箱根から天城にかけては山脈がつづいていて、当然、その山脈をつらぬく長いトンネルを建設しなければならない。」
上の図は、当時、鉄道院が作成した計画図面です。朱色の線が、新たに敷設する東海道本線の路線です。下段は、丹那トンネルの計画図面です。
大正7年にトンネルは、熱海、三島両方面から中心に向かって掘り進むことになり、熱海側は、鉄道工業会社、三島側が鹿島組が選ばれました。7年後の大正14年に完成する予定でしたが、工事現場は、大量の湧水や崩壊事故、断層帯の突破などに阻まれ、工事は16年と大幅に遅れました。
丹那トンネル工事の犠牲者は、67名にものぼり、いかに難工事であったかが伺えます。
熱海口には、慰霊碑と丹那神社が建立されています。下の写真は、殉難者の慰霊碑です。
慰霊碑は、丹那トンネル入口の上部にあります。銅板には、亡くなった方の御名前が刻まれています。
通路を挟んで山側に丹那神社があります。
丹那神社の脇に「救命石」が大切に保存されています。
工事中に、落石があり、撤去作業が必要になりました。もし落石がなければ、大きな落盤事故に遭遇していたため、救命石として、祀られています。
丹那トンネルは、熱海口から鷹ノ巣山を抜け、丹那盆地の160メートル下を東西に貫いています。
計画当初は、ボーリング調査もなく、地表の状態等で実施決定をしましたが、実は、丹那盆地の中央には、丹那断層が南北を貫いており、丹那トンネルと交錯していました。そして、1930年、湧水のためトンネル工事が中断している最中に北伊豆地震が発生するのです。
新丹那トンネルとは、後に新幹線のためにつくられたトンネルで丹那トンネルと平行して作られました。
鷹ノ巣山から丹那盆地に向かう途中の車窓から丹那盆地の一帯を撮りました。
トンネル工事前の丹那盆地は、湧水が豊富なことから田んぼとワサビ田が主な産業だったそうです。その後、丹那トンネル工事により、湧水はトンネル内に浸み出し、盆地の川や井戸、湧水は枯渇し、日常生活も困難な状況に追い込まれていきました。
村の産業は、それまでの稲作とわさび田から一変し、畑と酪農を中心とする産業へと変貌を遂げざるを得ませんでした。
丹那盆地の中央にある酪農王国オラッチェ。オラッチェには、小動物とふれあうことができる公園とレストラン、牛舎があります。この連休中は、バーベキューセットと丹那の地ビールが付いて1,600円という特別企画中で、しかもペットokの場所なので美味しくいただくことができました。
オラッチェの隣りには、丹那牛乳の工場があります。丹那牛乳はとても美味しい牛乳なので、是非お土産にと思っていました。が、残念ながら、売れ切れでした。
気を取り直して、丹那盆地を散策することにしました。
丹那盆地の中央に丹那断層があります。
現在は、国指定天然記念物「丹那断層」公園として保存整備されています。
指定地には、当時の水路の石垣が活断層により、水平に横ズレが生じていることが良く分かります。奥には、断層地下観察室があります。
活断層のズレは、約2・6メートルにも達していました。
断層地下観察室にある左右の断層面にもズレが生じていることがわかります。
中央の亀裂が断層です。
かつて村の中央を流れ、豊かな水量が水田やワサビ田を潤していた柿沢川ですが、今はその川の流れを見ることはできません。
丹那断層公園から5キロメートルほど山あいを登ったところに火雷神社があります。中央にある鳥居と階段は、北伊豆地震以後につくられたものです。当時の倒壊した鳥居がそのまま遺されています(写真右下)。
倒壊した鳥居と途中でずれてしまった階段が当時のまま遺されています。
階段上から撮った写真です。地震により鳥居が倒れ、階段がズレているのがわかります。当時のまま遺されていることに驚きました。
