吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

「長英逃亡」を歩く

吉村昭「長英逃亡」を歩く

吉村昭の小説「長英逃亡」は、昭和58年3月から1年5ヶ月にわたって毎日新聞に連載された長編歴史小説である。

小説「長英逃亡」は、「逃亡」「医学」「蘭学者」「幕末」「史実」といった吉村昭がライフワークとしてきた題材をぎゅっと詰め込んだ、まさに吉村文学、至極の一冊と言える。

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 放火・脱獄という前代未聞の大罪を犯した高野長英に、幕府は全国に人相書と手配書をくまなく送り大捜査網をしく。その中を門人や牢内で面倒をみた侠客らに助けられ、長英は陸奥水沢に住む母との再会を果たす。その後、念願であった兵書の翻訳をしながら、米沢・伊予宇和島・広島・名古屋と転々とし、硝石精で顔を焼いて江戸に潜状中を逮捕されるまで、六年四ヶ月を緊迫の筆に描く大作。(「長英逃亡」より)

高野長英は、6年4ヵ月に及ぶ逃亡生活を送った。この地図に記した番号は、若い順から逃亡した場所(一部経路を含む)を小説に基づいて記録したものである。

長英逃亡の足跡

 この高野長英肖像画は、三河国田原藩士で画家の渡辺崋山の弟子、椿椿山(つばきちんざん)の作品。奥州市高野長英記念館が収蔵しており、国の重要文化財である。

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長英の故郷「水沢」

 文化4年(1804)、長英は水沢藩士後藤実慶の三男として生まれる。

長英9歳の時に父実慶が病気し、母は実家の高野家に戻り、長英は母の兄の水沢藩医高野幻斎の養子となる。

下の写真は、その後、長英が18歳の時、実兄が江戸に遊学する際に、養父の反対を押し切って江戸に行くまでの間住んでいた旧宅である。

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 幻斎には千越(ちお)と言う長英より2歳年下の一人娘がいて、将来、長英の妻となることが定められていた。幻斎は、「解体新書」の訳者として知られる江戸の蘭方医杉田玄白に師事し、長英もその影響で蘭学に関心をいだいた。(「長英逃亡」より)

高野長英旧宅の入口には史蹟の案内がある。

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 長英は江戸へ遊学したいという願望をおさえきれず、養父の反対を無視して穴に随行した。この時から、長英の故郷に対する背反がはじまったと言っていい。(「長英逃亡」より)

江戸では、内科専門の蘭方医吉田長淑の塾に学僕として入門し、学問に専念した。しかし、師の吉田長淑が病死したこともあり、長英は長崎で塾を開いていたシーボルトの元に行くことにした。シーボルトは入塾して間もない長英の才能を高く評価した。

長英は、天保2年、江戸にもどってから麹町の「貝坂」に塾をひらき、多くの門人にオランダ語を教えた。

場所は、平河町一丁目3番地と4番地の間を北から南へ下る坂。

坂の名の由来については二つあると言われている。

もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことから。また、甲州街道の一里塚があったので土地の人が甲斐坂と呼んだといわれている。近くには、「諏訪坂」がある。)

麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡

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標識「貝坂」の向かいにある白い建物に「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」と書かれた御影石のプレートがはめ込まれている。

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小説「長英逃亡」の書き出しは、天保15年(1844)の江戸小伝馬町の牢獄のシーンから始まる。

風が通らず、しかも数十人が押し込められている牢内は、病んだものが発する臭気と排泄物の匂いが混じり合い息もできない場所によく生きてこられたと、長英は感慨にふけっていた。5年前に入牢した長英はこの時、牢名主になっていた。

町奉行所に自首したものの、投獄された直接の原因は、目付け鳥居耀蔵(のちに南町奉行)に睨まれたからである。申し渡された刑は、死ぬまで牢での生活をさせられる永牢であった。

その要因は、田原藩士で画家の渡辺崋山との出会いにあった。崋山は、藩の財政立て直しと共に、当時頻繁に出没していた異国船に対する海防への関心から洋書を読む必要を感じていた。そして、オランダ語の才に恵まれた高野長英に翻訳を依頼したことから、長英の世界情勢への関心と幕府政治への不信が高まることにつながったのである。

