吉村昭の歴史小説の舞台を歩く

小説家 吉村昭さんの読書ファンの一人です。吉村昭さんの歴史記録文学の世界をご紹介します。   

吉村昭「天狗争乱」の舞台を歩く(敦賀編)

明治を待てなかった志士たち

NHK大河ドラマ「青天を衝け」で「天狗党」が登場したこともあって、天狗党が散った敦賀では天狗党ゆかりの地に再びスポットが当てられています。

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天狗党 福井パンフレット

尊皇攘夷」を掲げて決起した水戸藩の改革派「天狗党」は、なぜ厳冬の福井敦賀の地で壮絶な最期を迎えたのか、ゆかりの地には、その志と哀しみが満ちていた!

桜田門外の変から4年-守旧派に藩政の実権を握られた水戸尊攘派は農民ら千余名を組織し、筑波山に「天狗勢」を挙兵する。しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失った彼らは敬慕する徳川慶喜を頼って京都に上がることを決意。攘夷断行を掲げ、信濃、美濃を粛然と進む天狗勢だが、慶喜に見放された彼らは越前に至って非業な最期を迎える。水戸学に発した尊皇攘夷思想の末路を活写した雄編。(「天狗争乱」巻末より)

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 天狗党敦賀への道

小説「天狗争乱」は、天狗勢本隊から離れて行動していた田中愿蔵隊による栃木町での痛ましい殺傷や町の大半を焼き払うといった残虐なシーンから始まります。

田中愿蔵が焼き払った火事は「愿蔵火事」と称され、関東一帯に知れ渡ることになります。また、栃木「蔵の街」への由縁にもつながっていきます。

その後、小説「天狗争乱」では、幕末において刻々と変化する時代の波の中で「尊皇攘夷」を掲げる天狗党水戸藩の市川三左衛門ら門閥派(諸政党)や幕府軍と壮絶な闘いを繰り広げます。

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近世史略 武田耕雲斎筑波山之図 (敦賀郷土博物館所蔵)

筑波山で決起した藤田小四郎ら天狗勢とは一線を画していた武田耕雲斎でしたが、幕府軍総崩れになったのを機に、大子村で軍議を開き、目的は尊皇攘夷ということで一致していたことから、幕府や門閥派と戦うより、攘夷としての行動をすべきということで、天狗勢は、武田耕雲斎を総大将に据え、改めて体制と厳しい規律を定め、千余名の天狗党として再出発するのです。

総大将となった武田耕雲斎は、禁裏守衛総督として京都にいた慶喜の力を借りて、朝廷に尊攘の志を訴えようと、京都を目指し、中山道を西に進みます。

 

《小説「天狗争乱」の前半部分は後日「水戸編」で紹介します。》

 

武田耕雲斎らの思いをよそに、天狗党討伐の総指揮を担っていた慶喜は、長良川の岸に大垣、彦根、桑名の軍勢により強力な陣を構え、天狗勢を待ち構えていました。

待ち受ける彦根藩は、前藩主である大老井伊直弼4年前の安政7年(1860)33日に、水戸藩尊攘派の脱藩士らによって暗殺され、藩士たちは耐え難い悲しみと憤りを抱いており、水戸藩尊攘派の天狗勢に強い報復の気持ちを持っていました。

天狗勢は、三藩との衝突を避けることや、琵琶湖付近には彦根藩の軍勢が控えていることから通行できないとし、北に向かい、越前、若狭をへて京に至る道を選ぶことにしたのです。

12月8日、天狗勢は雪の降る中、大本村を発った。深い雪の中を超え、鯖江藩領の村に着いた。

村人は暖かく迎え入れた。木ノ芽峠の山道に差し掛かった。隊員は雪が腰まで没し、進むのは苦しかった。

慶喜は、追悼の任を与えられながら戦闘を回避しようとみられては、幕府の怒りを招き、自分の立場が危うくなると考え、「容赦無く、追悼皆殺し致し候様」という指令を出した。これにより、諸藩の動揺は静まり、天狗党追悼に兵を進めた。