1930年11月26日に起きた北伊豆地震の震度です。
丹那トンネルに断層のズレが生じていました。
「岩肌が鏡のようになめらかになっているのは、粘土質の東西の地塊が断層線を境にして、互いにこすり合いながら動いたからであった。」
「時事新報の主催の丹那研究会の座談会は、12月6日午前11時半から東京会館でもようされた。
・・・今後、工事中に同じ規模の地震が起きたら危険ではないか、という記者の質問に、脇水博士は、地震が起きてエネルギーが消散したので、今後100年から300年は、今回のような地震は起こらないと思う。と言った。」
・・・「北伊豆地震の後、徹底した水の排水と大量のセメント注入により、三島口坑道作業は、最大の難関を越えることができたのである。」
そして、丹那盆地をあとにしました。
「大陸での緊張も増し、昭和12年7月には、北京郊外の盧溝橋で日本軍と中国軍との間で衝突が起こり、中国との全面戦争になった。・・・中国大陸での戦域が広がるにつれ、東海道、山陽線の兵員、軍需物資の輸送量が増し、大陸への連絡も密になった。これらの問題を解決しなければならぬという声が昭和13年末ごろから起こり、鉄道省建設局では超高速で走る弾丸列車計画を立案した。」・・・「新丹那トンネルは、東海道線の丹那トンネルと50メートルへだたった位置を平行して掘削することになっていた。ただし、丹那トンネル工事は大湧水になやまされたので、地下水の流れる所より5メートル上方に掘ることが決定していた。」
「全線の試験運転が繰り返され、10月1日に開業した。その日、午前6時、第1号列車の「ひかり」が東京駅を発車した。アイボリーと青に塗り分けられた電車は西へと疾走し、新丹那トンネルに驚異的な速度ですべりこんでいった。」
新丹那トンネルにカメラを向けた瞬間、東海道新幹線がトンネルに飛び込んでいきました。丹那トンネル工事では、自然の脅威をまざまざと見せつけられることになりましたが、尊い命を失いながら、困難に立ち向かう日本人の不屈の精神を見た気がしました。北伊豆地震から今年で87年目を迎えます。
吉村昭 史伝「暁の旅人」は、松本良順の生涯を描く事を通して、幕末から明治維新に進む過程で起こった史実を描いています。
私は、若い頃、神奈川県平塚市に住んでいました。その頃、自転車でよく大磯の浜辺「照ケ崎海水浴場」に行っては、釣りを楽しんでいました。その場所が、明治の時代に日本で初めて開かれた海水浴場で、しかも「暁の旅人」の主人公、松本良順が広めたということは、恥ずかしながら、今まで知りませんでした。
正直なところ、松本良順という人の名前を見たことはありましたが、どういう人物なのかは知らなかったのです。
今回、読んだ「暁の旅人」は偶然手にしたのではなく、読む動機があったのです。
それは、今年(2018年)の正月、初詣に浅草の「今戸神社」に行ったことがきっかけでした。
今戸神社は、浅草寺から隅田川沿いに1キロほど離れた場所にあるので、外国人観光客で身動きできない雷門あたりとは違い、下町の住宅街にある静かな佇まいの神社です。
ですが、どこの町や村にもある鎮守様と違って、江戸時代には三代将軍徳川家光の庇護を受けていた由緒ある社なのです。
今戸神社の記事は「猫たちがご縁を招く♡都内最強の 縁結び神社・今戸神社」で紹介していますので、そちらもご覧ください。www.mondo7.site
「今戸神社」は、最近、招き猫がご縁を招くパワースポットとして女性雑誌「Hanako」などにも特集されていて、そのせいか、女子やカップルが多く、この日も拝殿まで30分待ちの長蛇の列ができていました。その拝殿には、今戸神社の御神体とも言える大きな招き猫が2体置かれています。
そもそも、この辺りは今戸焼の発祥の地で、江戸時代には今戸焼の招き猫が一大ブームになったいたようで、その名残でもあるのです。拝殿の前には「今戸焼の発祥の地」と書かれた石碑もあるので、こちらも一見の価値があります。
