吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

歴史小説「間宮林蔵」の郷里を訪ねて

間宮林蔵の郷里を訪ねて 

 吉村昭の小説「間宮林蔵」は、文化4年(1807)4月、千島エトロフ島のオホーツク沿岸にあるシャナの海岸にロシア軍艦が現れ、シャナ村を襲撃し、箱館奉行所支配下にある会食(砦)の役人全員が逃避するという事件から始まります。

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 間宮林蔵の郷里は、茨城県つくばみらい市上平柳。生家は、小貝川の岡堰の近くにあります。現在は、つくばみらい市により「間宮林蔵記念館」として保存されています。
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 ロシア軍艦によって襲撃され、シャナ村を逃避した役人はその後、自刃したり、処罰される中、間宮林蔵は、幕府からのお咎めもなく、逆に幕府から現在の樺太の踏査を命じられます。単独の踏査を含め2回にわたり、未踏の地「樺太」の探検に赴くのです。

 その結果、樺太が半島ではなく、島であることを証明し、樺太および蝦夷地全体の測量を行い、蝦夷地地図を作成したのです。ちなみに大陸と島の間にある海峡は、「間宮海峡」とシーボルトにより世界に紹介され世界地図にその名を残します。

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  19世紀初め、蝦夷地は十分な踏査がなされておらず、未開の地でした。また、ロシア軍艦が度々蝦夷地沿岸や千島列島に現れ、村々を襲撃するという事件もあって、幕府にとって樺太の領地所有の実態を正確に掴む必要があったのです。 

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 「間宮林蔵記念館」は、資料が見やすく展示されています。車を利用する方は、間宮林蔵の師匠に当たる伊能忠敬の記念館も千葉県香取市にあるので、併せて見学するのも良いかもしれません。

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 記念館に隣接して間宮林蔵の生家があります。

 林蔵は、幼い頃、幕府役人が小貝川の河川工事をしていた時、林蔵の才能に驚き、江戸に出て行くきっかけとなります。

 その後、蝦夷地を中心に測量を行う他、全国各地を隠密として行脚することとなるのです。林蔵は立ち寄ることはあったものの、生家で暮らすことはありませんでした。

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 茅葺き屋根の生家も自由に見学することができます。

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www.city.tsukubamirai.lg.jp

間宮林蔵の墓地

 「間宮林蔵記念館」から200メートルほど離れたところに専称寺というお寺があります。幼い頃、林蔵は寺子屋だった専称寺に通い読み書き算盤を学びました。

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 幕府から海防担当の命を受け、蝦夷地をはじめ、全国を歩き回っていた林蔵は両親の臨終に立ち会うことはできませんでした。この専称寺本堂で法要が営まれました。

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 専称寺本堂の前の緑に囲まれた場所に、間宮林蔵とご両親のお墓があります。

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 小高い丘を上がると、明治37年に正五位贈位を受けた後、明治43年に建立された間宮林蔵の顕彰記念碑があります。

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 顕彰記念碑の後ろに、間宮林蔵の墓があります。向かって右は両親の墓で、左側が間宮林蔵の墓です。この墓は、文化4年(1807)、決死の覚悟で樺太探検に出発するにあたり、林蔵自ら建立した生前の墓です。身分の低い武士に合った百姓並みの墓です。

 林蔵は、天保15年(1844)、波乱に満ちた65歳の生涯をこの地に遺骨が納められ、眠っています。墓地の背後には、小貝川が流れています。

 吉村昭は、小説「間宮林蔵」のあとがきで次のように書いています。

 林蔵の墓石について、様々な推測がなされている。林蔵の故郷の専称寺に、間宮林蔵墓と刻まれた墓碑がある。問題は、墓石の両側面に刻まれている二人の女性の戒名である。

 右側面には林誉妙慶信女、左側面に養誉善生信女とある。林誉妙慶信女は専称寺過去帳に記載され、庄兵衛娵と記されている。庄兵衛は林蔵の父であるから、その戒名の女性は林蔵の妻ということになる。が、林蔵は妻帯した気配がなく、両親が、旅に明け暮れて故郷に変えることのない林蔵の嫁として家に入れた女性とかんがえられる。・・・

 養誉善生信女とは、どんな女性であったのか。寺の過去帳にはないが、墓碑に刻まれているのだから、林蔵の妻と考えられる。

 林蔵の故郷には、第二回目の樺太探検後、アイヌの娘を妻とし、故郷に連れ帰ってきたという伝承がある。戒名の女性は、その娘ではないかという。・・・それを裏付ける確証がないので採用することはしなかった。

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小貝川の岡堰

 専称寺を後に、小貝川の反対側に移動しました。前方に見えるのが小貝川の岡堰です。幾度も氾濫を起こした小貝川は、田畑にとって命の水源だったのです。

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 小貝川の中島には最近整備された岡堰記念公園があります。周囲の紅葉が綺麗です。

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 江戸時代以降、岡堰は小貝川の氾濫により、幾度も壊されます。田畑に水を引くために欠かせなかった岡堰は煉瓦からコンクリートに製法を変え、改築されていきました。公園には、その一部が野外展示されています。

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 公園の中には、岡堰の史跡と一緒に間宮林蔵の記念のブロンズ像があります。