慶喜は幕府から疑いをかけられることを恐れ、加賀藩勢に積極的に攻撃するよう促した。

天狗勢は、新保村に至って、恐るべき大軍に取り囲まれることになった。

雪がちらつく中を陣羽織を身につけた諸将が、提灯を手にして本陣の塚谷家の門をくぐり、広間に集まった。無言でいた武田が口を開いた。

「さまざまな意見、身にしみた。長州に行くというのも一案であるが、それを果たすためには一橋家に弓を引かねばならない。主人にも等しい公に、そのようなことは断じてできぬ。それよりも投降し、すべてを公にお任せするのが我らの道である。」

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現在の敦賀市新保集落 1864(元治元)年12月、木ノ芽峠を越え、新保村(敦賀市新保)に到着した天狗党は、幕府軍に包囲され、政府幕府軍先鋒の加賀藩と対峙することになりました。

 

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 新保本陣(史跡武田耕雲斎本陣跡)   武田耕雲斎は当時問屋を営んでいた塚谷家の屋敷に本陣を置きました。敦賀市指定文化財


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規模は小さいのですが、書院造で、門、式台、下段の間、上段の間を備えています。天狗党諸将との軍議や加賀藩から派遣された使者(加賀藩軍監 永原甚七郎ら)との交渉の場として利用されました。私はこうした施設が村の努力でとても綺麗に保存されていることに感動しました。

慶喜はひたすら身の安全のみを願い、加賀藩に「英気」を振るって天狗勢を攻めよとほのめかしている。

永原たちは、慶喜の冷酷さに肌寒さを感じ、そのような慶喜に取りすがって嘆願しようと願っている天狗勢を哀れに思った。

加賀藩は総攻撃を実行に移そうとしていたが、「加賀藩に身体をお任せすることにする」という武田の書状が届けられたことで中止を決定した。 

その日、加賀藩勢の本隊から新保村の天狗勢に食糧、酒が大量に送られた。

 諸藩に分散して預けることが内定していたが、加賀藩監軍の永原甚七郎は、降伏した天狗勢を彦根藩に預ければ必ず騒動になると慶喜に進言し、永原の要求通り、天狗勢を加賀藩のみに一任し、敦賀の本勝寺、長遠寺本妙寺の三寺に移すことが認可されたのです。

12月24日、雪であった。歩行が困難となったので、天狗勢を新保村から敦賀まで籠で護送した。

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本勝寺 武田耕雲斎、藤田小四郎らをはじめ、387名が預けられた。境内には、「水戸烈士幽居之寺」と刻まれた石碑が建てられている。敦賀市元町19-21

 

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長遠寺 天狗党一行90名の浪士が身を寄せていた。敦賀市元町18-25

 

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本妙寺  耕雲斎の次男である武田魁介ら天狗党一行346名が収容された。敦賀市元町13-12

 