ちなみに、正式なご祭神は、国産み・神生みの「イザナギノミコト」「イザナミノミコト」の夫婦神でして、そこから招き猫も「なぎちゃん」「なみちゃん」と名前が付けられているのだそうです。
この「今戸焼の発祥の地」の石碑の隣に、もう一つ小さい石碑が建てられています。
そこには、「沖田総司の終焉の地碑」とあります。石碑の裏には「慶応四年三月三十日没」と刻まれていました。また、この境内にかつて松本良順寓居があったということです。
沖田総司といえば、新撰組のイケメン。剣の腕前も新撰組の中でもずば抜けた剣豪で、新撰組一番隊組長として重要な任務をまかせられていました。池田屋事件では近藤勇とともに最初にに池田屋に踏み込んでいます。しかし、その後、肺結核を患い、鳥羽伏見の戦いにも参戦できず、鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、他の隊員とともに幕府の艦船「富士山丸」で江戸に戻り、しばらく神田泉橋にある幕府医学所に入院していました。
その幕府医学所(東大医学部前身)の頭取が松本良順だったのです。その後も、松本良順は、徳川家の侍医となり、第14代徳川家持の治療にも当たっていたのです。
実は、多くの日本人は「松本良順」の顔を見たことがあります。というか、一度や二度はお世話になっているのではないでしょうか。まわりくどい言い方をしてしまいましたが、ある薬のパッケージに良順の顔写真がトレードマークになっているからです。
その薬とは、奈良の日本医薬品製造株式会社の征露丸です。今は大幸薬品の正露丸を目にする方が多いかと思いますが、征露丸の名称の方が歴史的には古いようです。
さて、実際、今戸神社に寓居を構えていた松本良順とはどんな人物だったでしょうか。そして、今戸神社で亡くなった新撰組の沖田総司と松本良順との出会いとは。色々な興味が湧いてくるではありませんか。
その疑問に答えてくれたのが、吉村昭著「暁の旅人」(講談社文庫)でした。
松本良順は、天保3年(1832)に、順天堂を開いた佐藤泰然の次男として生まれました。そして、父の親友であった幕府の医師(奥医師)松本良甫のところに養子に行っています。その娘で1歳年上の登喜と結婚します。松本良甫も蘭方医として西洋医学を学んでいたので、自然に良順も西洋医学の道に進みたいと考えていました。当時、長崎には幕府の海軍伝習所が設けられていて、日本人に軍艦の操縦を伝習するためにオランダから一行が派遣されていました。その中に数名の医者が含まれていました。その中の一人ポンペから西洋医学を学ぶため良順は江戸から長崎に行ったのです。
ここで、松本良順の実父の佐藤泰然について触れておきたいと思います。佐藤泰然は、武蔵国(現神奈川県)川崎にて佐藤藤佐(とうすけ)の子として生まれます。天保6年(1835)より長崎に留学し3年間オランダ医学を学び、その後天保9年(1838)、江戸日本橋薬研堀に蘭医学塾「和田塾」を開きます。天保14年(1843)、佐倉へ移住し「順天堂」を開いています。のちに泰然の養子となった佐藤尚中が順天堂病院を東京につくります。
佐藤泰然が開いた蘭医塾「和田塾」跡は薬研堀不動院(川崎大師東京別院)の駐車場の横にあります。
松本良順は、長崎で5年間にわたり最新の西洋医学を実証的に学び、江戸に帰ってきました。そして、神田泉橋にある幕府の医学所で頭取になりました。医学所頭取になって2年後、医学所に新撰組の近藤勇が訪れます。目的は、松本良順に外国というものがどういうものなのかを聴きに来たのです。当時、尊皇攘夷派を容赦なく斬殺してきた新選組としても外国の事情を知る必要があったのです。