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師匠伊能忠敬との接点

 間宮林蔵の測量技術は、伊能忠敬から学んだものです。

 下の写真は、深川黒江町にある伊能忠敬の住居跡碑です。伊能忠敬は、千葉県小関村の生まれで、18歳の時に江戸に出て、平山左忠次の名で昌平坂の学問所に入ります。その年、酒造業を営む伊能家の養子に入り、、やがて天文学への関心を深めるようになります。

 そして、50歳で家督を譲り、専門の測地術を学ぶことを志し、幕府天文方高橋至時(当時31歳)の門に入ります。当時、蝦夷地の地図は粗末なものしかなかったため、高橋至時の勧めで幕府に蝦夷地の調査を願い出るのです。

 結局、幕府は許可はするものの、費用は出さなかったため、自費で箱館、室蘭、釧路、厚岸、に達し、箱館に戻るのですが、蝦夷地にいた間宮林蔵はその際、伊能忠敬に会っているのです。

 林蔵は、樺太蝦夷地の調査、地図の作成を終え、江戸深川蛤町に住むようになってからは、深川黒江町に住んでいた忠敬の住まいに度々通い、忠敬から測量法を学んでいいました。

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 伊能忠敬やその師匠である高橋至時の墓は、浅草の源空寺にあります。明暦の大火で湯島から浅草に移転した浄土宗のお寺です。台東区東上野6-19-2

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 伊能忠敬のお墓です。測量学の師匠高橋至時のお墓も隣にあります。これは、偶然ではなく、忠敬が高橋至時が眠っている源空寺に埋葬してほしいと願っていたからなんです。

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 間宮林蔵シーボルト事件

 樺太蝦夷地の測量を行い、地図を作成した林蔵は、幕府から海防関係の隠密の命を受け、東日本の沿岸や九州、伊豆七島と全国を歩きます。

 深川で体調を整えていたある日、高橋至時の息子の高橋作左衛門(景保)から小包が届きます。中身はシーボルトからの書簡と贈答でした。

 シーホルトとの面識のない林蔵は小包を上司の勘定奉行村垣淡路守に届けるのですが、それがきっかけで、高橋作左衛門(景保)がシーホルトに国禁である日本地図を譲渡していたことがわかり、高橋作左衛門(景保)は獄中で亡くなり、その他、多くの学者たちが処罰されていきます。また、シーボルトは、日本地図を没収され、国外追放となるのです(実際には、すでに日本地図は海外に持ち出されていたのですが・・・)。

 この事件により、周囲から、林蔵は自分の栄達のために密告したと噂されるということになります。歴史にも登場する「シーボルト事件」です。

 都内にもシーポルトの記念の胸像があります。場所は、中央区築地のあかつき公園です。直接、シーボルトとこの地は関係があるわけではありませんが、この地が江戸蘭学発祥の地であり、娘のいねが築地に産院を開業したことなどから建てられたもののようてす。

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 東京にある間宮林蔵の墓地

 間宮林蔵は生涯独り身でした。そのため間宮家を継がせるため、茨城伊奈間宮家(上平柳)として、分家から哲三郎を養子にもらい、現在も子孫に引き継がれています。

 また、江戸の普請役の家督は、勘定奉行戸川播磨守が浅草の札差青柳家の鉄二郎に目を付け、引き継がせます。子孫の方の情報はわかりません。

 晩年、林蔵は深川蛤町に住まいを持っていたことから、江東区平野2丁目7-8にも墓が建てられました。墓の管理は、近くにある本立院が行なっていて、この墓には、林蔵の遺体の一部が埋葬されているということです。

 墓石の正面には「間宮林蔵蕪崇之墓」と刻まれています。この墓標は水戸徳川藩主徳川斉昭が選したものと言われています。林蔵が江戸にいる頃、水戸徳川斉昭は、蝦夷地を領地にしたいと考えを持っており、林蔵に蝦夷地やロシアのことを聴取していた縁からかもしれないと思います。

 最初に作られた墓石は昭和20310日の東京大空襲で焼けてしまいますが、拓本が残っていたので、昭和215月に建て直されています。

 また、林蔵の墓の傍に「まみや」と刻まれた小さな墓碑が建てられています。これは、晩年、林蔵の身の回りの世話をし、看取った女性「りき」のものとされています。

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 間宮林蔵の直系の子孫

 吉村昭の「間宮林蔵」は、間宮海峡を発見した間宮林蔵のその苦難の探検行をリアルに再現していて、面白かったのですが、幕府隠密として生きた晩年までの知られざる生涯が幕末の日本の事件に繋がっていくことにも驚きました。史実の闇に光を当てた傑作だと思います。

 さらに驚いたのは、インターネットで偶然見つけたニュースでした。

 2003年に間宮林蔵をしのぶ「林蔵祭」が生誕地の茨城県伊奈町で開かれ、子孫が一堂に集まったのですが、そこに、間宮林蔵の直系の子孫と前年に確認された間見谷喜昭さん(75歳、北海道旭川市)の親子が参加されていたという記事です。

 主催した間宮林蔵顕彰会によると、間見谷さんは間宮林蔵アイヌ民族の女性との間に生まれた娘の子孫。長年、間宮林蔵に直系の子孫はいないとされていましたが、2002年の郷土史研究家の調査で子孫と確認されたようです。