渡辺崋山は、幕府の上層部の愚かさを非難した「慎機論」を書き、長英は幕府の政策をあやぶみ「夢物語」を書いた。仲間うちで回し読むものであったが発覚し、目付け鳥居耀蔵の罠にかかり、大老水野忠邦はそれを許した。世に言う「蛮社の獄」である。

 江戸小伝馬町牢獄跡

下の写真は、江戸小伝馬町牢獄跡である。現在は十思公園となっている。地下鉄「小伝馬町駅」の出口付近に位置していて、お昼時になると、お弁当を食べるサラリーマンの姿もチラホラ。

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 「伝馬町牢屋敷」は現在の中央区日本橋小伝馬町3~5丁目を占めていた。面積は2,618坪(8,637平方メートル)。周囲に土手を築いて堀を巡らし、土塀に囲まれていた。十思公園には、平成24年の発掘調査で出土した牢屋敷の石垣が残されている。

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すでに入牢してから5年間が経過し、かれも41歳の夏をむかえている。

このまま牢内で朽ち果てたくなかった。郷里に帰った母に会い、妻の体を抱きしめ、子に頬ずりもしたかった。さらに洋書を手にし、それを読み、翻訳することも強い念願であった。(「長英逃亡」より)

 十思公園の向かいにある大安楽寺には、江戸伝馬町処刑場跡の碑がある。

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かれは考えあぐねた末、牢から逃走できる方法は、火災の折に行われる切放しを利用する以外にない、と判断した。(「長英逃亡」より)

長英は、牢屋敷に出入りする栄蔵に牢屋敷の御様場(おためしば)に火付けを頼んだ。礼金として十両を用意していることも伝えた。栄蔵は、長英が指示した通りに牢屋敷の御様場に火を放った。

御奉行石出帯刀はこれまでの例に従って、「切放し」を命じた。そして、三日を限りに本所回向院に戻るよう囚人たちに伝えた。通常、予定通りに戻った者は刑が軽減されるが、火付けをした者は例外なく極刑である。江戸市中引き廻しの上、火あぶりの刑となる。

長英の逃亡が始まる

長英を落とし入れた南町奉行鳥居耀蔵の耳にもそのことは伝わっており、草の根分けても探し出す手を緩めることがないと承知していた。

長英は、大槻俊斎宅を経て、牛込見附から北にのぼる神楽坂を早足で歩いた。そして、赤城神社の境内の一隅に住む漢方医加藤宗俊の家で身なりを整えた。下の写真は、現在の牛込見附から神楽坂を撮ったもの。今では、おしゃれな街として紹介されることが多い。

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 神楽坂を登りきったところに赤城神社がある。当時は、この付近一帯、火災に見舞われ、社殿も礎石だけとなっていた。

この境内の一隅に、漢方医加藤宗俊の家があったと思われる。加藤宗俊の家では、好意に甘え、疲れ果てた身体を休め、空腹を満たし、眠り込んだ。

神楽坂 赤城神社

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その後、紀伊国坂にある尚歯会の主宰者遠藤勝助、弟子で和算家の内田弥太郎宅に立ち寄った。

鳥居耀蔵は、長英が江戸市中にとどまっていると考え、探索の網を市中各方面に張り巡らせていた。特に内田弥太郎は捜査の上でマークされている一人。

危険を察知した長英は、内田弥太郎宅を離れ、牢屋敷で知り合った斎藤三平が住む向島小梅村の料亭大七にある隠し部屋に暫くのあいだ身を寄せることにした。

暫くして、捜査の様子から江戸を抜け出す時を迎え、内田弥太郎の助言もあって、中山道を使って江戸を離れることに。

板橋宿 水村玄銅(長民)宅

板橋宿に向けて舟で隅田川を遡った。訪れた先は、板橋宿で代々医科を営んでいた水村玄銅の家であった。長英の門弟である。場所は板橋宿塾の仲宿で、賑やかな街道だけに監視の目が厳しいことが危ぶまれた。

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板橋宿仲宿は、東京メトロ三田線の板場区役所前から5分ほどのところにある。