正月一日は快晴であった。本勝寺の客殿に武田耕雲斎らがいた。加賀藩勢からは三寺に屠蘇として酒樽が持ちこまれ、鏡餅が配られた。総勢823人であった。

四日からは足袋、煙草、ちり紙も配られ、八日からは入浴もできるようになった。隊員は加賀藩の心遣いに感謝した。 

永原は、寛大な処置になるよう働きかけるため、不破を京都に向かわせた。翌日、最も恐れていたことが現実になった。

幕府から永原に、近々、目付黒川、目付滝沢、幕府の追討軍総括の田沼意尊敦賀に行き、天狗勢の取り調べを行うので、警備を厳しくするようにという通達があった。

永原は追悼軍総督の慶喜の指揮で行動しているので、田沼の指図を受け入れることはできないと回答した。 

書面が届いた。そこには、慶喜が田沼と話し合った結果、天狗勢の身柄を田沼に引き渡すことに同意したと記されていた。

田沼からは天下の世評があるので、公平に扱わなければならない、世の人が納得するような処置をとりたいという言葉に慶喜は即座に同意したというのである。

加賀、福井、彦根、小浜の四藩に引き渡しが行われ、連れて行ったところは、船町に建てられた鰊の飼料を入れておく土蔵であった。

一人一人足かせがはめられた。戸も窓も板が打ち付けられているので、蔵の中は暗く、肥料用の鰊の強烈な異臭と、排泄物の臭いも加わって、堪え難いものがあった。布団も与えられないので、身を寄せ合った。

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鯡蔵 加賀藩による寺院への収容の後、幕府が天狗党一行823名を監禁した鯡蔵の一つ。敦賀市内に唯一残る近世期の敦賀港で使われた倉庫。水戸烈士記念館として天狗党の悲劇を現代に伝える。2020年に市指定文化財となった。2021年中に解体調査予定。敦賀市松原町2

 

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松原神社 1875(明治8)年に、武田耕雲斎ら411柱の浪士を祀るために創建された神社。境内に天狗党一行823名を監禁した鯡蔵の一つが移築された。敦賀市松原町2

 

幕府の追討軍総括田沼意は、慶喜、朝廷が助命の動きを起こすことを予想し、その日のうちに処刑を断行することを決定し、処刑は斬首として、来迎寺の境内で行なった。

幕府役人は、福井、彦根、小浜に首切り太刀取りを命じたが、福井藩は断わり、帰ってしまった。

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永覚寺 鯡蔵での過酷な環境で天狗党一行を拘束した後、幕府はこの永覚寺に法廷(仮白洲)を設置し、簡易な取り調べを行なった。353名に斬首が言い渡され、およそ470名が追放などに処された。敦賀市金ケ崎町2-31

 

幕府の追討軍総括田沼意は、短期間のうちに大量の斬首を行なった。

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武田、山国、田丸、藤田の首は桶に入れられ、塩漬けにされ、江戸を経て、水戸に送られた。

道筋は武田らが通過した中山道を逆に辿った。これは、幕府の権威を示すためであった。

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来迎寺  戦国時代には大谷吉継からの帰依を受けた寺院。この来迎寺の西側に位置する「来迎寺野」と呼ばれる場所てで、武田耕雲斎をはじめとする浪士353名が幕府によって処刑された。敦賀市松原町2-5-32

 

352人が斬首となった。このような大量斬首は全く前例がないものであった。

全員死罪との噂がでた頃、永厳寺の住職龍道は幼いものの命を救おうと15歳以下の子供を徒弟とするため引き取らせて欲しいと町奉行所に嘆願し、10人が引き取られた。 

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永厳寺(ようごんじ) 1413(応永20)年に創建。天狗党には少年たちが同行しており、この少年らの行く末を不憫に思った住職が奉行所に申し入れ、十数名を仏弟子として引き取った。敦賀市金ケ崎町15-21

 

敦賀での352人という例を見ない大量の斬首は大きな波紋となって広がった。

この斬首刑が行われたのは、一橋慶喜が天狗勢を田沼意尊にその身柄を引き渡したことによるもので、慶喜に対する非難が一斉に起こり、その側近すらも慶喜が人情にかけている、と顔をしかめていた。

天狗勢は、慶喜ならば自分たちの意思を必ず理解してくれると信じ、京をめざして長い苦難の旅を続けたが、結果的に慶喜はすげなくそれを振り払った。

慶喜は、幕府の心証を好ましいものにするため、自分に取りすがってきた天狗勢を冷たく突き放したのだ。

※処刑者等の人数は、小説と現地資料等で誤差がありますが、原文に沿って記述しています。

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武田耕雲斎等墓 松原神社の近くにある墳墓。1934(昭和9)年には、国の史跡に指定された。墳墓のすぐそばには、1978(昭和53)年につくられた武田耕雲斎銅像が立つ。墳墓の近くに、音声ガイドが置かれていて、水戸天狗党の悲劇を知ることができる。ナレーションは敦賀市出身の俳優大和田伸也。人気テレビドラマ「水戸黄門」の格さんを演じていたことも何かの縁かもしれない。敦賀市松原町2-9