翌年、松本良順は、将軍の侍医として京都に帯同します。滞在中に再び近藤勇が訪れ、松本良順も新撰組屯所の京都 西本願寺に行き、新撰組の健康管理の指導をしています。
やがて、鳥羽伏見の戦いがあり、幕府側は、薩長を中心とする官軍に圧倒的な兵器の差で大敗します。その後、官軍は江戸に入ってくるのです。その頃、松本良順は、神田泉橋にある幕府の医学所では官軍が攻め入ることが予想できていたため、療養中だった沖田総司らを連れて、より安全な浅草今戸の祥福寺や私邸の今戸八幡(現在の今戸神社)で治療を続けていたと考えられます。
その後、江戸の無血開城が行われると松本良順は「幕府の医者として幕府に殉じる」と言って、江戸を脱し、会津に行き、負傷者の手当などをします。会津の陥落を機に、さらに北上して庄内に行きます。その頃、仙台に来ていた幕府海軍の指揮官 榎本武揚から蝦夷(北海道)に新政府を樹立すため同行を求められます。しかし、土方歳三の助言を受け、江戸に戻ることになります。
仙台からオランダ船で江戸に向かうものの、横浜で幽閉されます。1年半後に釈放されて、早稲田に私立病院を建設し、今日の病院の基礎を作り上げます。その後、新政府の山縣有朋が病院に訪れ、陸軍の軍医部をつくる協力を求められます。最終的には、山縣有朋の申し出を受け入れ、初代の軍医総監になるのです。松本良順はこの頃名前を松本順と改名ています。のちに軍医総監を辞した松本順は、明治の中頃名もない一漁村だった大磯町に別荘を持ち、学術的に如何に同海岸が人間健康に理想的であるかを研究し、大磯に日本で初めて海水浴場を開きました。それが広まり、大磯に多くの政財界人が大磯に別荘地をつくるようになります。なんと、歴代宰相だけでも、伊藤博文・山県有朋・大隈重信・西園寺公望・寺内正毅・原敬・加藤高明・吉田茂の8名が大磯に別荘や邸宅を構えます。
日本で最初の海水浴場として紹介された「照ケ崎海水浴場」には、松本順氏の功績を世に永く伝えるため「松本先生謝恩碑」(昭和4(1929)年8月)が建立されています。
松本良順の軌跡は、吉村昭著「曉の旅人」に書かれていますが、この歴史小説を元に2002年12月25日に順天堂大学有山記念館講堂で吉村昭自身が講演を行なっています。その記録は、岩波現代文庫「白い道」(吉村昭著)の「曉の旅人」創作ノートとして収録されています。
その中で、吉村昭は、「私は、この良順のことを書いていて、幕府に忠誠を誓った一徹ななところが非常に好きでした。松本良順が最高に幸せだったのは、実証主義のポンペという西洋の医者に習って実証的な医学を身につけたこと、これが最大の幸せなのではないかと思います」と語っています。
また、松本良順の実の父親である佐藤泰然に対しては、「佐藤泰然という人に僕はとても感動しているのですが、自分が死に近付いたことが医者なのでわかるわけです。もう確実に死ぬと。そのときに泰然はどういうことを考えたか。(略)彼は食を絶ったわけです。さらに医薬品の供給も絶ちました。つまり、一つの自殺ですね。今は延命と言いますか(略)死というのはもっと厳粛なものだと私は思います。自然に訪れるものであると。(略)死は自然に受け入れるべきだと思います。佐藤泰然という人は、生きている人間のために医薬品の供給を絶つ。食物も絶つ。これは素晴らしい人だと思います。私も泰然のような死に方をしたいと思っています」と記しています。
この講演から4年後、吉村昭さんは東京都三鷹市にある井の頭公園近くの自宅で息を引き取りました。奥様で作家の津村節子さんは「お別れの会」で「前日、点滴の管と、首の静脈に埋め込まれた薬剤などを注入するためのカテーテルポートを自ら引き抜き、看病していた長女に「死ぬよ」と宣言。看護師にも「もういいです」と告げて息を引き取った」と話されています。