少し前まで、水村玄銅宅のあった場所には、石神医院があり、その玄関口に「高野長英の隠れ家」として跡碑が建てられていたが、半年前に、マンションが建てられ、今は石神医院も、跡碑も見当たらない。付近一帯の街道沿いは新しいマンションが立ち並び、昔の面影が薄れてきている。

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現在は、街路樹の植え込みに案内板が建てられているだけとなっている。案内板が少し高い位置にあるので見過ごしてしまうかもしれない。場所は、ライフ仲宿店の向かいにある。ちなみにライフ仲宿店の建物の脇に板橋宿本陣跡の石碑が残っている。

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 現存する高野隆仙の「旧高野家離座敷」

長英は、水村玄銅の案内で、武州安達郡大間木村(現 さいたま市緑区大間木)に住む水村玄銅の兄、医科高野隆仙の元に訪れた。

隆仙は、長崎に留学してオランダ語を学び、大間木に戻ってから江戸に赴き、長英に蘭学を学んでいる。

下の写真は、当時、長英が暫くの間匿ってもらっていた高野隆仙の離座敷だ。高野家から寄贈された「旧高野家離座敷」は、現在、浦和くらしの博物館民家園として良好に保存されている。

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 開館日は毎週土日で午前9時から午後4時30分。住所は、さいたま市緑区大間木82-2。

問い合わせ先は浦和くらしの博物館民家園で、048(878)5025

ホームページはこちら さいたま市/旧高野家離座敷

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 「こちらへ・・・」隆仙は、廊下を歩き、独立した離れ家に長英を引き入れた。四畳半、三畳の部屋の奥に書籍のつまれた二畳の部屋があった。見事な茶道具が部屋の隅におかれていた。・・・

「先生が牢破りをしたと言う噂はしきりですが、代官所の役人も参らず、今のところ、御懸念はないと存じます。何日でも、この部屋にご滞在下さい」隆仙は、おだやかな表情で答えた。(「長英逃亡」より)

長英は、久しぶりにゆったりとした気持ちになれたが、長くは続かなかった。

「困ったことになりました」隆仙が、低い声で言った。

「なにか?」長英は、体をかたくした。

「実は、妻に外をそれとなく注意させておりましたところ、岩という岡っ引きがこの離家をうかがっているのに気がつきました」(「長英逃亡」より)

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隆仙は、長英を大宮の小島平兵衛宅に預けると、浦和の自宅に戻った。

隆仙の予想は的中し、代官所の詰所に連行された。

代官所の取調べでも、隆仙は長英を匿ったことは一切ないと否定した。役人たちは、笞打ちや石抱えの過酷な拷問を繰り返し、自白を強要したが、否定し続け、百日目に釈放された。隆仙は、拷問によって障害が生じ、48歳で死去するまで体は不自由なままであった。

武州大間木村から、上州、越後を通り、母が待つ奥州へ

 長英は、小島平兵衛宅で一夜を過ごし、上州境村の蘭方医村上随憲宅を目指した。上州には、多くの優れた医科が輩出し、シーボルト門下屈指の蘭学者である長英に師事する者が多かった。長英は、上州中之条町から清水峠を越え、越後の直江津今町にいる小林百哺(ひゃっぽ)宅に行った。その後、阿賀野川を舟でさかのぼり、母のいる奥州に向かった。写真は奥州を流れる北上川

陸奥国前沢で念願の母との再会を果たした長英は、福島、米沢を巡った。

その頃、暗黒政治を推進した鳥居耀蔵は、失脚し、南町奉行職を追われ、厳しい訊問を受けていた。判決は、讃岐丸亀に配流であった。

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奥州から、江戸に戻り、七年振りに妻ゆきの元へ

 長英は、監視の目が緩やかになったことから、会津道、日光街道を通って再び江戸に入った。長英は、内田弥太郎の手引きを受け、七年振りに妻のゆき、娘のもととの再会を果たす。長英の長年の願いは、オランダ語の兵書の翻訳であった。