 

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武田耕雲斎をはじめとした幹部24名をはじめ、幕府が下した斬首刑により敦賀で命を落とした353名の名前が墓石に刻まれている。さらに行軍中に討ち死にした21名、病死した31名の天狗党一行の名前も残っている。

 

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墳墓の周りには、水戸烈士にちなんで、水戸偕楽園から梅が献木されている。敦賀市水戸市姉妹都市にもなっている。

 

尊皇攘夷の思想を信奉する者も反対する者も、思想から離れて、釈明の機会を一切与えずに大量処刑した幕府の残虐さに、その政治体制が明らかに末期にあるのを強く感じたのである。

幕府は薩摩藩に船を敦賀に回して五島列島に護送するよう命じたが、天狗勢の大量処刑に憤りを感じていた薩摩藩は拒否を決定し、西郷隆盛が幕府に対し、「道理において、出来兼ねますので断乎お断り申す」と伝えた。

このようなこともあって、幕府は武田金次郎ら遠島刑の者の罪を免じたのである。すでに幕府の権威は失われていた。

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武田耕雲斎等墓の入口に水戸烈士追悼碑がある。松原神社と来迎寺の中間に位置し、広い駐車場もある。

 

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敦賀市立博物館 旧大和田銀行の建物を活用して設置された博物館。昭和初期の銀行建築を鑑賞でき、国際港敦賀を象徴する建造物として国の重要文化財に指定されている。天狗党に関する資料も展示されている。この博物館で「平成30年度特別展 水戸天狗党敦賀に散る」(1,000円)の図録を入手しました。とても良い資料です。

 

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敦賀市は古代から天然の良港として北陸と畿内、東海、そして大陸を結ぶ海陸交通の要所として発展してきた。江戸時代には北前船の交易拠点だった。2代目大和田荘七によって建てられたもので、その子孫には俳優大和田伸也がいる。

 

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博物館の入口には、当時の銀行のカウンターがそのままの形で保存されている。見学した日は特集展示「天狗党武田耕雲斎からの手紙〜」が行われていたので、天狗党に関する実際の資料を見ることができた。特に、NHk大河ドラマ「青天を衝く」で天狗党が描かれていることもあって、渋沢成一郎に関する資料も展示されていた。

 

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この通りは「博物館通り」と呼ばれている場所で、当時の面影を感じさせている。

 

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敦賀の酒蔵

 

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敦賀赤レンガ倉庫 赤レンガ倉庫は、 外国人技師の設計により1905年に建てられた。当時は石油貯蔵庫として使われていた。内部は広大な空間を設けられるように柱が一本もない小屋組構造なのが特徴。2015年から港と鉄道のジオラマとレストランを備えた商業施設に生まれ変わっている。

 

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 敦賀港 敦賀港は1920年代にシベリアから救出されたポーランド孤児や、1940年代にナチスドイツ等の迫害を免れ、杉浦千畝領事代理が発給した「命のビザ」を携え上陸したユダヤ難民を迎え入れた「人道の港」でもあった。近くには史実や敦賀市民との交流のエピソードを紹介する資料館が建ち並んでいる。

 

慶応4年正月、朝廷の命令で水戸に帰ることになり、武田金次郎は同志129人とともに京都に入った。

すでに、前年、朝廷は王政復古を宣言し、その年の正月には鳥羽伏見の戦いが始まっていた。

 

武田らは428日に江戸に入り、521日に水戸に向かった。

慶応が明治に改元されたのは、98日であった。

 

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