末國善己さんが解説をお書きになっていますが、その中で、
「古い制度を破壊するためのエネルギッシュに働く「胡蝶の夢」と比べると、吉村の描く良順は地味な印象は拭えないが、これは歴史小説と史伝の違いにほかならない。ただ、本書には、司馬作品とは異なる魅力があるのだ。」
と書かれています。私もきっと、吉村昭は松本良順を描きたかったのだと思います。そして、松本良順の生涯を描く中で、幕末から維新への道程の史実を伝えたかったのだと感じました。今回も吉村昭の世界を味わうことができました。ありがとうございます。
の書き出しから始まる吉村昭の小説『生麦事件』。
その事件は、文久2(1862)年9月14日、横浜郊外の生麦村で起こりました。薩摩藩、島津久光の大名行列に騎馬のイギリス人4人が遭遇し、このうち1名を薩摩藩士が斬殺したもので、この事件により、薩英戦争が勃発し、倒幕へと大きく時代が変わることとなるのです。
今回は、薩摩藩下屋敷から発駕した久光の大名行列が生麦事件と遭遇した場面を中心にゆかりの地を巡ってみました。
薩摩藩下屋敷は、現在のJR田町駅周辺でした。当時の面影はありませんが、日本電気本社ビルの植込みに「薩摩屋敷跡」の石碑があります。
正面に見えるのが、日本電気本社ビルです。ちなみにこの道は、「芝さつまの道」と名付けられています。
セレスティンホテルと三井住友信託銀行芝ビルとの間に薩摩藩下屋敷跡の象徴展示があります。
展示には、安政4年の江戸切絵図があり、薩摩藩邸の位置と広さがわかります。
芝さつまの道を歩いていると、一角に薩摩藩の家紋「丸に十の字」を描いた御影石の腰掛けがありました。
生麦事件の前年の文久元(1861)年5月には、水戸浪士等がイギリス公使の品川東漸寺を襲撃する事件が起きるなど、攘夷による外国人との不測の事態が生じる恐れがあり、不穏な空気が立ち込めていました。
「久光の乗物は品川大仏前の釜屋半右衛門の茶屋の前でとまり、おろされた。・・・」
「宿場を出ると、行列は短い橋を渡り、刑場のある鈴ヶ森を過ぎ、再び橋を渡って大森村に入った・・・」
「その宿場で昼食を兼ねた休息をとる予定になっていて、久光の乗物は本陣の田中兵庫の家の前でおろされた。・・・」
「マーシャルたちは、前方に道いっぱいにひろがって進んでくる集団に気づき、顔色を変えた・・・マーシャル達は、馬をとめた・・・引き返そうとマーシャルが声をかけた・・・切迫した気配に落ち着きを失っていたリチャードソンの馬が列の中に踏み込んだ・・・奈良原は、長い刀を抜くと同時にリチャードソンの脇腹を深く斬り上げ、刀を返し爪先を立てて左肩から斬り下げた。・・・」
「リチャードソンの傷口からはみ出した臓腑が、路上に落ちた・・・」
「馬の動きがにぶくなり、やがてとまった。その衝撃でリチャードソンの身体がゆらぎ、馬から落ちた。・・・海江田は脇差を抜き、楽にしてやると言って、心臓の部分に深々と刃先を突き立てた・・・リチャードソンは、そのまま路上に放置された・・・」
「予定では、その日の泊りは一里前方の神奈川宿で、先触れによって久光は本陣の石井源右衛門宅で過ごすことに定まっていた。しかし、神奈川宿は海を隔てて横浜村と至近距離にあり、そこで宿泊すれば外国の将兵がボートで乗りつけ攻めてくることが予想される。神奈川宿で泊まることを避け、行列を速めて神奈川宿から一里九町先の次の宿場である程ヶ谷宿にまで行くべきだ、という結論に達した。・・・宿場役人の案内で久光の乗物は本陣の苅部清兵衛宅の前で止まった。・・・かれらの攻撃目標は本陣で、そこにいる久光の命をねらう。『それで万一を考え、和泉様(久光)を御本陣より他へお移し申し上げた方がよいのではないか、と思うが・・・』と、小松は言った。
下の写真は、本来泊まる予定だった本陣の苅部清兵衛宅跡です。
吉村昭記念文学館のホームページ