江戸での生活に身の危険を感じた長英は、尚歯会のメンバーの一人、伊豆代官の江川英龍に頼み、伊豆代官の支配下である相模国にしばらく身を隠した。

藩主伊達宗城に招かれ、宇和島

その頃、洋式の軍備強化を目指していた宇和島藩伊達宗城は、オランダ語の兵書の翻訳を精力的に行なっていた高野長英宇和島に招き入れたいと考えていた。

長英は伊達宗城の意向を受け入れ、宇和島への長旅に出た。

宇和島での滞在は一年だったが、その間、洋学書を翻訳し、伊達宗城が進めていた宇和島砲台構築地の選定、測量、設計を行い、藩主宗城をはじめ藩士たちに大いに喜ばれた。それもつかの間、幕府に、長英が宇和島に潜入していることを知られてしまう。

長英は、宇和島を離れる前に卯之町にいる二宮敬作に会うことにした。二宮敬作とは長崎のシーボルト鳴滝塾の同門の仲であった。卯之町を後にし、瀬戸内海を渡り、広島城下の藩医後藤松軒宅に身を寄せることにした。

この間、老中阿部正弘の主導の下、幕府は海防問題に本格的に取り組みはじめていた。長英は、老中阿部正弘が西洋の知識を積極的に得ようとしている進取的な人物であることを知っていた。また、江戸では長英の探索の動きが見られないことも聞き及んでいたことから、老中阿部正弘が自分の罪を不問にするのではないかというかすかな期待も膨らんでいた。

再び江戸に戻り、町医者になるため、顔を焼いた長英

長英は、広島を離れ、東海道を通って、江戸に再び戻った。

江戸では、オランダ語の翻訳の仕事も絶え、長英は、家族を養うために町医者を志すことにした。 長英は、シーボルトの高弟として西洋医術を身に付け、豊かな知識と経験を備えていた。

町医として過ごすには、多くの者と接するため、無謀なことであることもわかっていた。残された道は、硝石精で顔を焼くことであった。

ためらいはなかった。瓶をかたむけ、硝石精を頰に思い切ってふりかけた。目の前に炎がひろがった。かれの口から野獣の声に似た叫び声がふき出し、体が後ろに倒れた。頰をおさえた手に痛みが走った。かれは、肉の焼ける匂いと赤い煙につつまれながらころげまわった。(「長英逃亡」より)

  町医者となって住んでいた元青山百人町は、長英の最後の隠れ家となった。現在、青山通りにある「青山スパイラル」の一角に「高野長英先生隠れ家」碑がある。

長英終焉の地「高野長英先生隠れ家」(青山スパイラル)

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 六年あまりの月日がたっていた。町医となり、再び穏やかな日が続き、百人町の同心の家にも往診をこわれることもあった。ようやく家族を養うことができるようになった矢先、南町奉行所の内部で密かな動きが起こっていた。奉行は、遠山金四郎景元であった。

同心たちの長英探索の最大の障害は、彼らが人相書きを持ってはいても長英の実際の顔を見たことがないことであった。

そこで、一人の与力の思いがけない方法で探索に踏み切ることになった。それは、小伝馬町の牢で長英と過ごした経験のある上州無宿の元一という囚人を利用することであった。

診療を終えて外に出た長英は、足をはやめて家に通じる道を歩いた。角雲寺の前にさしかかった時、前方から菅笠をかぶった小柄な男が近づき、かたわらを過ぎた。不意に背後から声をかけられ、長英はふりかえった。一瞬、ききちがいかと耳を疑ったが、お頭、と呼ばれたような気がした。

「やはりお頭でごさいますね」

「どなたかな」長英は、警戒しながらたずねた。

「上州無宿の元一でございますよ」男は、ひきつれた顔で答えた。

「「元一か、おぼえておる」長英は、うなずいた。 

 南町奉行所には、異様な緊張感が張り詰めていた。

元一は、密かに尾行していた岡っ引きに、今、会った男が牢名主をしていた高野長英であることを伝えた。

家の所在を確認すると、元一とともに、奉行所へ急いだ。(「長英逃亡」より)

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(碑文)

都旧跡 高野長英先生隠れ家

ここは昔の青山百人町与力小島持ち家で、質屋伊勢屋の隠れ屋、先生の隠れ家、又最後の処である。時は嘉永3年(1850)10月30日夜であった。この度、青山善光寺の碑の再建に際しここを表彰する。1964年

 

南町奉行所は、物々しい空気につつまれていた。与力の指示で、一番手、二番手、後詰の者が三つの集団に分けられた。一番手として動く同心、中間たちは、屈強な者が選ばれた。彼らは、偽の怪我人を担ぎ込んで踏み込む手はずになっていた。腰には十手を差し込んでいた。

戸が、静かに開かれた。「喧嘩による怪我人か」長英は、つぶやくように言うと、中に担ぎ入れるよう促した。

その瞬間、不意に男が勢いよく半身を起こし、「御用」と叫び、長英に組みついた。 

 長英の顔と体にに同心たちの十手が荒々しく降り下ろされ、たちまち頭と顔から血がふき出した。

久保町をぬけ、赤坂を過ぎた頃、長英の呻き声が高まり、尾をひくように続いたが、そのまま絶えた 。

与力たちは、責任を追求されることを恐れ、協議した末、死因が十手の乱打による者ではないという報告をすることを決めた。自ら喉を突き、それが致命傷になって死亡したということにした。(「長英逃亡」より)

南命山善光寺「高野長英の碑」

北青山にある南命山善光寺の山門を入った脇に「高野長英の碑」がある。長英終焉の地の石碑がある青山スパイラルからほど近い。

善光寺は、かつては谷中にあった。善光寺第109世大蓮社光忍円誉智慶が徳川家康に請願して江戸谷中に7500坪の土地の寄進を受けて、伽藍を建立した。谷中の旧地は玉林寺付近で、今でも「善光寺坂」と坂の名にその名残をとどめている。

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高野長英の名誉が回復されたのは、没後48年たった明治31年のことであった。青山にある善光寺の境内には、顕彰碑がある。勝海舟による撰文である。

高野長英の碑
先生は岩手県水沢に生れ長崎でオランダ語と医学をおさめ西洋の科学と文化の進歩しておることを知り、発奮してこれらの学術を我国に早く広めようと貧苦の中に学徳を積んだ開国の先覚者であるその間に多くの門人を教え、又、訳書や著書八十餘を作ったが「夢物語」で幕府の疑いを受け遂に禁獄の身となり、47才で不幸な最後をとげた。最後の処は今の青山南町6丁目43の隠れ家で遺体の行方もわからなかったが明治31年先生に正四位が贈られたので、同郷人等が発起してこの寺に勝海舟の文の碑を建てた処、昭和戦災で大部分こわれた。よってここに残った元の碑の一部を保存し再建する。昭和39年(1964)10月

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 長英の遺体は塩漬けにされた。改めて死罪の申渡しを受け、遺体はしきたりにしたがって斬首されることになった。斬首された遺体は千住小塚原刑場の取捨て場に送られた。

長英の墓がある水沢 大安寺

下の写真は、長英の墓標が建つ水沢の大安寺である。

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明治12年(1879)10月30日、水沢の大安寺境内にある高野家累代の墓地に高野長英の墓が建てられた。昭和11年(1936)10月30日に長英の肖像と垢つきの小布片を霊体として陶器に入れて新しい墓を建てた。f:id:mondo7:20180618101422j:plain

水沢に行った際に、高野長英記念館を見学した。

奥州市高野長英記念館

高野長英記念館は、郷土の先覚者としてその偉業を顕彰する記念館として昭和46年に開館された。記念館には、訳書、著書、手紙、遺品など約200点を展示している。その中には、長英が獄中で書いた「爪書の詩」や「砲家必読」全11巻などの貴重な資料も所蔵している。

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ホームページはこちら高野長英記念館

 高野長英の碑は、長英を郷土の先覚者として、その偉業を称え、顕彰したものである。

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 アジサイ高野長英の恩師シーボルトがこよなく愛した花である。牧野富太郎博士は、シーボルトが愛した妻の名前(おたき)を入れ学名とした。高野長英記念館敷地にふさわしい植物の一つである。f:id:mondo7:20180618101741j:plain

●参考にした書籍

吉村昭「長英逃亡」上下(新潮文庫)

吉村昭「史実を歩く」(文春文庫)

吉村昭「歴史を記録する」(河出書房新社)

佐藤昌介「高野長英」(岩波新書)